第62話 10秒の神業と、テンぺッジ
「……おい、ガキ。よく見てろ」
レグルス・バーンが宣告した「10秒」の猶予。
不機嫌そうにメイドたちを下がらせた彼は、無造作に芝生エリアの中心へと足を踏み入れた。
彼が背負っているのは、分厚い布で巻かれた巨大な棒状の何か。
その布がジャラリと解かれると、露わになったのは――常識外れの質量を持つ、黒鉄の塊だった。
『大剣』。
だが、それは騎士が使うような洗練された剣ではない。魔獣の硬い甲殻を叩き割るためだけに存在する、無骨で凶悪な鉄板だ。
「な、何やってんだあいつ……! 庭の手入れに、あんな物騒なものが必要なのか!?」
ルーカスが震える声で叫ぶ。
常識的に考えれば、あんな重量物を振り回せば、雑草どころか花壇も、なんなら庭の土台ごと破壊してしまうはずだ。
だが、その疑問に答えるように、隣に立つ騎士団長ガルヴァンが低い声で告げた。
「ルーカス様。瞬き一つせず、しっかり見ておいたほうがよろしいかと」
「え……?」
ガルヴァンの視線は、レグルスから離れない。
「数年前、私が貴方様に読み聞かせた絵本を覚えておいでですか? 『魔王殺しの英雄譚』を」
ルーカスは眉をひそめた。
伝説の勇者パーティの一員であり、単身で魔王城の城門を粉砕したという、荒唐無稽な怪力男の話だ。
「な、なんで今その話を……」
ツゥーッ……と。
ルーカスの頬を、冷たい汗が伝い落ちる。
本能が警鐘を鳴らしているのだ。あの男が放つ空気が、ただの「乱暴な酔っ払い」のそれではないことに。
「その話に出てくる英雄が……」
ガルヴァンの言葉が完結するのと、レグルスの右手が動いたのは、同時だった。
ただの腕力だけで、その巨大な鉄塊を横に薙いだ。
「――ふんッ!!」
呼気と共に、黒鉄が閃く。
ゴォォォォォォォォッ!!!!
爆音。
いや、それは剣閃の音ではなかった。
大気が悲鳴を上げ、物理的に空気が弾け飛んだ音だ。
「うわぁっ!?」
強烈な暴風に煽られ、ルーカスが尻餅をつく。
視界が土煙と緑色に染まった。
一瞬。たった一瞬の出来事だった。
レグルスを中心にして、局地的な『竜巻』が発生したのだ。
「な、なに……!?」
渦巻く風の刃が、伸び放題だった雑草だけを正確に巻き上げ、空高くへと舞い上げている。
見えない巨大な龍が、庭の不要な部分だけを喰らい尽くしたかのような光景。
咲き誇る花々や、手入れされた植木には、傷一つ付いていない。
「……彼です」
暴風の中、ガルヴァンだけが不動の姿勢で立ち尽くし、言葉を続けた。
「ちなみに今のは、たった一太刀。大剣を振るった風圧のみで、気流を操作したのです。……私でさえ、目で追うのが精一杯でしたが」
「ひ、一太刀……!? 嘘だろ、俺にはただ竜巻が起こったようにしか……」
ルーカスは震える声で空を見上げた。
舞い上がった大量の草が、キラキラと太陽の光を浴びて雪のように降り注いでくる。
そのあまりに幻想的で、かつ破壊的な神業に、思考が追いつかない。
ジャキッ。
硬質な音がして、レグルスが大剣を背中の鞘に納めた。
風がピタリと止む。
そこには、涼しい顔をして鼻を鳴らす「英雄」が立っていた。
パチパチパチパチッ!!
静寂を取り戻した庭園に、軽やかな拍手の音が響いた。
シルフィーだ。彼女は目をキラキラと輝かせ、満面の笑みでレグルスを称賛した。
「お見事っ♪ 本当にお見事です、レグルス!」
「……うむ。流石は『剣帝』。衰えぬ剛剣、感服いたしました」
ガルヴァンも深く頷き、敬意を表する。
称賛の嵐に対し、当のレグルスは「けっ」とつまらなそうに鼻を鳴らした。
「こんなもん、鍛えてりゃ誰でもできるわ」
そう吐き捨てると、彼は何事もなかったように歩き出し、シルフィーの元へ戻って、彼女の首根っこを掴んでヒョイッと持ち上げた。
「わぁっ!」
「約束は守れよ、おチビ。今から調理室に行ってアテと酒をもらったら、もう今日は部屋から出ねぇ。大人しくしとけよ」
シルフィーが唇を尖らせる。
「むぅ、レグルスのいけず。……でも、わかりました! その代わり、お酒の飲み過ぎは身体に毒ですよ?」
シルフィーは慣れた様子でレグルスの肩に座り直すと、頬を膨らませた後、パッと顔を輝かせてルーカスへと振り返った。
そして、天使のような満面の笑みで大きく手を振る。
「ルーカス様! レグルスのご無礼をお許しください! またお会いしましょうねー!」
「あ……ぅ……」
ルーカスは言葉を発することもできず、ただ調理室の方角へ消えていく二人の背中を見送ることしかできなかった。
嵐のように現れ、本物の嵐を起こし、そして嵐のように去っていった。
あとに残されたのは、降り注ぐ草の雨と、呆然とする第二皇子と騎士団長のみ。
静寂が戻った庭園で、ルーカスはパクパクと口を開閉させた。
状況が理解できない。
だがあの男が、ただの「薄汚いおっさん」ではなかったことだけは、骨の髄まで理解させられた。
隣に立つガルヴァンが、ゆっくりと、恐る恐る芝生の方へと歩き出す。
その背中が、何か信じられないものを確認しようとするように強張っていた。
「ルーカス様……」
ガルヴァンの声が響く。
「……あの男が残した『結果』を、見に行きましょう」




