第66話 王たちの夜会と、キングスナハト
アレイシスが去った後の部屋には、甘やかな余韻と静寂が満ちていた。
シルフィーはソファに深く沈み込み、まだ温かい紅茶の湯気を見つめたまま、ふぅと小さく息を吐いた。
10歳の少年による、人生を賭けたプロポーズ。
その熱量は凄まじく、受ける側としても相応のエネルギーを使った。
だが、感傷に浸っている時間はない。この後には、大陸の覇者たちとの会談が控えているのだから。
バンッ!
無粋な音と共に、重厚な扉が開かれた。
入ってきたのは、気怠げに欠伸をする護衛騎士、レグルス・バーンだ。
「よう。浮かれた色男は帰ったか?」
レグルスはニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、部屋の中を見回した。
さぞや舞い上がっているだろう、あるいは顔を赤くして恥じらっているだろうと予想していたのだ。
だが。
「ええ。お帰りになられましたわ。……さあ、行きましょうか、レグルス」
シルフィーはソファから立ち上がると、ドレスの裾をパンパンと払い、キリッとした表情で振り返った。
そこには、先ほどまでアレイシスに見せていた「恥じらう少女」の面影はない。
あるのは、次なる業務へと向かう「聖女」としての、迷いのない顔だけだった。
「……ああん? なんだお前、随分とサッパリしてんじゃねぇか」
「あら、どういう意味ですか?」
レグルスは頭をかいた。
「いや……もっとこう、今のプロポーズ思い出してキャーキャー言うもんじゃねぇの? 普通のガキならよ」
レグルスが不満げに眉をひそめる。
シルフィーは不思議そうに小首を傾げた。
「アレイシス様のお気持ちは、とても嬉しかったですよ? でも、次は皇帝陛下との謁見ですから。気を引き締めないと」
「……へぇ」
レグルスは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
(おチビって、本当の意味で『聖女』なんだな。……この物分かりの良さ、ある意味異常だぜ)
「ま、いいか。……恋と愛の違いってやつか? 俺もよく知らんが、お前が本気で誰かに『恋』したら、とんでもねぇ暴走しそうだな」
「何ですかそれ、不吉な予言はやめてください(笑)」
シルフィーはクスクスと笑いながら、レグルスの先導で廊下へと歩き出した。
王城の廊下は、夜の帳が下りると共に、静謐な空気に包まれていく。
カツ、カツ、と二人の足音だけが響く中、やがて最奥にある「皇帝執務室」の巨大な両開き扉の前に辿り着いた。
「入るぞ」
レグルスが短く告げ、扉を開け放つ。
室内には、重厚な執務机の奥に座る皇帝ダリウス、その隣にはアルヴァレイン国王レオニス、そして騎士団長ガルヴァンと数名の側近たちが待っていた。
「よく来てくれた、シルフィー。夜分にすまないね」
ダリウスは柔和な笑みを浮かべて迎えたが、その瞳の奥には、大陸を統べる皇帝としての鋭い光が宿っていた。
「いえ、お招きいただき光栄です。ダリウス陛下、レオニス国王陛下」
シルフィーは優雅にカーテシーを行い、入室する。
空気は張り詰めていた。これは、ただの顔合わせではない。国の未来を左右する、重要な政治会談の場だ。
「さて、単刀直入に言おう。……今回呼んだのは、極めて重要な話があってな」
ダリウスが居住まいを正す。
「明日の半成人式で……我が息子アレイシスと、聖女である君との婚約を正式に発表したいと考えている」
部屋の空気が、一段と重くなる。
側近たちが固唾を飲んでシルフィーの反応を伺う中、彼女は動じることなく、静かに微笑んだ。
「はい。アレイシス様から、先ほど伺いました」
「……ほう?」
ダリウスが少しだけ目を見開く。
てっきり驚くか、あるいは知らないふりをすると思っていたからだ。
だが、シルフィーは隠すこともなく、淡々と事実を肯定した。
「あの子から……そうか。きちんと言えたのだな」
ダリウスは嬉しそうに目を細めた後、すぐに真剣な表情へと戻り、言葉を続けた。
「そうだね。これは、単なる二人の結婚ではない。帝国が『聖女』という絶対的な平和の鍵を握り、世界の安定を主導する……政治的に極めて大きな意味を持つ戦略だ」
彼は机の上で指を組んだ。
隣に座るレオニス王も、真剣な眼差しで頷いている。
「帝国が聖女を擁することで、他国への抑止力となり、無益な争いを未然に防ぐことができる。そして隣国であり親国であるアルヴァレインにも、最大限の利益と安寧が約束されるだろう」
ダリウスは身を乗り出し、幼い少女の瞳を覗き込んだ。
「まだ5歳の君に背負わせるには、あまりに重い荷物かもしれない。だが……国の為、世界の為に、この婚約を受け入れてくれないだろうか」
皇帝からの、懇願に近い問いかけ。
本来なら、幼い少女が即答できるような内容ではない。自分の人生が、完全に国のシステムとして組み込まれることへの同意なのだから。
だが、シルフィーにとって、迷いは一切なかった。
1周目の世界でも、彼女はずっとそうしてきたのだから。
世界の平和のために。人々の安寧のために。
「はい。とても光栄なお話です」
一瞬の沈黙の後、シルフィーは即答した。
その黄金の瞳に、一点の曇りもない。
「――謹んで、お受けいたします」
「おお……!」
側近たちから安堵の溜息が漏れる。
ダリウスもレオニスも、張り詰めていた肩の力を抜き、深く椅子に背を預けた。
「よかった……。君ならそう言ってくれると信じていたが、やはりホッとするよ。……ありがとう、シルフィー」
「とんでもございません。明日の式典、楽しみにしておりますわ」
シルフィーは再び完璧な微笑みを浮かべた。
その様子を壁際で見ていたレグルスだけが、眉間の皺を深くした。
(……『謹んで』、か)
違和感が、胸に棘のように刺さる。
普通の5歳の少女が、好きな相手との婚約を認められたなら、そこは「喜んでお受けします」と言う場面ではないのか。
だが彼女は、臣下が王命を受けるかのように、あるいは聖職者が神託を受けるかのように、恭しく頭を下げた。
(おチビの目は、笑ってねぇな。……いや、違う。自分の感情が『無い』のか)
そこにあるのは、個人の喜びではなく、ただ純粋な使命感への没入。
あまりにも完璧すぎる聖女の姿に、レグルスは得体の知れない寒気を覚えた。
「では、今夜はゆっくり休んでくれ。明日は長丁場になるからな」
「はい。失礼いたします」
会談は終わり、シルフィーは退室した。
窓の外を見れば、帝都の夜景が宝石箱のように輝いている。
明日は、運命の日。
歴史が大きく動き出す、祝祭の朝がやってくる。
眠りにつく帝都を見下ろしながら、シルフィーは静かに目を閉じた。
その胸に去来するのは、ただ静かな、凪のような安らぎのみだった。




