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第42話 洞窟の狩りと、アンエクスペクト

洞窟の中は、腐った泥と鉄錆の匂いが充満していた。


「ギギィッ!」


入り口から数メートル。暗闇から緑色の小鬼(ゴブリン)が飛び出してきた。

棍棒を振り上げ、獲物を見つけた喜びに顔を歪めている。

普通の冒険者なら盾を構えるか、回避を選択する場面だ。


だが、レンは一歩も引かなかった。

回避? 防御? そんなものは、弱者の選択だ。


「――邪魔だ」


レンは右手の短剣を振らなかった。

代わりに、150キロの鉄塊が巻かれた左腕を、遠心力に任せて裏拳のように振り抜いた。


ドグシャァァッ!!


鈍く、湿った破壊音が洞窟に反響する。

ゴブリンの頭蓋が、熟れた果実のように弾け飛んだ。

刃物で斬るまでもない。質量による絶対的な暴力。

首から上が消滅した緑色の死体が、ボロ雑巾のように壁に叩きつけられ、ずるりと崩れ落ちる。


「……はっ。こんなもんかよ」


レンは返り血を拭いもせず、つまらなそうに吐き捨てた。

重い。確かに左腕は鉛のように重いが、レグルスという「災害」と対峙していた日々に比べれば、この程度の魔物など止まって見える。


(もっとだ。もっと喰らわねぇと、あの背中は遠いままだ)


レンは飢えた獣の目で、さらに奥へと足を進めた。


しかし――異変はすぐに訪れた。


いない。

入り口の個体を最後に、ゴブリンの姿が一切消えたのだ。

代わりに地面に転がっているのは、無惨に引きちぎられた緑色の手足や、何者かに齧られたような痕跡のある武器の残骸だけ。


「…………」


レンの足が止まる。

背筋が粟立つ感覚。これは「静寂」ではない。「死の気配」だ。

この洞窟には、ゴブリンごときを餌にする「ナニカ」がいる。


逃げるべきか? いや。


レンの口角が、凶悪に吊り上がった。


(当たりかよ)


恐怖よりも先に、強者を求める本能が体を突き動かす。

レンは慎重に、かつ大胆に最深部へと踏み込んだ。


そこは、少し開けたドーム状の空間になっていた。

中央に、巨大な黒い影がうずくまっている。


グチャ、グチャ、ボリッ……。


咀嚼音。

影が、ゴブリンの死体を頭から齧りついている音だ。

全長は3メートル近い。全身を漆黒の剛毛に覆われ、ライオンと熊を混ぜ合わせたような異形の四足獣。

その背中からは、不気味な紫色の瘴気が立ち上っている。


――【変異種(ミュータント)暴食の黒獣(グラトニー・ベア)】。


初心者用ダンジョンにいるはずのない、変異型上位魔獣だった。


「……おい」


レンが声をかけると、黒獣がピタリと動きを止めた。

ゆっくりと振り返る。

返り血で赤く染まった口元。そして、理性の欠片もない、純粋な殺意だけを湛えた真紅の瞳と目が合う。


「一人占めはずるいんじゃねぇか? ……その席、代われよ」


ガァァァァァァァァァァッッ!!!!


鼓膜をつんざく咆哮。

レンは笑った。

最高だ。これこそが、俺が求めていた「死線」だ。


「死ねッ!!」


レンが駆ける。

重りをつけた左腕を軸に、身体を旋回させながら右手の短剣を突き出す。

狙いは眉間。レグルスとの訓練で磨き上げた、予備動作のない神速の刺突。


カィィンッ!


「……あ?」


硬質な音が響いた。

短剣が、黒獣の額で弾かれたのだ。

皮膚が硬すぎる。安物の鉄の剣では、その剛毛の一本すら断ち切れない。


(硬ぇ……ッ!)


驚愕するレンの目の前で、黒獣の前足が動いた。

速い。

レグルスのデコピンほどではない。だが、5歳の少年の動体視力で捉えられる限界を超えていた。


回避は間に合わない。

レンは反射的に、150キロの重りがついた左腕を盾にして防御した。


ドガァァァァァァンッ!!


「が、はッ……!?」


トラックに衝突されたような衝撃。

防御など意味をなさなかった。

レンの身体は枯れ葉のように吹き飛び、洞窟の岩壁に叩きつけられた。


「ごふっ、う、あ……ッ」


肺の中の空気が強制的に吐き出される。

視界が明滅し、激痛が遅れて脳を焼いた。


「ぁ、あ……ぐ……」


左腕が、熱い。

見れば、150キロの鉄塊が食い込んだ腕は、不自然な方向にひしゃげていた。

骨が砕けている。さらに、着地の衝撃で左足の骨もへし折れていた。


「グゥルルル……」


黒獣が、喉を鳴らしながらゆっくりと近づいてくる。

圧倒的な質量差。

小細工も技術も通用しない、生物としての「格」の違い。


これが、世界か。

レグルスが言っていた「理不尽」か。


(動け……動けよクソッ……!)


レンは折れた足を引きずり、後退る。

短剣は折れ、身体はボロボロ。

それでも、レンの瞳から光は消えていなかった。

だが、現実は無慈悲だ。


黒獣が、巨大な爪を振り上げる。

それは、死刑執行の合図。


「く、そ……ッ」


悔しさが涙となって滲む。

死ぬのが怖いんじゃない。

まだ何も成し遂げていないまま、こんな薄暗い場所で、ただの餌として終わるのが悔しいのだ。


(頭……まわんねぇ……)


脳裏に、あのお節介な聖女の顔が過る。

振り払った手。浴びせた暴言。

それが走馬灯のように駆け巡り――。


爪が、振り下ろされた。


     *


その夜、王都は数十年ぶりの豪雨に見舞われていた。

夜中になっても、レンは戻らない。


叩きつけるような雨音の中、旧礼拝堂から飛び出す一人の影があった。


「レン……!!」


シルフィーは、泥濘に足を取られながらも走っていた。

ドレスは汚れ、美しい銀髪は雨に濡れて張り付いている。

それでも、彼女は止まらなかった。


嫌な予感がする。

胸が張り裂けそうなほど、警鐘を鳴らしている。


待っていて。お願いだから、生きていて。


聖女の祈りは雨に溶け、闇に沈む洞窟へと吸い込まれていった。

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