第64話 前夜の来客と、プレリュードック
あの「庭園の嵐」から、早一ヶ月。
レグルスによる伝説の芝刈り事件は、城内で「剣帝の気まぐれな神業」として語り草となり、第二皇子ルーカスは人が変わったように剣の稽古に打ち込むようになった。
そんな平和な日々が過ぎ、いよいよ明日は、帝国が国を挙げて祝う、アレイシス第一皇子を中心とした10歳の王族貴族たちによる「半成人式」当日である。
時刻は昼下がり。
陽光が差し込む賓客用の特別室で、シルフィーは静かに本を読んでいた。
護衛のレグルスは「明日に備えて英気を養う(ただの昼寝)」と言って別室で爆睡しているため、部屋には静謐な空気が流れている。
コン、コン、コン。
礼儀正しく、控えめなノックの音が三回。
「はい、どうぞお入りください」
シルフィーが本を置き、声をかける。
重厚な扉がゆっくりと開き、姿を現したのは――きらめく金髪と、宝石のような碧眼を持つ美少年。
明日の主役である、ルーヴェル帝国第一皇子アレイシス・ルーヴェルトだった。
「お忙しいところ失礼します、聖女様。……また会えて、心から嬉しく思います」
アレイシスは部屋に入るなり、紳士的な笑みを浮かべて丁寧にお辞儀をした。
しかし、その耳は茹でダコのように真っ赤に染まっており、緊張で指先が震えているのが見て取れる。
「まあ、アレイシス様! お久しぶりですね!」
シルフィーはパッと顔を輝かせ、とてとてと小走りで彼に近づいた。
再会を純粋に喜ぶその笑顔が至近距離で弾けた瞬間、アレイシスの心臓が早鐘を打った。
「あ……」
ドキンッ!! 心臓が口から飛び出るかと思うほどの衝撃。
全身の血液が一気に顔面に集中し、アレイシスは直立不動のまま呼吸を忘れた。
(か、可愛い……! 記憶の中よりもさらに、神々しくなられている……!)
「明日はいよいよ本番ですね。今日だって挨拶回りや式典のあれこれでお忙しかったでしょうに……体調は大丈夫ですか?」
シルフィーは心配そうに彼の顔を覗き込む。
その純粋無垢な黄金の瞳と目が合った瞬間、アレイシスは「ふぐっ」と変な声を漏らして仰け反った。
「あ、いや……! じ、時間ができたので……その、貴女に会いたくて……っ」
言葉を噛み締めながら、必死に紡ぐアレイシス。
そんな彼の様子を見て、シルフィーは(まあ、明日の主役ですもの。プレッシャーで緊張していらっしゃるのね)と納得し、優しく微笑みかけた。
「お時間あるのでしたら、お紅茶を用意しますのでお座りになって! あと、私に敬語はいりませんよ! 名前も『シルフィー』と呼んでください」
トクンッ。
アレイシスの思考回路がショートした。
名前呼び。敬語なし。
年下の聖女からの親愛の証に、彼は天にも昇るような心地で頷いた。
「あ、ありがとう……。そ、それでは遠慮なく……シルフィー」
震える声で名前を呼ぶと、アレイシスはぎこちない動きでソファに腰を下ろした。
シルフィーは控えていた専属メイドたちに目配せをして下がらせると、自らティーセットを手に取り、慣れた手つきで茶葉を蒸らし始める。
「……すごいな。君は、自分で何でもできてしまうんだね」
その流れるような所作に見惚れながら、アレイシスが感嘆の声を漏らす。
シルフィーは「ふふっ」と笑いながらカップに紅茶を注ぎ、彼の前に差し出した。
「そういえば、アレイシス様」
シルフィーも対面のソファにちょこんと腰を下ろし、小首を傾げる。
「実はこの後、ダリウス陛下から呼び出しを受けているんです。『重要なお話がある』とのことなのですが……何かご存知ですか?」
1周目の記憶では、このタイミングで皇帝との個別会談など存在しなかったイベントだ。
レグルスの暴走や、ルーカスへの介入によって歴史が変わった影響だろうか。シルフィーは純粋な疑問として問いかけた。
すると、それまで溶けそうな顔をしていたアレイシスの表情が、ふと真剣なものに変わった。
彼はソーサーをテーブルに置くと、居住まいを正してシルフィーを見つめた。
「……そのことで、父上より先に、僕の口から君に伝えておきたいことがあって来たんだ」
「え? そうだったんですね! 何でしょう?」
シルフィーはキョトンとして瞬きをした。
アレイシスの碧眼には、強い決意と、隠しきれない緊張が揺らめいている。
彼は膝の上で拳を握りしめ、一度大きく深呼吸をした。
窓の外では、帝都の美しい鐘の音が響いている。
静まり返った部屋に、紅茶の甘酸っぱい香りが広がる。




