第57話 旅立ちの雨と、プルヴィアロード
灰色の分厚い雲が、アルヴァレインの王都をすっぽりと覆っていた。
冷たい雨が石畳を打ち据え、しとしとと憂鬱な音を立てている。
「シルフィーちゃん。道中、お気をつけて」
「はい。レオニス国王陛下も、どうかご健勝で」
王城の正面ゲート。
立派な天蓋のついた巨大な魔導馬車の前で、シルフィーは雨除けの結界を張りながら、見送りに来てくれたレオニス王やカイたちに深く頭を下げた。
一通りの挨拶を終え、シルフィーは馬車に乗り込む。
ふかふかの座席に腰を下ろすと、彼女は真っ直ぐに窓の外――見送りの列を見つめた。
だが、そこにあるはずの小さな影を探しても、見つけることはできなかった。
(レン……。やっぱり、来てくれなかったわね)
シルフィーは寂しげに目を伏せ、小さく息を吐いた。
冷たい雨のせいではないだろう。きっとあの子は、自分が見送りに来れば、寂しさのあまり引き止めて迷惑をかけてしまうと、子供心に我慢しているのだ。
あるいは、置いていかれる孤独に耐えきれず、どこかの部屋の隅で膝を抱えて震えているのかもしれない。
(可哀想に……。でも、私がいない間、少しでも自立する練習になればいいのだけど……)
完全な親心、あるいは保護者のエゴである。
本物のレンが、そんな健気な理由で見送りに来ないわけがないのだが、シルフィーの脳内では完全に「いじらしい迷子の仔犬」として美化されていた。
「行ってきます、レン。……すぐに戻るから」
窓ガラスにそっと手を触れ、シルフィーは祈るように呟いた。
そんな彼女の感傷をぶち壊すように、対面の座席で大男が盛大な欠伸を漏らす。
「ふぁ~あ……。かったりぃが、顔合わせだけ済ませてとんぼ返りだ。面倒事はさっさと終わらせるに限る」
レグルスが窓枠をバンッと叩くと、それを合図に御者が魔導器を起動させた。
低い駆動音と共に、車輪が静かに回り始める。
動き出した馬車の窓から、シルフィーは名残惜しそうに城の壁面を見上げた。
視線の先にあるのは、西塔――第三王女ナタリーの私室がある区画だ。
せめて無事を祈ろうと、雨に煙るバルコニーの一つを見つめた、その時だった。
「――っ!?」
シルフィーの黄金の瞳が、限界まで見開かれた。
馬車の角度が変わり、西塔のバルコニーの様子が一瞬だけ、クリアに見えたのだ。
そこには、二つの人影があった。
一人は、満面の、それはもう悪役そのものの凶悪な笑みを浮かべた、ナタリー。
そしてもう一人は――ナタリーに背後から細い布のようなもので首をギリギリと絞め上げられ、手足をバタバタとさせて暴れ狂う、レンの姿だった。
(首を、絞められて……!?)
遠目からで声は聞こえない。
だが、もがき苦しむレンの必死の抵抗と、それを楽しむように布を力いっぱい締め上げるナタリーの姿は、シルフィーの目には『悪逆非道な暴走王女が、いたいけな仔犬を笑いながら処刑している』という凄惨な光景にしか見えなかった。
「れ、レグルス!! レンが! レンがナタリー様に絞め殺されてるわ!?」
シルフィーは窓ガラスにベタンッと張り付き、悲鳴を上げた。
「止めて! お願い、馬車を止めてぇぇっ! 今助けに行かないと、あの子が死んじゃう!」
「あー? 何寝ぼけてんだおチビ。ほら、もう塔なんて見えねぇぞ。大人しく座ってろ」
シルフィーは窓ガラスに爪を立てた。
「嫌ぁぁ! レン! 今戻るから! 耐えて! なんとか息を止めて……いえ、息はしてぇぇっ!」
レグルスの太い腕に首根っこを掴まれ、座席に引き戻されるシルフィー。
無情にも魔導馬車は加速し、激しくなる雨の中、王都の門へ向かって走り去っていく。
帝国での「半成人式」という重圧。
それに加え、背後に残してきた仔犬が「文字通り」首の皮一枚の命の危機にあるという、致命的なストレス。
シルフィーの胃痛の種は、出発の瞬間に最大級の爆発を起こしたのだった。




