第60話 最強の拳骨と、ブルートレッスン
シルフィーの「天使の笑顔」による不意打ちを受け、毒気を抜かれたように立ち尽くす第二皇子ルーカス。
赤くなった顔を誤魔化すように視線を彷徨わせていた彼は、ふと我に返ったようにメイドたちを指差した。
「そ、それはそうと! この無能どもに、俺の『読書』を邪魔されたと言っていたんだ!」
「読書、ですか?」
シルフィーが小首を傾げると、ルーカスは待っていましたとばかりに捲し立てる。
「そうだ! 俺はこの芝生の上で、優雅に本を読みたかったんだ。だがどうだ、この有様は! 草木がボサボサで、これでは服が汚れてしまうじゃないか!」
「まあ……」
確かに、言われてみれば芝生の一部は少し伸びているようにも見える。だが、それは自然な生育の範囲内であり、決して手入れが放棄されているわけではない。
「だから俺は、こいつらに怒っていたんだ! さっさと草をむしれとな! なのにこいつらときたら、『道具がない』だの『担当が違う』だのと言い訳ばかりしやがって!」
ルーカスは再びヒートアップし、近くにいたメイドを睨みつけた。
理不尽な要求。そもそも、城の庭園管理は専門の庭師の管轄であり、室内の清掃や給仕を担当するメイドに草刈りを命じるのは、料理人に洗濯をしろと言うようなものだ。
そのあまりに幼く、道理の通らない主張に対し――低い、地を這うような声が割り込んだ。
「……おい、ガキ」
レグルスだ。
彼はポケットに手を突っ込んだまま、冷めた目でルーカスを見下ろしていた。
「そいつは庭師の仕事だ。屋内の雑用係であるメイドに当たり散らすのは、完全なお門違いだろ」
「なっ……!?」
あまりに正論かつ、容赦のない指摘。
図星を突かれたルーカスは、顔を沸騰したヤカンのように真っ赤に染め上げた。
「お、俺に向かってなんだその口の利き方は!!」
5歳の子供特有の甲高い金切り声が、中庭に響き渡る。
今まで周囲の大人たちは、彼がどんな理不尽を言っても「左様でございますね」と傅いてきた。兄へのコンプレックスで歪んだ自尊心は、そうやって守られてきたのだ。
それを、どこの馬の骨とも知れない男に、真正面から否定された。
「俺は帝国の第二皇子、ルーカス・ルーヴェルトだぞ! レグルスだか何だか知らないが、薄汚いおっさんの分際で! 口の利き方に気をつけろ!」
ルーカスは一歩踏み出し、震える指をレグルスの鼻先に突きつけた。
「俺の一言でお前なんか、どうとでもできるんだぞ! 今ここでお前の人生を終わらせることだってできるんだ!」
その瞬間だった。
――ゴツンッ!!!!
鈍く、重く、そして硬質な音が、鼓膜を揺らした。
「へ……?」
一瞬、世界から音が消えた。
小鳥のさえずりも、風の音も、メイドたちの悲鳴すらも。
すべてが凍りついた静寂の中、ルーカスは間抜けな声を漏らし、よろよろと数歩後退った。
視界がぐらりと揺れる。
頭のてっぺんから、脳髄を直接ハンマーで叩かれたような、熱く痺れるような衝撃が広がっていく。
「あ、ぅ……?」
ルーカスは震える手で、自分の頭頂部を押さえた。
ジンジンと脈打つ痛み。
殴られた? 俺が?
この高貴なる皇族の体に、傷一つ付けられたことのないこの俺に、暴力が振るわれた?
呆然と見上げる視線の先には、握り拳を作ったまま、鬼のような形相で見下ろすレグルスの姿があった。
「馬鹿か、お前は」
吐き捨てるような、絶対強者の声音。
「自分の無能なミスや勘違いを、権力で消せると思うなよ。……このクソガキが」
「ッ、ぁ……あ、あああああああッ!!!」
遅れてやってきた痛みと、人生で初めて「否定」されたという絶望的な事実。
それらが許容量を超え、ルーカスの目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「痛い! 痛い痛い痛い! ぶった! 父上にも兄様にもぶたれたことないのにぃぃっ!!」
地面に座り込み、両足でじたばたと暴れる第二皇子。
その姿は、もはや傲慢な暴君ではない。ただの、叱られて泣きじゃくる5歳の子供だった。
周囲のメイドたちは顔面蒼白で震え上がり、騎士団長のガルヴァンですら、「や、やりおった……」と額に手を当てて天を仰いでいる。
皇族への暴行。本来ならば即座に拘束され、極刑に処されても文句は言えない大罪だ。
だが、レグルスは微塵も悪びれる様子を見せない。
それどころか、「泣けば許されると思ってんのか」とさらに追い討ちをかけようと拳を構える始末。
張り詰めた空気。
誰もがパニックで身動きが取れない、その混沌とした状況の中。
パンッ!
乾いた、けれどよく通る柏手の音が、一つ響いた。
「――はい、そこまで」
凛とした鈴のような声が、その場の空気を一変させた。
全員の視線が、一点に集中する。
そこには、にっこりと微笑みながら両手を合わせている、慈愛の聖女シルフィーの姿があった。




