第55話 仔犬の憂鬱と、オーバープロテクト
王城の敷地内にひっそりと佇む、元・旧礼拝堂。
現在は聖女シルフィー・エリオス・ルーメリアの居住区として改装されたその場所は、高い天井とステンドグラスから差し込む光が美しく、普段であれば神聖な祈りの時間が流れる静謐な空間だ。
だが、今のシルフィーは、年季の入った石畳の上をあっちへこっちへとせわしなく歩き回っていた。
「……どうしよう、どうしよう! ああ、本当にどうしましょう!」
清楚な純白のドレスの裾を揺らし、頭を抱えてパニックに陥るシルフィー。
その慌てふためく様を、旧礼拝堂の長椅子にどっかりと腰を下ろした大男――専属護衛であるレグルスが、ひどく面倒くさそうな目で見つめていた。
「レグルス! どうしよう、来月はアレイシス殿下の『半成人式』で、一時的に帝国に帰らなきゃいけないわ!」
「あぁ、そうだな。俺も同行する」
シルフィーはますます青くなる。
「だから! その間、レンはどうなるの!? あんな小さな子を、見知らぬ人ばかりの王城に一人きりで置いていくなんて……!」
シルフィーはバッとレグルスに詰め寄り、悲壮感漂う顔で訴えかけた。
「あの子、ただでさえ私以外には警戒心が強くて、すぐ牙を剥くじゃない! もし誰もご飯をくれなかったら? 誰も優しくしてくれなかったら? 一人ぼっちになって、さみしくて死んじゃったらどうしよう!?」
悲痛な叫び。
それはもう、拾ってきた仔犬の身を本気で案じる、心優しき飼い主そのものの反応だった。
「…………」
レグルスは盛大なため息を吐き出し、呆れたようにボソリと呟く。
「……ウサギかなんか飼ってんのか、おチビは」
「ウサギじゃありません! 5歳の、人間の男の子です! まだ愛情が必要な時期なのに、私がいなくなったら……っ」
奴隷商人の暗い檻から救い出し、少しずつ心を開きかけているレンは、シルフィーにとって、絶対に庇護すべき「可哀想な子供」だった。
彼がどれだけ凶悪な殺気を放とうが、レグルスの重りを毟り取るほどの異常な身体能力を持っていようが、シルフィーの目には「一人では生きていけない迷子の仔犬」にしか見えていないのだ。
「心配しすぎだ。あのクソガキがさみしさで死ぬかよ。誰か噛み殺してでも生き延びるわ」
「レグルス! 自分の弟子をそんな凶暴な獣みたいに……!」
レグルスはそっぽを向く。
「弟子にした覚えはねぇよ」
鼻を鳴らしたレグルスは、ふと何かを思い出したように、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「まぁ、安心しろ。あのガキなら、さっき引き取り手が見つかったぞ」
「えっ? 引き取り手?」
レグルスは頭の後ろで手を組んだ。
「あぁ。さっき総隊長のカイが俺らがいつもいる森に来てな。あいつの所に……いや、ありゃおそらく『ナタリーの所』に引き取られたって言うべきだろうな」
その名前が出た瞬間だった。
ピタッ……と。
シルフィーの歩き回る足が完全に硬直した。
顔面からスッと血の気が引き、足元から這い上がるような強烈な悪寒に、全身がガタガタと震え出す。
「……な、ナタリー、様……?」
震える声で聞き返すシルフィーの脳裏を支配したのは、社交界でまことしやかに囁かれている、第三王女ナタリーに関する『黒い噂』の数々だった。
アルヴァレイン王国第三王女、ナタリー。
噂によれば、彼女は自由奔放を隠れ蓑にした絶対権力者であり、他者の尊厳を笑顔で踏みにじる残酷な暴君だという。その悪逆非道ぶりを示す恐ろしい逸話は、枚挙にいとまがない。
たとえば、ある夜会でのこと。ナタリーは挨拶に来た有力貴族の顔を見るなり、突然自分の靴を指さして「パパ! この人、私の足元狙ってきたわ! 気に入らないから追放して!」と喚き散らし、国王に泣きついて本当にその貴族を一族もろとも国外追放にしてしまった。
また、ある名家の子息が彼女に国宝級の美しい宝石のペンダントを献上した際には、「なにこれ、気持ち悪い!」と笑いながらその場で床に叩き割り、泣き崩れる子息をそのまま地下牢へ放り込んだという。
さらに、幼い頃から王城に仕えていた温厚な料理長に対しても、彼が丹精込めて作ったケーキを一口も食べず、「この人、顔がムカつくからクビにして!」と言い放ち、その日のうちに城から叩き出した。
世界のすべては自分のために用意された遊戯盤。気に入らない者は難癖をつけて骨の髄までしゃぶり尽くし、飽きれば無残に捨て去る。他者の人生を気分次第で破滅の渦に巻き込んでいく――まさに、絵に描いたような『冷酷無比な悪役令嬢』。
それが、シルフィーが1周目の記憶と数々の恐ろしい噂から構築した、ナタリーの人物像であった。
(あ、あのナタリー様のオモチャに……レンが……!?)
想像するだけで、目の前が真っ暗になった。
まだ王城のルールも知らない、傷ついた仔犬のようなレンが、あの残忍な王女の毒牙にかかったのだ。
間違いなく、理不尽な命令でいたぶられ、身も心もボロボロにされ、最終的には不敬罪で処刑されてしまう!
「レ、レグルス! 止めに行かないと! このままじゃレンが、ナタリー様に玩具にされて……殺されちゃうっ!」
「アホか。王女の直々の指名だぞ。それに、あのガキのクソみたいなマナーを直すには、ちょうどいい劇薬だろ」
シルフィーが言葉に詰まる。
「そ、それはそうかもしれないけど……!」
シルフィーは胸の高さで両手を強く握りしめた。
さみしさで死ぬ心配など消し飛んだ。今彼女を支配しているのは、あの「最悪の悪役令嬢」から、どうやって無力な仔犬を救い出すかという絶望的な使命感だった。
今にも雨が降り出しそうな暗雲が、アルヴァレイン国を包んでいた。




