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第39話 軌道を曲げる刃と、インスティエッジ

地獄の釜の蓋が開いてから、ひと月が過ぎた頃。

森の小屋に、奇妙な日課が加わった。


ゴォォォォォッ!


暴風のような音が、森の木々を揺らす。

小屋の前で、レグルスが大剣を振るっているのだ。

ただの素振りではない。

身長2メートルを超える巨漢が、謎の「重り」を身につけたまま、鉄塊のような大剣を「遷音速」で振り抜く。

その一振りごとに大気が悲鳴を上げ、地面が揺れ、衝撃波で周囲の草が刈り取られていく。


「……ふん」


レグルスは無言で、ただ淡々と、理想的な「暴力」の形を、空間に刻み込んでいた。

手取り足取り教えるつもりなど、毛頭ない。

だが、言葉で説明するよりも雄弁な「答え」を、あえてその背中で、見せつけていたのだ。


——盗め。

——俺の筋肉の動きを、重心の移動を、力の奔流を。


その意図に、5歳の少年が気づかないはずが、なかった。


「…………」


木陰の、闇。

レンは息を殺し、瞬きすら忘れて、その光景を凝視していた。

黄金の瞳が、龍の眼光のように、細められる。

彼の脳内で、レグルスの動きが分解され、再構築され、自分の小さな体に最適化されていく。


教わっていないのではない。

彼は「捕食」しているのだ。

最強の剣帝の技術を、視覚情報だけで、喰らい尽くそうとしていた。


     †


さらに季節がふたつ巡り、修行開始から三ヶ月が経った、ある日。

その瞬間は、唐突に、訪れた。


昼下がり。

レグルスは小屋の前で椅子に座り、つまらなそうに酒瓶を傾けていた。

隙だらけに、見える。

だが、その周囲3メートルは、不可視の「死域」。

うかつに踏み込めば、反射的に放たれる拳かデコピンで、レンはまた森の彼方へ吹き飛ばされる——はずだった。


これまでは、そうだった。


ザッ。


草を踏む音がした。

正面から。堂々と。


レンが、歩いてくる。


泥だらけの服。伸びた髪。

だが、その体つきは、この三ヶ月で劇的に変わっていた。

栄養の行き届いた食事と、死線を越える修行により、ガリガリだった四肢には、鋼のような筋肉が薄く張り付いている。


「……あ? なんだ、今日は正面突破か?」


レグルスが酒瓶から口を離し、ニヤリと笑う。


「来いよ。今日の『飛行訓練』の準備はできてるぜ?」


挑発。

いつもなら、レンはここで殺意を剥き出しにして突っ込むか、あるいは搦手を使って背後に回る。


けれど。


「…………」


レンは、何も言わなかった。

殺気が、ない。怒りも、ない。

ただ、凪いだ水面のような静寂を纏い、スッ……と右足を、前に出した。


(——来る)


レグルスが本能で察知し、迎撃の構えを取ろうとした、その刹那。


消えた。


「——ッ!?」


違う。消えたのではない。

「予備動作」が、消滅していたのだ。

筋肉の収縮、重心の移動、殺気の放出。

生物が動く際に必ず生じるはずの「起こり」を、レンは極限まで、排除していた。


認識した時には、レンはすでに「懐」にいた。


神速の、踏み込み。

それは、レグルスが毎日の素振りで見せていた「力の伝達」を、レンという軽量級のボディで再現した、超加速。


(速ぇッ!)


レグルスの思考が追いつくより早く、レンの短剣が、閃く。

狙うは、左腕。そこにある、黒鉄の「重り」。


レグルスは反射的に、左腕を引いた。

生物としての格が違う。反応速度も、段違いだ。

5歳の子供の攻撃など、止まって見える——はずだった。


だが。

レンの剣筋が、空中で「曲がった」。


引いた腕を、追尾するように。

最初からレグルスの回避行動すら、読み切っていた一撃だった。

生きるか死ぬかの極限状態で研ぎ澄まされた、野生の勘。


カァンッ……。


小さく、硬質な音が、森に響いた。


「…………」


時が、止まったようだった。


レンは攻撃のフォロースルーの姿勢のまま、静止している。

その手にある短剣の切っ先が、わずかに、震えていた。


そして、レグルスの左腕。

そこに取り付けられた金属の重りに——微かだが、明確な「傷」が、刻まれていた。


「……一本」


レンが、ぼそりと、呟く。

彼は顔を上げ、驚愕に目を見開くレグルスを見据え、口の端を、歪めた。


「これで……一本だろ? クソ……が……」


それは、初めてレンがレグルスに見せた、戦士としての「勝利の笑み」だった。


     †


レンはそのまま、極度の集中による酸欠で、ドサリと倒れ込んだ。


「レン!?」


遠くで見守っていたシルフィーが、慌てて駆け寄ってくる。

だが、レグルスは、その光景が目に入らなかった。


彼は自分の左腕を——つけられたばかりの、小さな傷跡を、指でなぞった。


「…………嘘だろ」


乾いた笑いが、漏れる。

ありえない。

あって、たまるか。


「あの『天才』と呼ばれたアイツですら……20歳の全盛期に俺から一本取るのに、3年かかったんだぞ?」


レグルスの脳裏に、かつて最高傑作と呼ばれた弟子の姿が、よぎる。

あれは、本物の天才だった。努力と才能の塊だった。

それでも、レグルスの鉄壁を崩すには、数千回の敗北が必要だった。


なのに、こいつはなんだ?

たった、三ヶ月。

わずか、5歳。

しかも、魔力強化なしの、純粋な身体能力と技術だけで。


(教えたことなんて、ねぇ。ただ、俺の素振りを『見てた』だけだ)


それだけで、あのアホみたいに高度な重心移動を、盗んだのか?

いや、それだけじゃない。

最後の、あの軌道修正。あれは、教えられるものじゃない。

相手がどう動くかを細胞レベルで予知する、「捕食者の嗅覚」だ。


レグルスの背筋に、ゾクッとしたものが走った。

それは、恐怖ではない。

武人としての、抑えきれない歓喜と、戦慄。


(おいおい、冗談じゃねぇぞ……)


レグルスは、シルフィーに膝枕をされて眠るレンを、見つめた。

その寝顔は、年相応の子供のように、安らかだ。

だが、その内側に眠っているのは——。


(今なら、なぜ周りが化け物扱いしてたのか、理解できるぜ。俺はとんでもねぇ『怪物』を、起こしちまったのかもしれねぇ)


最強の剣帝の腕に、鳥肌が立つ。

それは、世界を揺るがす天災が、産声を上げた瞬間だった。

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