第44話 横穴の二人と、サンクチュバインド
思考する時間はなかった。
シルフィーは魔獣が飛び掛かる寸前、レンの小さな体を抱きかかえると、横合いに見えた狭い横穴へと飛び込んだ。
そして、
「――《聖壁・物理遮断》ッ!!」
ズドォォォォンッ!!
シルフィーが放った障壁魔法が、亀裂の入り口の岩盤を内側から爆破する。
崩落した大量の岩石が入り口を塞ぎ、外界との繋がりを物理的に断ち切った。
直後、ドスゥンッ! という重い衝撃音が岩壁の向こうから響く。
魔獣が激突した音だ。
だが、岩の厚みと狭さのおかげで、巨体の魔獣はすぐには入ってこられない。
「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
真っ暗闇の閉鎖空間。
シルフィーはレンを抱いたまま、その場に崩れ落ちた。
頭が割れるように痛い。
視界がぐらぐらと揺れ、耳鳴りが止まらない。
5歳の肉体で《上位治癒》を行使し、さらに防御魔法まで展開した代償だ。魔力回路が悲鳴を上げ、血管の中を泥が流れるような倦怠感が全身を支配していた。
「……おい」
暗闇の中で、低い声が響いた。
レンだ。
彼はシルフィーの腕を振りほどくと、冷たい岩肌に背を預けて座り込んだ。
「何しに来た」
感謝の言葉ではない。
投げかけられたのは、鋭利な刃物のような拒絶の言葉だった。
「俺は言ったはずだ。失せろって。……俺の生き方に口出しするなって!」
レンの声が怒りに震える。
自分の不甲斐なさ。圧倒的な敗北。そして、最も見られたくない無様な姿を、この少女に見られた屈辱。
それらがないまぜになり、彼は毒を吐くことでしか自分を保てなかった。
「どうせ点数稼ぎだろ? 『可哀想な奴隷を助けた聖女様』って名声が欲しいだけか? それとも、俺みたいなゴミに恩を売って、いい気分に浸りたいだけかよッ!?」
「……違います」
シルフィーは、荒い息を整えながら、静かに首を横に振った。
「じゃあ何でだ! 何で俺なんかに構う!? 俺はお前に酷いことを言ったぞ! 傷つけたぞ! なのに、どうして命懸けで助けに来るんだよ……意味がわかんねぇよッ!!」
レンが叫ぶ。
それは問い詰めではなく、悲痛な叫びだった。
彼の知る世界には「裏のない善意」など存在しなかったから。
優しさの裏には必ず搾取があり、笑顔の裏には暴力があった。
だから信じられない。信じて裏切られるのが、何よりも怖い。
シルフィーは、暗闇の中でレンの気配を探り、その手を取った。
「っ……触るな!」
「レン。……私は、知っているからです」
シルフィーは、レンの抵抗を無視して、その冷え切った小さな手を両手で包み込んだ。
彼女の手は、魔力枯渇による高熱で、熱いほどだった。
「誰かのために傷つくことの痛みも。……誰にも理解されず、たった一人で戦うことの寂しさも」
「……は?」
「貴方は、自分のために逃げたわけじゃないでしょう?」
シルフィーの言葉に、レンの動きが止まる。
「貴方が重りを外して、身体を壊してまで逃げたのは……『生きるため』じゃない。『勝つため』です。いつかあの怪物を超えるために。理不尽な世界に牙を剥くために。……その痛々しいほどの矜持を、私は知っています」
かつての世界――1周目。
彼はそうやって戦い続けたのだろう。誰にも理解されず、拾った者に憎悪を植えつけられ、道具のように利用され、それでも何かに抗おうとして、心身ともにボロボロになっていったのだろう。
シルフィーにとって、レンはただの保護対象ではない。
かつて救えなかった、そして救うことを約束した『誓い』そのものだ。
「私は聖女です。世界中の人々を愛するのが仕事です」
シルフィーは、「聖女」として慈愛を滲ませた。
「でも、今の私にとっての世界は、この暗闇の中にいる『貴方ひとり』だけです。貴方が死んでしまったら……私の世界は、終わってしまう」
だから助けた。理由なんて、それだけで十分でしょう?
「死なせない……! 貴方は私が守るから……!!」
そう語る彼女の声は、あまりにも静かで、透き通っていた。
「…………」
レンは言葉を失った。
熱い。握られた手が、火傷しそうなほど熱い。
今まで触れられてきたどんな暴力よりも、どんな冷たい鎖よりも、この少女の手のひらは強烈にレンの魂を縛り付けた。
(……二度目だ)
レンは薄暗がりの中で、自身の膝を睨みつけた。
一度目は、あの薄汚い檻の中から。
そして二度目は、この絶望的な死の淵から。
彼女は、泥にまみれることも、自分の命を危険に晒すことも厭わず、俺の手を掴んだ。
打算? 名声?
そんな安っぽいもので、ここまでできるわけがない。
この女は、本気だ。
本気で、俺という「無価値なゴミ」に、命を賭けている。
(……馬鹿な奴だ)
レンの中で、分厚く張り詰めていた氷の壁に、パキリと亀裂が入った音がした。
それは不快な音ではない。
凍えていた指先に、血が通い始めるような感覚。
「……お人好しが」
レンは悪態をつきながらも、包まれた手を振り払わなかった。
代わりに、その感触を記憶に刻みつけるように、わずかに握り返した。
「……勝手にしろよ」
「ふふ。……はい、勝手にします」
シルフィーが力なく微笑んだ、その時だった。
ズドォォォォォォォォォォンッ!!!!
会話の余韻を粉砕するように、背後の瓦礫が激しく揺れた。
パラパラと天井から砂塵が落ちてくる。
岩盤の向こう側から、破壊的な衝撃が断続的に叩きつけられているのだ。
「ギギィッ! ガァァァァァッ!!」
岩の隙間から、赤黒い光が漏れ出す。
そして、巨大な剛腕が瓦礫を強引に掘り起こし、その「爪」が暗闇を切り裂いて侵入してきた。
「……来たか」
レンがスッと立ち上がる。
その瞳に、もう迷いはない。
彼は自分を庇おうとするシルフィーの前に、無言で背中を見せて立った。
傷は治った。重りはない。
そして何より――背後には、命を賭けて守るべき「聖女」がいる。
「下がってろ、お人好し。――ここからは、俺がお前を救う番だ」




