第58話 帝都の空と、ノイズオブグレア
ルーヴェル帝国の空は、どこまでも高く、残酷なほどに澄み渡っていた。
一年中曇天が多いアルヴァレイン王国とは対照的な、突き抜けるような青。
だが、賓客用としてあてがわれた王城の特別室で、シルフィーは落ち着きなくふかふかの絨毯を踏みしめていた。
「……あぁ、もう! レンは大丈夫かしら。ご飯はちゃんと食べた? 寂しくて泣いてない? それとも、もうナタリー様に剥製にされていたり……!」
「妄想がうるせぇよ、おチビ。せっかくの極上ワインが不味くなる」
部屋のソファで、レグルスが勝手に王家秘蔵のボトルを開け、グラスを揺らしている。
長旅の疲れなど微塵も感じさせないその太々しい態度に、シルフィーはジト目を向けた。
「レグルスは心配じゃないんですか? あのナタリー様ですよ?」
「だから言っただろ。レンならピンピンしてるよ。さっきカイから『魔導連絡機』に通信が入ってた。『レンはナタリーの所で、専属メイドのアリスにしごかれてる』ってな」
シルフィーが目を瞬かせる。
「……アリスさんが?」
その名を聞いて、シルフィーはほう、と胸を撫で下ろした。
アリス・シュタリエ。ナタリーの専属メイドでありながら、その実直さと完璧な仕事ぶりは他国にまで知れ渡っている。彼女が監督しているのなら、少なくともレンがナタリーの気まぐれで物理的に破壊されることだけはないだろう。
精神的に耐えられるかは別として、命の保証があるだけで十分な朗報だった。
「よかった……。アリスさんがついてくれているなら、最悪の事態は免れそうです」
「ま、あいつ(アリス)のしごきが生温いとは一言も言ってねぇけどな」
レグルスが意地悪くニヤリと笑うが、シルフィーは聞こえないふりをして窓辺へと歩み寄った。
重厚なカーテンを開け放ち、ガラス戸を開く。
心地よい風と共に、眼下に広がる美しい庭園の景色が飛び込んでくる――はずだった。
「――グズが!! 何度言えばわかるんだ!」
突如として鼓膜を打ったのは、美しい景色にはあまりに不釣り合いな、ヒステリックな罵声だった。
「え……?」
シルフィーが驚いて下を覗き込むと、整えられた庭園の一角で、一人の少年が数人の庭師やメイドに向かって喚き散らしていた。
仕立ての良い服に、手入れされた栗色の髪。年齢はレンと同じ5歳くらいだろうか。
だが、その愛らしい容姿を台無しにするほど、少年の表情は傲慢さと苛立ちに歪んでいた。
「この花壇のラインが歪んでいると言ってるんだ! 目が腐ってんのか!? 兄上の庭園は完璧に整備するくせに、俺の庭だと手を抜くのか!?」
「め、滅相もございません、ルーカス様……! 定規を使ってミリ単位で計測しておりまして……」
ルーカスが足を踏み鳴らす。
「口答えすんな! お前らが俺を軽んじていることくらい、わかってるんだよ!」
少年は近くにあった剪定バサミを蹴り飛ばし、使用人たちを威圧している。
それは管理不足への叱責などではない。己の劣等感を埋め合わせるための、ただの八つ当たりだ。
「ルーカス……様?」
その名前と姿を見た瞬間、シルフィーの記憶の底から、冷たい映像が浮かび上がった。
ルーカス・ルーヴェルト。
帝国が誇る「光の皇子」アレイシスの弟であり、第二皇子。
1周目の記憶における彼は、優秀すぎる兄へのコンプレックスを拗らせ、極度の利己主義者へと成長した男だった。
権力を欲し、アレイシスを陥れようと数々の策謀を巡らせ、最終的には国家転覆の罪で断罪された「裏切り者の皇子」。
シルフィーの脳裏に、冷たい地下牢の情景がフラッシュバックする。
断罪され、やつれ果てた15歳のルーカスが、鉄格子の向こうでシルフィーにだけ漏らした、最期の懺悔。
『……兄上が、羨ましかったんだ』
暗い牢獄で、彼は乾いた声でそう言った。
『誰からも愛され、尊ばれ、剣も魔法も完璧で……君のような聖女と婚約まで結んで。そんな兄上が、どうしようもなく許せなかった』
『ルーカス様……』
彼は自嘲するように笑った。
『兄上を憎むことでしか、自分を保てなかった。努力することから逃げ、卑怯な手でしか現状を変えようとしなかった……そんな俺の「弱さ」が、今は誰よりも憎いよ』
そして彼は、隠し持っていた短剣を抜き――シルフィーの目の前で、自らの喉を突き刺したのだ。
止められなかった鮮血。崩れ落ちる体。
あんな悲しい最期は、二度と見たくない。
(……そうだわ。彼は、根っからの悪人じゃなかった)
窓枠を握るシルフィーの手に、ぐっと力がこもる。
眼下で喚き散らす小さな少年は、まだ「卑怯者」ではない。ただ、兄という巨大すぎる太陽の影で、誰かに認められたくて、もがいているだけの子供だ。
(今なら、間に合うかもしれない)
彼が歪んでしまう前に。
コンプレックスを憎悪に変えるのではなく、誇り高い向上心へと昇華させることができれば、彼を救えるかもしれない。
「レグルス! 庭に行きますよ!」
シルフィーは振り返り、ソファでくつろぐ大男に声を張り上げた。
「あぁ? なんで俺が。おチビのおてんばっぷりはいつになったら治るんだか。お庭遊びなら一人でしてこいよ」
「一人じゃ迷子になります! いいから早く!」
レグルスはグラスを離さない。
「やーだね。俺はこの極上のワインを楽しんでる最中なんだ。邪魔すんな」
レグルスは面倒くさそうに手を振り、再びグラスを傾けようとする。
その怠惰な背中に向かって、シルフィーはニッコリと、しかし凍てつくような声で告げた。
「そうですか。……じゃあ、後でヴァルガさんに会ったら、お伝えしておきますね。『レグルスは賓客室で、昼間から惰眠を貪っていました』って」
ブーッ!! レグルスが盛大にワインを吹き出した。
「お、お前……! ヴァルガの名前を出すのは反則だろ!? あの『戦鬼』に見つかったら、また『感動の再会(殺し合い)』を強要されるだろうが!」
「確か、この時間は訓練場にいらっしゃるとか……。ここから大声で呼べば聞こえるかしら? ヴァルガさーーーん!」
シルフィーが窓から身を乗り出す。
「バカ止めろ!!」
レグルスは慌てて窓辺に駆け寄り、シルフィーの口を大きな手で塞いだ。
その顔は青ざめている。帝国の将軍にして「戦鬼」ヴァルガ。かつて戦場でレグルスと共に死線をくぐり抜けた戦友であり、今の彼にとって最も会いたくない「腐れ縁の女」筆頭だった。
「……っは! わかりましたか?」
「わ、わかったよ! 全く、性格の悪さだけは一丁前になりやがって……!」
レグルスは悔しそうに唸ると、空になったグラスを乱暴に置き、観念したようにシルフィーの前に背中を向けた。
「ほら、乗れ! 俺も実は、ちょうど庭の散歩に行きたかったところなんだよ! 酒なんか飲んで寝てる暇じゃねぇもんな!」
「ふふっ、素直でよろしいです」
シルフィーはドレスの裾を捲り上げると、慣れた様子でレグルスの広い肩へとよじ登った。
視線が一気に高くなる。最強の護衛による、特等席だ。
「さあ、行きましょうレグルス! 私、ちょっとあのひねくれ皇子様に『ご挨拶』してきます!」
「はいはい、仰せのままに。……しっかり掴まってろよ、おチビ」
レグルスが不敵に笑い、窓枠を蹴る。
ふわりと宙に舞う二人。
目指すは、罵声が響く中庭の中心。




