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第46話 牙を研ぐ理由と、デヴォーション

翌朝。

王城の一角にある旧礼拝堂を訪れた騎士が、顔面を蒼白にして走り出したことで、城内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


「聖女様がいない!?」


「部屋にも、礼拝堂にもいらっしゃらない!」


「まさか誘拐か!? 近衛騎士団を総動員しろ!!」


怒号と足音が飛び交う中。

森の掘っ立て小屋で惰眠を貪っていたレグルスは、バンバンと扉を叩く騎士によって叩き起こされた。


「レグルス殿! 聖女様のお姿が見えません! まさかこちらに――」


その瞬間。

レグルスの脳裏に、昨夜の自分の言葉が蘇った。


――『あぁ。ま、好きにしな』


サーッ……と。

最強の剣士の顔から、血の気が引いていく。


(……やべぇ。これ、完全に俺のせいじゃねぇか?)


もし、このままシルフィーがダンジョンで死んでいたら?

護衛任務放棄。管理責任。そして何より、あの国宝級の聖女を「好きにしな」と死地に送り出した教唆。

待っているのは国家転覆罪による処刑か、あるいは一生牢獄で強制労働か。

俺の安寧なゴロゴロライフが、音を立てて崩れ去っていく。


「ふ、ふざけんなよ……ッ!」


「レグルス殿!?」


「どけッ! 騎士団が見つける前に俺が拾ってくる!! お前らはゆっくり準備していいからな!!!」


ドォォォォォォォンッ!!


騎士が瞬きをする間に、レグルスの姿は消えていた。

地面が爆発したように抉れている。

ここ数年、魔人相手ですら見せたことのない、本気の神速。

自分の平和な老後(予定)を守るため、最強の男は音速を超えて森を駆け抜けた。


     *


【這い寄る影の洞窟】の、ほんの少し離れた横穴。


レグルスがそこに到達した時、彼は思わず足を止めた。

眼前に広がる光景が、歴戦の彼をして言葉を失わせたからだ。


「……おいおい。マジかよ」


そこには、一刀両断された巨大な黒獣(グラトニー・ベア)の死骸が転がっていた。

硬度においては鉄をも凌ぐ上位魔獣が、豆腐のように真っ二つにされている。

切断面は焼けていた。高密度の熱量を持った、光の一撃。


そして、その傍ら。


シルフィーが、泥だらけの地面に倒れていた。

魔力切れによる気絶だ。ドレスは汚れ、美しい銀髪も泥にまみれている。


だが、彼女には傷一つなかった。

なぜなら――。


「……ウ、ル、ァ……ッ」


彼女を背に庇うようにして、一人の少年が立っていたからだ。


レンだ。


全身の骨が砕けているのか、立っているのが不思議なほどのボロボロの状態。

意識などとっくに飛んでいる。白目を剥き、口から泡を吹いている。

それでも、彼は倒れていなかった。

左手に握りしめた折れた短剣を構え、気絶してもなお、背後の主を守るための「壁」となり続けていたのだ。


(……5歳のガキがやる芸当じゃねぇぞ、これ)


レグルスは冷や汗を流した。

レン単体では、黒獣には傷一つつけられない。

シルフィー単体では、攻撃手段がなく蹂躙されて終わりだ。

だが、この二人が揃った結果――格上の怪物が、両断された。


一体、何が起きた? 聖女の加護か? いや、それにしたって限界がある。

これは、奇跡というよりは――。


「……っと、考えてる暇はねぇな」


遠くから、騎士たちの足音が聞こえてくる。

ここで詳しく現場検証をされると、自分が「行かせた」ことがバレて面倒なことになる。

レグルスは瞬時に、撤収を決断した。


「ほらよ、お姫様」


シルフィーを優しく抱き上げ、小脇に抱える。

そして、


「お前は荷物だ、クソガキ」


立ったまま気絶しているレンの右足をガシッと掴むと、そのままズルズルと地面を引きずり始めた。


「……ぐ、う……」


「文句言うなよ。聖女様を運ぶので手一杯なんだ」


レグルスは、泥人形のようになった二人を抱え、その場を去った。


     *


帰りの森の中。

地面を頭で耕しながら引きずられる衝撃で、レンの意識が微かに浮上した。


視界が揺れる。

全身が痛い。


けれど、視線の先――レグルスの腕の中に、安らかな寝息を立てるシルフィーの顔が見えた。


(……生きて、る)


安堵。

それが、レンの胸に広がった、初めての感情だった。


あんな、無防備で、お人好しで、馬鹿みたいに優しい女。

俺を助けるために、あんな恐ろしい化け物の前に飛び出してきて。

震える手で俺に触れて、泣きながら光を注ぎ込んで。


――『死なせない! 貴方は私が守るからッ!!』


その声が、耳に残っている。

誰かに守られたことなんて、なかった。

命懸けで愛されたことなんて、一度もなかった。


150キロの重りよりも、今のレンには「その事実」の方が重かった。


「……くそ、が」


レンは、引きずられながら掠れた声を絞り出した。


「……おい、レグルス」


「あぁ? 生きてたか。舌噛んでも知らねぇぞ」


レグルスは振り返りもせずに進む。

レンは、揺れる視界の中で、泥だらけの自分の拳を強く握りしめた。


「もっと……寄越せ」


「なにをだ」


「重りも、殺し方も、全部だ……」


レンの瞳に、暗い炎が宿る。

それは以前のような、世界への復讐心ではない。

もっと具体的で、強固な目的を持った「誓い」だった。


「俺は強くなる。……あいつが、シルフィーが二度と悲しい顔をしなくて済むくらい」


「……へぇ」


あいつは泣かなくていい。

あいつは血に汚れなくていい。


綺麗事も、慈愛も、全部あいつが語ればいい。

そのために邪魔な「敵」は――泥と血にまみれた俺が、全部殺す。


「あいつの前に立つ敵は、神だろうが運命だろうが……俺が全部、喰い殺してやる」


それは、狂犬が「忠犬」へと生まれ変わった瞬間だった。

ただ餌を求めて噛み付くだけの獣ではない。

たった一人の主を守るためだけに牙を研ぐ、最凶の番犬。


「……カカッ! いいツラになりやがって」


レグルスは満足気に笑い、少しだけ歩く速度を緩めた。

引きずられるレンの背中に残る一本の線が、彼がこれから歩む修羅の道の始まりを、示しているようだった。


     *


数日後。王城の医務室。


清潔なシーツの上で目を覚ましたレンは、自分の体を見て息を呑んだ。

グチャグチャだったはずの脇腹が、元通りになっている。


そして、隣のベッドには。

未だに深い眠りについている、シルフィーの姿があった。

彼女の魔力は空っぽだ。自分の命を削り、全てをレンの治癒と強化に費やした代償。


「俺なんかのために……馬鹿な女」


レンはベッドを降り、シルフィーの寝顔を覗き込んだ。

無防備で、間抜けで、そして――どうしようもなく、尊い。


レンはそっと手を伸ばし、彼女の頬にかかった銀髪を払った。

その手つきは、壊れ物に触れるように慎重だった。


「……この借りは、高いぞ」


レンは誰にも聞こえない声で呟く。


「俺の人生全部使っても……返しきれるか分からないくらいにな」


レンはその場に膝をつき、眠る聖女の手の甲に、額を押し付けた。

それは祈りであり、服従の誓い。

窓から差し込む陽光が、二人を照らしていた。


かつて世界を滅ぼした「魔王の先兵」は、もういない。

ここにいるのは、聖女の剣となり、盾となることを誓った、一匹の「騎士」だけだった。

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