第63話 勘違いの点火と、ミスファイア
嵐が去った後の静寂。
レグルスとシルフィーが去った方向を呆然と見つめていたルーカスは、頭の中に渦巻く莫大な情報量に処理が追いつかず、立ち尽くしていた。
殴られた痛み。
否定された衝撃。
そして、目の前で見せつけられた圧倒的な力の差。
「ルーカス様」
不意に、隣に立つ騎士団長ガルヴァンが静かに声をかけた。
「……あの男が残した『結果』を、見に行きましょう」
「え……?」
ガルヴァンが芝生の方へ顎をしゃくる。
「彼が起こした竜巻の跡です。ご自身の目で確認されたほうがよろしい」
ガルヴァンに促され、ルーカスはおっかなびっくりといった足取りで芝生エリアへと近づいた。
そして、足元に視線を落とした瞬間――息を呑んだ。
「こ、これは……」
そこには、定規で測ったように均一な高さで揃えられた、美しい緑の絨毯が広がっていた。
一本の乱れもなく、完璧に刈り揃えられた芝生。
だが、ルーカスが驚愕したのはそこではない。
「花が……切れていない?」
芝生のすぐ隣、ほんの数センチしか離れていない場所に植えられた可憐な花々。
あれほどの暴風が吹き荒れたにもかかわらず、その花弁は一枚たりとも散っておらず、茎一本折れていないのだ。
「ま、魔法か……!? 風魔法で、草だけを選別したのか!?」
「いえ。魔法ではありません」
ガルヴァンは首を横に振り、厳粛な面持ちで告げた。
「あれは大剣による風圧……純粋な剣技のみで気流を操作したのです。神業、いや……『絶技』と言っても過言ではないでしょう」
「す、すげぇ……」
ルーカスはその場に膝をつき、震える指先で芝生に触れた。
ただの力任せの破壊ではない。針の穴を通すような、極限のコントロール。
「先ほど、ルーカス様はレグルス殿に『俺の一言でお前をどうとでもできる』と仰いましたな」
「っ……」
ガルヴァンの声に、容赦はない。
「ですが、現実は逆です。レグルス殿にかかれば、この帝国の軍事力など紙切れ同然。彼がその気になれば、この世界など一人でどうとでもできるのです」
ごくり、と。
ルーカスの喉が鳴った。
自分が喧嘩を売った相手が、どれほど規格外の怪物だったのか。
背筋が凍るような恐怖と同時に、胸の奥底で何かが熱く燻り始めた。
「……なぁ、ガルヴァン」
芝生を見つめたまま、ルーカスがポツリと漏らす。
「さっき、あのおっさ……レグルス様は、言っていたよな。『こんなもん、鍛えてりゃ誰でもできる』って」
ルーカスは顔を上げ、すがるような目でガルヴァンを見上げた。
「あれは……つまり、俺にもできるのか? 俺も鍛えれば、あんな風になれるのか?」
5歳の子供の、純粋な問いかけ。
常識的に考えれば「なれるわけがない」と諭すのが大人の役割だろう。レグルス・バーンは突然変異の化け物であり、常人がどれだけ努力しても到達できない領域にいる。
だが、ガルヴァンはニヤリと――口髭の下で、悪戯な笑みを浮かべた。
「はは。簡単にはなれないでしょうな」
「だよな……」
肩を落とすルーカスに、ガルヴァンは間を置いた。
「ですが」
ガルヴァンは言葉を継ぐ。
「レグルス殿は『貴方には無理だ』とは、一言も仰いませんでした」
「え?」
ガルヴァンが指を一本立てる。
「『鍛えていれば誰でもできる』。そう断言したのです。ということは、死ぬ気で努力をすれば、ルーカス様にもあのような力が手に入る……ということですぞ」
それは、明らかな詭弁だった。
レグルスは単に「(俺レベルまで)鍛えてりゃ(俺レベルの奴なら)誰でもできる」と言っただけで、ルーカスの才能など考慮していない。
しかし、この言葉の綾は、コンプレックスの塊だった少年の心に火をつけるには十分すぎた。
「……そうか。そうだったのか……!」
ルーカスの瞳から、腐ったような嫉妬の色が消え失せる。
代わりに宿ったのは、燃え上がるような闘志の炎。
「初めてだ……! 俺が第二皇子だと知った上で、手加減なしで殴ってくれたのは! そして、俺の可能性を否定しなかったのは!」
彼は完全に勘違いしていた。
あの拳骨は「愛の鞭」であり、あの言葉は「お前ならできる」というエールだったのだと、脳内で都合よく変換されていく。
「ガルヴァン! 俺はやるぞ!」
ルーカスは立ち上がり、小さな拳を空に突き上げた。
「卑怯な手で王位継承権を狙うのはもうやめる! あんな真似、レグルス様に笑われてしまうからな! 俺は……実力で、兄上を超えてみせる! 奪うのではなく勝ち取るんだ!」
「……ふむ」
ガルヴァンは満足げに頷いた。
歪んでいた若木が、強引だが真っ直ぐな支柱を得て、天に向かって伸びようとしている。
(チョロい……いや、なんと素直な気質か)
聖女シルフィーが撒いた種――物理的な拳骨と笑顔は、ガルヴァンという水やり係を得て、帝国の未来を変える大樹へと育ち始めていた。
「ルーカス様。彼のようになるには、並々ならぬ努力が必要ですぞ。それこそ、地獄のような」
「望むところだ! さあガルヴァン、まずは剣の稽古だ! 道場へ行くぞ!」
ガルヴァンが胸に手を当てる。
「はっ。御意に」
駆け出していく小さな背中を追いかけながら、歴戦の騎士団長は空を見上げた。
突き抜けるような青空の向こうに、あの破天荒な聖女と暴君の顔が浮かぶ。
(やれやれ。嵐のような賓客たちに、感謝せねばなりませんな)
こうして、帝国を揺るがすはずだった「第二皇子の反乱」の芽は、綺麗に刈り取られた芝生と共に、跡形もなく消え去ったのだった。




