第56話 1周目の残響と、ループレット
(どうしてこんなことに……。よりによって、あのナタリー様のところにだなんて……っ)
旧礼拝堂の冷たい石畳の上で、シルフィーはギュッと両手を組み合わせ、血の気が引いた顔で天を仰いだ。
なぜ、彼女がここまで第三王女ナタリーに対して、異常なまでの拒絶反応と恐怖を抱いているのか。
それは単なる「黒い噂」を鵜呑みにしているからだけではない。前世――1周目の人生において、シルフィー自身が彼女の底知れなさを直接味わった『明確なトラウマ』が存在するからだ。
――あれは、1周目の世界。
シルフィーがルーヴェル帝国の王城に居た頃に開催された、華やかな外交パーティでのことだった。
豪華絢爛なシャンデリアが照らす広間で、シルフィーはアルヴァレインの国王を見つけ、洗練された足取りで歩み寄った。
「レオニス国王陛下、お久しぶりでございます。なかなかアルヴァレインへ赴く機会を作れず、昨年度のご挨拶も直接できずに申し訳ありませんでした」
両手でふわりとドレスの裾をつまみ、深く、優雅に頭を下げる。
誰の目から見ても非の打ち所がない、慈愛に満ちた聖女の微笑み。その完璧な立ち振る舞いに、レオニス王は温和な笑みを浮かべて頷いた。
「シルフィー殿。どうかお気になさらないでいただきたい。……おお、そうだ。本日は私の愛娘、ナタリーを連れてきているんだ。ナタリー、聖女シルフィー殿にご挨拶を」
王の背後からひょっこりと姿を現したのは、美しい翠玉の瞳を持った美少女だった。
社交界で囁かれる「最悪の悪役令嬢」の黒い噂は、すでにシルフィーの耳にも届いていた。
だが、彼女はそれを微塵も顔に出すことなく、この上なく穏やかに微笑みかける。
「アルヴァレイン王国第三王女、ナタリー・アルヴァレインです。よろしくお願いいたしますわ」
「シルフィー・エリオス・ルーメリアと申します。ナタリー殿下は大変博識で、素晴らしいお方だと伺っております。貴国の領地へ直接ご挨拶に伺えなかった無礼を、どうかお許しくださいませ」
相手を立て、自らをへりくだらせる、貴族社会における満点の挨拶。
誰もが気を良くして微笑み返すはずのその言葉に対し――ナタリーは、ピタリと動きを止めた。
透き通るような翠玉の瞳が、シルフィーをじっと見つめる。
瞬間、シルフィーは背筋に冷たい氷の刃を突きつけられたような、強烈な悪寒に襲われた。
自分の心からの善意も、相手を思いやる誠実な言葉も、すべてを透過して『何か』を値踏みされているような、得体の知れない感覚。
「……ふふっ。そう」
数秒の沈黙の後、ナタリーは小首を傾げ、酷薄なほどにあっさりと笑った。
「とっても『良い子』なのね。……お父様、この子、とってもつまらないわ。私、こちらで失礼しますわね」
バッサリと。
文字通り、一刀両断だった。
「……え? え……?」
笑顔のまま完全に固まるシルフィーを置き去りにして、ナタリーは愛想笑い一つ浮かべることなく、踵を返して去ってしまった。
残されたレオニス王は、遠ざかる愛娘の背中を見て、何かを深く納得したように目を細める。
「ナタリー……なるほど。すまないね、シルフィー殿。ナタリーは聡い子なんだが……どうか、今の無礼を許してはくれまいか」
「と、とんでもございません……!」
パニックに陥ったシルフィーは、慌てて両手を振り、必死に取り繕った。
「わ、私が何か不快な態度をとってしまったのかもしれませんし……! やはり、同盟国である貴国へ直接ご挨拶に行けなかったことをお怒りになられているのかもしれません。こちらこそ、誠に申し訳ございません!」
「……いや。そういうことではないのだがね」
必死に並べ立てたシルフィーの言葉に対し、レオニス王はどこか意味深な苦笑いを残し、静かにその場を去っていった。
……この一件にとどまらず、1周目の世界において、外交の場でナタリーと顔を合わせる機会は数度あった。
だが、そのどれもが中身のない形式的な会話で終わり、最初のあの挨拶の時以降、ナタリーの瞳がシルフィーを真っ直ぐに捉えることは二度となかった。
善意も、誠意も、完璧な配慮すらも、あの少女には一切通用しない。
理屈ではなく、ただ直感だけで相手を測り、自分にとって「無価値」と判断すれば、一片の興味も持たずに容赦なく切り捨てる。
すべてを見透かすようなあの目に対する底知れない恐怖が、シルフィーの心に「ナタリーへの絶対的な苦手意識」を深く根付かせていたのだ。
*
「あ、あんな恐ろしい方のところにレンが……! だ、大丈夫かしら。ナタリー様のワガママに振り回されて、精神が崩壊しちゃったらどうしよう! というか……あの容赦のなさ、最悪、レンが襲われちゃったらどうしよう!?」
「んなアホな心配してねぇで、さっさと寝ろ」
5歳のガキの貞操なんか誰が狙うか、と。
呆れ果てたレグルスから飛んできたクッションが、ポスッとシルフィーの顔面に直撃する。
「うぅ……レグルスは、あんなに小さなレンが心配じゃないの……?」
「俺はお前が明日、寝不足で馬車の中でゲロ吐かないかの方が心配だよ」
シルフィーが頬をふくらませる。
「もうっ! レグルスってば冷たいんですから!」
ぷくっと頬を膨らませて抗議するシルフィーだったが、帝国の式典への出発は、いよいよ明日の朝に迫っている。
今から王城の奥深くにいるであろうナタリーの元へ乗り込み、レンを奪還してくる時間などあるはずもない。
(レン……っ。どうか、私がいなくても、あの理不尽な仕打ちをどうにか耐え抜いて……!)
帝国への帰郷という重圧と、迷子の仔犬の身を案じる極度のストレス。
キリキリと痛む胃を抱えながら、聖女は祈るようにベッドへと潜り込んだ。
そして、短くも慌ただしい夜が明け――。
出発の日の朝が、やってきた。




