第41話 初陣と拒絶と、ファーストブラッド
ズンッ……。
小屋の前の地面が、悲鳴を上げるように沈み込んだ。レンの左腕。
そこに装着された150キロの黒い鉄塊は、5歳の少年の細腕にはあまりにも不釣り合いな「呪い」のようだった。
あの日から一ヶ月。
レンは、一度たりともその重りを外さなかった。
寝る時も、食事の時も、トイレに行く時さえも。
最初は左腕がちぎれるかと思った。重心が狂い、まともに立つことすらできなかった。肩が外れ、筋肉が断裂し、修復されるサイクルを何百回と繰り返した。
だが今、レンは「立って」いた。
左腕をだらりと下げ、しかし背筋は剣のように真っ直ぐに。
その瞳には、以前よりも深く、鋭い「戦士の光」が宿っている。
「……ほう」
小屋の前で酒を飲んでいたレグルスが、片眉を上げた。
ただ立てるようになっただけではない。
片腕だけが異常に重いという歪なバランスを完璧に制御し、常に「臨戦態勢」を維持したまま生活していることへの称賛だ。
「いいザマじゃねぇか、クソガキ。少しは『魔物』の顔つきになってきたな」
「……誰のせいだと、思ってやがる」
レンが、憎々しげに——けれど、どこか楽しげに口角を吊り上げる。
レグルスは空になった酒瓶を放り捨てると、短剣をレンの足元に投げた。
「なら、そろそろ『遠足』といこうか」
「……あ?」
レグルスは森の奥へ、親指を向けた。
「森の東に洞窟がある。初心者向けのダンジョンだ。そこに行って、ゴブリン10匹の首を獲ってこい」
それは、初めての「実戦」への命令だった。
訓練ではない。殺すか、殺されるかの本番。
レンの背筋に、ゾクゾクとした歓喜の震えが走る。
「……やってやるよ」
レンが短剣を拾い上げようとした、その時だった。
「だ、ダメですッ!!」
バッ! と二人の間に割って入ったのは、シルフィーだった。彼女は顔面を蒼白にし、レンの前に立ちはだかった。
「まだ早すぎます! レンはまだ5歳なんですよ!? それに、そんな重いものを片腕につけて……まともに逃げることもできないじゃないですか! ゴブリンだって魔物です。集団で襲われたら、命に関わります!」
彼女の言い分は正しい。常識的に考えれば、自殺行為だ。だが、その「常識」こそが、今のレンにとっては何よりの足枷だった。
「……どけよ」
レンの声は、氷のように冷たかった。
「どきません! 絶対に行かせません! レグルスもレグルスです! どうしてそんな無茶なことを……もしレンが死んでしまったらどうするんですか!?」
シルフィーは必死だった。
1周目の記憶が、フラッシュバックする。
世界に拒まれ、心を凍らせ、たった一人で血に塗れていった彼。最後には、涙を流しながら、シルフィー自身の胸を貫いた、あの彼。
あの「地獄」へ、もう二度と、彼を歩ませたくない。だから守らなければならない。安全な場所に、私の手の届く範囲に置いておかなければ——。
彼女はレンの細い腕を掴み、引き寄せようとした。
「お願いレン、言うことを聞いて。貴方のためなの。強くなるのは、もっと大きくなってからでも——」
バシッ!!
「——ッ!?」
乾いた音が響いた。レンが、シルフィーの手を力任せに振り払ったのだ。
「レ、ン……?」
シルフィーが目を見開く。そこにいたのは、庇護を求める子供ではなかった。飢えた獣。
獲物を前にして、首輪を引かれたことに激昂する「捕食者」の目だった。
「……うるせぇんだよ」
レンが、低く唸る。
「俺のため? 安全? ……ふざけるな。お前が言ってるのは、『一生、誰かに飼われる犬でいろ』ってことだろうが!」
「ち、違います! 私はただ、貴方に生きていてほしくて……」
その先を、レンは遮った。
「だったら俺の邪魔をするなッ!!」
レンは吠えた。5年間の地獄。無力だった自分への絶望。
それを乗り越えるための唯一の道が、この「力」なのだ。
それを否定されることは、レンの存在意義そのものを否定されるに等しかった。
「お前のその『優しさ』が、俺には虫酸が走るほど不快なんだよ! 守られるだけの惨めなガキに戻るくらいなら……俺は戦って死ぬ方を選ぶ!」
「……ッ」
シルフィーの言葉が止まる。
レンは彼女を睨みつけ、吐き捨てるように告げた。
「二度と俺に触るな。……邪魔ばっかするなよ鬱陶しい。さっさと消えろ!」
それは、決定的な拒絶の言葉。
シルフィーの顔から、さぁっと血の気が引いていく。
レンはもう彼女を見なかった。
足元の短剣を拾い上げ、重りをつけた左腕を引きずりながら、森の奥へと歩き出す。
その背中は、あまりにも小さく、けれど痛々しいほどに孤高だった。
残されたシルフィーは、震える手で自分の胸を押さえた。
痛い。心が、引き裂かれるように痛い。
彼のためを思って言った言葉が、彼を傷つけ、遠ざけてしまった。
けれど。
(……それでも)
シルフィーは涙を拭った。
ここで「はい、そうですか」と引き下がるなら、彼女は時間を超えて戻ってきたりはしない。嫌われてもいい。憎まれてもいい。
彼が再び「修羅」になるとしても、その魂まで闇に飲まれることだけは、絶対に阻止する。
「……レグルス。彼が向かったのは、東の洞窟ですね?」
「あぁ。ま、好きにしな」
レグルスはニヤリと笑って見送った。シルフィーはドレスの裾を強く握りしめ、レンが消えた闇の先を睨み据える。
***
森の東。
鬱蒼とした木々の合間に、ぽっかりと口を開けた闇があった。
地下ダンジョン【這い寄る影の洞窟】。
その入り口に、一人の少年が立っていた。レンは短剣を抜き放ち、纏わりつくような冷気を含んだ風を、肺いっぱいに吸い込む。
「……ふぅ」
怖いか? いや。寂しいか? まさか。
レンの全身を駆け巡っているのは、沸騰するようなアドレナリン。檻の中で震えていたかつての自分は、もういない。ここから先は、誰の助けもない。自分の力だけで切り拓く、初めての「狩り場」だ。
「——喰ってやるよ」
レンは凶悪な笑みを浮かべ、重りをつけた左腕と共に、暗闇の中へと踏み出した。
さぁ、蹂躙の時間だ。




