第54話 メイドのアリスと、サーヴァンティア
王城の深部へと続く回廊は、ひたすらに息苦しかった。
塵一つ落ちていない大理石の床。壁を飾る豪奢な絵画や煌びやかなシャンデリア。
そのどれもが、血と泥にまみれて生きてきたレンという「異物」を拒絶しているように思えた。
「ほらほら、早く歩きなさいよ私の護衛! 迷子になっても知らないわよ!」
前をスキップで進む王女・ナタリーが、ドレスの裾を揺らしながら無邪気に振り返る。
その後ろを、レンは深い溜息をつきながら歩いていた。
肘から手首までをすっぽりと覆うように装着された、長い棒状の『重魔鉱』。
その理不尽な重さのせいで両腕は鉛のように垂れ下がっているが、それでも休むことは許されない。
(……なんで俺が、こんな面倒なことに)
修練場を出る直前、カイに言われた言葉が脳裏をよぎる。
『昼間はナタリー殿下の護衛とマナー講習。夜は僕がここで、魔法と剣の修業をつけてあげるよ』
『あ? てめぇなんかに教わるか! 俺は俺のやり方で――』
食い下がるレンに、カイは涼しい顔だった。
『おや、シルフィー様を守るための「雷」の力、要らないっていうのかい!? 僕は一向に構わないけど……』
『……ッ、チッ! 夜にそこへ来りゃいいんだろ!』
見事にいなされ、修業の約束まで取り付けられてしまった。
すべては、5年後に『シルフィーの隣に立つため』。
その絶対の目的さえなければ、こんなやかましい女、今すぐ置き去りにして逃げ出しているところだ。
やがてナタリーは、一際立派な両開きの扉の前で立ち止まり、勢いよくそれを押し開けた。
「アリス! 帰ったわよ!」
「――お帰りなさいませ、ナタリー様」
静謐な室内に、涼やかな、けれど凛とした声が響いた。
声の主は、部屋の中央で完璧な姿勢のまま一礼をしている一人の女性だった。
漆黒の生地に純白のエプロンが映える、一糸乱れぬメイド服。
白に近いが、光の加減で透き通るような青に見える『アイスブルー』の髪。それは仕事用として完璧なシニヨンにまとめられ、顔立ちは冷たい彫刻のように整っている。感情の起伏を一切感じさせない、鉄壁の無表情。
それが、第三王女専属メイド――アリス・シュタリエだった。
「ただいま! ねぇアリス、見て見て! 私、すっごく面白い護衛を拾ってきたの!」
ナタリーが弾むような声で、背後に立つレンを指差した。
アリスはゆっくりと頭を上げ、その静かな瞳をレンへと向ける。
(……なんだ、この女)
レンの全身の毛が、本能的に逆立った。
レグルスやカイのような「圧倒的な暴力」や「底知れない魔力」を感じたわけではない。
ただ、この女の所作には『隙』が全く無いのだ。呼吸のタイミング、足の運び、視線の配り方。すべてが異常なまでに洗練され尽くしている。
野生の獣が未知の生き物に警戒するように、レンは低く唸り声を上げ、ギラギラとした敵意を込めてアリスを睨みつけた。
土埃と汗にまみれた服。両腕にはめられた黒鉄の重り。そして、今にも噛みつきそうな凶悪な目つき。
王城のメイドであれば、悲鳴を上げて後ずさるか、汚物を見るような顔で顔をしかめるのが当然の反応だ。
しかし。
「…………」
アリスは眉一つ動かさず、ただ静かに狂犬を見下ろした。
そして、冷ややかな声でポツリと、こう告げた。
「……元気なお子様ですね」
皮肉でも嫌悪でもなく、ただ事実を述べるような平坦な声。
だが、他者の『敵意』や『殺気』に誰よりも敏感なレンは、アリスと視線が交差した瞬間、ひどく奇妙な感覚に囚われた。
氷のように冷たく澄んだアリスの瞳の奥。
そこに、一瞬だけ別の色が混ざったのだ。
それは、遠い過去の幻影を見るような、痛みを伴う揺らぎ。血と泥にまみれた野生の仔犬に、何か別の存在を重ね見ているような――ひどく人間臭い眼差しだった。
(……なんだ、今の目?)
レンが毒気を抜かれたように眉をひそめた直後。
「アリス! この子、レンっていうの! 強くて面白いんだけど、見ての通りマナーも教養もゼロの馬鹿なの!」
「あ!? 誰が馬鹿だこのやろう!」
ナタリーはレンの抗議を軽く受け流す。
「このやろうじゃない。私はナタリーよ。こんな感じで馬鹿すぎるからアリスにこの子の再教育を任せるわ! 私の隣を歩けるように、ピッカピカの『紳士』に仕立て上げてちょうだい!」
ナタリーの無茶苦茶なオーダーに対し、アリスは表情一つ変えずに優雅なカーテシーをする。
「……かしこまりました、ナタリー様。このアリス、全身全霊をもって、そちらのお子様を王族の護衛たるに相応しい紳士へと鍛え上げてみせましょう」
スッ、と。
アリスが再び顔を上げた時、その瞳から先ほどの揺らぎは完全に消え去り、代わりに「絶対の教育者」としての凄まじいプレッシャーが放たれていた。
「まずは……その数週間は洗っていないであろう毛玉のようなお姿を、人間の形に戻すところから始めましょうか」
アリスが、音もなくレンとの距離を詰める。
その手にはいつの間にか、身だしなみを整えるためのメジャーと、分厚い布が握られていた。
「なッ……おい、触んな! 俺は風呂なんか――」
「えぇーっ!」
反抗しようとしたレンの言葉を、背後からのわざとらしい大声が遮った。
ナタリーだ。
「そんな泥だらけで臭いままじゃ、隣を歩く聖女ちゃんが可哀想! せっかくの綺麗な服も汚れちゃうし、シルフィーちゃん、きっと息止めて我慢しなきゃいけなくなるわ!」
「ッ……!」
『シルフィーが可哀想』。
その魔法の言葉は、猛る狂犬の首輪を引くのに十分すぎる効果を発揮した。
レンはピタッと動きを止め、反論を喉の奥で噛み殺し、ギリッと奥歯を鳴らす。
「おとなしくなりましたね。流石はナタリー様です」
「でしょ? アリスも使っていいわよ! というわけで、徹底的にやっちゃって!」
アリスが静かに頭を垂れる。
「お任せを。……さあ、参りましょうか、レン様」
有無を言わさぬ、鉄の拘束力。
レグルスの理不尽な暴力とは違う。これは一切の反抗を許さない『規律』という名の暴力だ。
(……ヤバい。こいつら、ある意味であいつ(レグルス)よりタチが悪い……ッ!)
背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、レンは抵抗もできず、メイドの細くも力強い手に引かれていく。
シルフィーの隣に立つための代償は、決して安くはなかった。
狂犬を完璧な「紳士」へと仕立て上げる、アリスによる地獄のマナー講座。
その過酷な日々の幕が、今ここに切って落とされた。




