第59話 八つ当たりの皇子と、ガーデンスポット
シルフィーを乗せたレグルスは、賓客室の窓から中庭へと軽やかに着地した。
石畳にブーツが触れる音すらさせない、猫のような身のこなし。その背中で、シルフィーは「わぁっ」と小さな歓声を上げた。
「到着だ。……たく、俺をタクシー代わりに使いやがって」
「ふふっ、乗り心地は最高でしたよ? さあ、行きましょう!」
レグルスの肩車という特等席から、シルフィーは視線を巡らせる。
美しく整備された庭園の一角。
そこに、不穏な空気の中心地があった。
「この無能どもが! 花壇のラインが歪んでいると言ってるんだ! 定規を持ってこい!」
「も、申し訳ございません……!」
顔を真っ赤にして喚き散らす5歳の少年、第二皇子ルーカス。
そして、その傍らで腕を組み、やれやれと重々しいため息をついている、銀色の重厚な鎧に身を包んだ巨漢が一人。
背中には自身の身長ほどもある巨大な「塔盾」を背負った、巌のような男――帝国総騎士団長にして、『鉄壁』の異名を持つガルヴァン・クロイツェンである。
「よう、ガルヴァン。久しぶりだな。お前もチビの世話か?」
レグルスが気安い調子で声をかけると、ガルヴァンは驚いたように目を丸くし、すぐに居住まいを正して重々しく礼をとった。
「……む。これはレグルス殿。それに、肩に乗せておられるのは……」
「あぁ。俺の飼い主様だ。丁重に扱わないと噛みつかれるぞ」
肩の上のシルフィーが身を乗り出す。
「あら、ガルヴァン様! ご無沙汰しております!」
シルフィーが肩の上から無邪気に手を振ると、ガルヴァンは堅物そうな顔を少しだけ緩め、敬意を込めて一礼した。
「これは聖女シルフィー様。このような場所でお会いするとは。……お散歩中ですかな?」
「ええ! 帝国の美しいお庭で遊びたいなと思いまして!」
ガルヴァンが顎髭を撫でる。
「……左様ですか。ですが、今は少々取り込み中でしてな」
ガルヴァンが困ったように視線を向けた先には、まだ使用人に当たり散らしているルーカスの姿があった。
「ガルヴァン! 誰と話している! 俺は遊んでなどいない! 使えないメイドたちを躾けているんだ!」
ルーカスは苛立ちを露わにし、ズカズカとこちらへ歩み寄ってくる。
そして、レグルスの足元で立ち止まると、その巨体を見上げ、侮蔑を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「なんだこの者たちは。薄汚いおっさんと、子供……? ガルヴァン、部外者を城に入れるな! 品格が落ちるだろうが!」
その言葉に、レグルスの眉がピクリと跳ねる。
だが、彼が口を開くより先に、ガルヴァンが静かに、諭すような声で告げた。
「ルーカス様。言葉を慎みなされ。このお二人は、アルヴァレイン王国からの賓客……レグルス殿と、聖女シルフィー様です」
「――は?」
ルーカスの動きが止まった。
大きく見開かれた瞳が、レグルスの肩に座る少女を凝視する。
噂に聞く、伝説の聖女。兄アレイシスの婚約者であり、世界中から愛される至高の存在。
シルフィーはレグルスの肩をポンと叩き、ふわりと地面に降り立った。
そしてドレスの裾を摘み、一片の淀みもない完璧なカーテシーを披露する。
「ルーカス様、初めまして。シルフィー・エリオス・ルーメリアと申します」
顔を上げ、ルーカスの瞳を真っ直ぐに見つめる。
そこにあるのは、彼が恐れていた「兄と比較する目」でも、周囲が向ける「腫れ物を触るような目」でもない。
ただ純粋な好意と、慈愛に満ちた――すべてを受け入れるような、『天使の笑顔』だった。
「これから短い間ですが、どうか仲良くしてくださいね?」
ドクンッ。
ルーカスの心臓が、痛いくらいに跳ねた。
なんだ、この女は。
俺の威圧が全く通じない。それどころか、俺の癇癪も、醜い嫉妬も、すべて無かったことのように微笑みかけてくる。
その圧倒的な「光」に当てられ、ルーカスは一瞬たじろぎかけたが、すぐにプライドで踏みとどまる。
「ふ、ふん! ……この僕……いや、俺に挨拶するとは殊勝な心がけだ!」
ルーカスは動揺を隠すように胸を張り、震える声で虚勢を張った。
「いいだろう! このルーカス様が、特別に宜しくしてやろう! 聖女とはいえ、俺の許可なく庭を歩けると思うなよ! ……う、嬉しく思え!」
精いっぱいのマウント。
普通の令嬢なら引くか、あるいは苦笑するところだ。
だが、シルフィーは――
「はい! とっても嬉しいです!」
即答だった。
しかも、花が咲くような満面の笑みで。
「うっ……!?」
予想外の反応に、ルーカスは言葉を詰まらせた。
嫌味も皮肉も通じない。ただ「嬉しい」と返されただけで、振り上げた拳の行き場がなくなり、顔がカァッと熱くなる。
「な、なんだよお前……変な奴だな……」
もごもごと口ごもり、視線を逸らすルーカス。その耳まで赤くなっている様子を見て、背後のレグルスは呆れたように独りごちた。
(……チョロすぎんだろ、このクソガキ)
レグルスは肩をすくめた。
魔法も、権力も使っていない。
ただ「微笑んだ」だけで、未来の暴君候補の毒気が、綺麗さっぱり抜かれている。
(聖女の力なんかなくたって、こいつはこの笑顔と度胸だけで帝国を支配しちまうかもしれねぇな。……末恐ろしいガキだぜ、ったく)




