第65話 紅茶と求婚と、アーリープロポーズ
窓の外では、帝都の美しい鐘の音が、正午を告げている。
部屋の中には、紅茶の芳醇な香りが漂っていた。
アレイシスは、差し出されたティーカップを両手で包み込むように持ち上げると、震える唇で一口含んだ。
熱い液体が喉を通り、ガチガチに固まっていた緊張を少しだけ溶かしたのだろう。彼は意を決したようにソーサーを置き、真っ直ぐにシルフィーを見つめた。
「……シルフィー。驚かずに聞いてほしい」
碧眼が揺らぎなく、黄金の瞳を捉える。
「明日、僕と君の婚約が、正式に発表されることになった」
「――え?」
シルフィーは、きょとんと目を丸くした。
思考が一瞬、空白に染まる。そして遅れて、驚愕の波が押し寄せた。
(あれ!? 婚約発表は確か、私が10歳になって……アルヴァレインで半成人式を迎える時だったはずじゃ……?)
1周目の記憶と、5年もズレている。
レグルスの暴走や、ルーカスへの介入。それらが積み重なり、歴史そのものが大きく加速しているのだ。
未来が変わった――その事実を突きつけられ、シルフィーは完全に硬直してしまった。
「し、シルフィー? 大丈夫かい?」
反応がないことに不安を覚えたのか、アレイシスが身を乗り出して気遣う。
その声で、シルフィーはハッと我に返った。
「あ、失礼しました。……そうなのですね」
「急にこんなことを言われて、驚くのも無理はない。君はまだ5歳だし、婚約と言われてもピンとこないかもしれない」
アレイシスは困ったように眉を下げ、自嘲気味に微笑んだ。
「でも、僕は……君と君が愛するこの世界を、必ず守ると誓うよ。10歳の子供が何を言ってるんだと、笑うかもしれないけれどね」
その言葉に、シルフィーの胸が小さく高鳴った。
それは、1周目の記憶にある彼が、10歳の私に向けて言った言葉と全く同じだったからだ。
年齢と場所だけが変わり、けれどその本質にある優しさと誠実さは、何も変わっていない。
(ふふっ。やっぱりアレイシス様は、どこまでいってもアレイシス様だわ)
懐かしさと安心感が、胸に温かく広がる。
シルフィーは居住まいを正すと、花の蕾がほころぶような、無垢な笑顔を向けた。
「正直、まだ『こんやく』というのはよく分かりませんが……アレイシス様と仲良くなれるのであれば、とっても嬉しいです! これからよろしくお願いしますね、アレイシス様」
ドクンッ!!
アレイシスの胸の奥で、何かが爆発した。
「仲良くなれるなら嬉しい」。その純粋すぎる肯定が、打算のない信頼が、少年の初恋に決定的な一撃を与えたのだ。
胸が締め付けられるように痛い。けれど、これ以上ないほどに甘い痛み。
「……ありがとう」
アレイシスは目元を熱くさせながら、噛み締めるように呟いた。
「シルフィーはまだ、僕のことを異性として好きかどうか分からないと思う。……だから」
彼は立ち上がり、シルフィーの前で跪くと、そっと彼女の小さな手を取った。
それは、5歳の少女に対するものではなく、一人のレディに向けられた最上級の敬愛の形。
「僕が、何年かけてでも……君に振り向いてもらえるよう、努力するよ」
チョコレートのように甘く、そして鋼のように強固な決意。
それは紛れもなく、人生をかけたプロポーズだった。
*
その頃。
感動的な空気漂う部屋の外、重厚な扉の向こう側では――二人の男が息を潜めていた。
「うぅッ……っ」
ハンカチを目元に当て、男泣きに肩を震わせているのは、帝国の最高権力者・皇帝ダリウスである。
「アレイシス……本当に、立派になって……! あの内気だった子が、これほど男らしい言葉を……っ!」
「泣くなよ爺さん。中の二人に気取られるぞ」
その横で、レグルスが呆れたように腕を組み、壁に寄りかかっていた。
「ったく、これだから孫バカは。茶化しちゃ無粋だろ。あんたはさっさと玉座に戻って、威厳たっぷりに座って待ってな。俺がいい時間になったら、おチビを連れてってやるからよ」
「レグルス……」
ダリウスは涙で濡れた目を上げた。
傍若無人な暴君だと思っていた男の、意外な気遣い。
「……お前に、気を遣うという能力があったのだな。ありがとう、そうさせてもらうよ」
「うるせぇ。さっさと行け」
レグルスがシッシッと手を振ると、ダリウスは満足げに頷き、足音を忍ばせて廊下を去っていった。
*
部屋の中。
甘やかな時間は、やがて終わりの時を迎える。
「……色々話せて、本当によかった。明日は、楽しみにしているよ」
アレイシスは名残惜しそうにシルフィーの手を離すと、扉の前で振り返り、最高の笑顔を見せた。
「ゆっくり温かくして過ごしてくれ。ごきげんよう、シルフィー」
「はい! ごきげんよう、アレイシス様」
シルフィーが手を振り返すと、アレイシスは幸せを噛み締めるように頷き、扉を開けて出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
その直後、廊下からは――タッタッタッ、と軽やかな、スキップと駆け足が混ざったような浮かれた足音が遠ざかっていった。
部屋に再び、静寂が満ちる。
シルフィーはソファに深く沈み込み、まだ温かい紅茶の湯気を見つめた。
窓の外には、どこまでも広がる帝国の青空。
風がレースのカーテンを静かに揺らしていた。




