第38話 殺意の共同生活と、キルオアサーブ
森の奥深くに佇む、ボロボロの木造小屋。
そこは今、世界で最も危険な「戦場」と化していた。
「——死ねッ!」
早朝。まだ鳥も鳴かない薄暗がりの中、殺意のこもった咆哮が、木霊する。
レンは、ハンモックで惰眠を貪る巨体へ向け、上空から奇襲を仕掛けた。
手には、研ぎ澄ましたナイフ。
狙うは、無防備に投げ出された右足首——そこにある、「重り」だ。
完璧な、不意打ち。音も殺した。タイミングも、最善。
もらった。
そう確信した刃が、黒い金属に触れようとした、刹那。
パシィッ。
「……あ?」
レンの体が、空中で止まる。
ハンモックの上、レグルスは大きなあくびをしながら、右手の人差し指一本で、レンのナイフの腹を、軽く押さえていた。
「ふわぁ……。朝っぱらから元気だねぇ、クソガキ」
「離せッ! くそっ、この怪力ゴリラ!」
「おっと、口が悪いな」
デコピン、一閃。
バァァァンッ!
レンの体は枯れ葉のように吹き飛び、小屋の壁を突き破って、外の草むらへと転がっていった。
「いったぁ……ッ!」
全身が砕けるような、衝撃。
けれど、レンはすぐに受け身を取り、泥だらけの顔で、小屋を睨みつけた。
その黄金の瞳は、決して、折れていない。
むしろ、獲物を前にした獣のように、ギラギラと輝いていた。
これが、ここ数週間の日常だった。
ルールは、ひとつ。『24時間、いつ襲ってもいい』。
寝込みだろうが、トイレ中だろうが、食事中だろうが、関係ない。
レンはあらゆる隙を突き、あらゆる罠を張り、死に物狂いでレグルスの「重り」を奪おうとする。
そして、その全てが——あくび混じりに、あしらわれるのだ。
「……くそッ。見てろよ、絶対いつか、その指へし折ってやる」
レンは憎々しげに吐き捨てると、近くにあった桶と雑巾を、掴んだ。
戦いが終われば、次は「労働」の時間だ。
「おい、そこの床! 磨き残しがあるぞ。鏡になるまで磨け」
「うるせぇ! 今やってんだよ!」
この小屋での生活において、家事の一切は、レンの担当だった。
水汲み、薪割り、掃除、洗濯、そして料理。
レグルスは「家賃代わりだ」と言って、何もしない。
普通なら音を上げる重労働だが、レンは文句を言いながらも、完璧にこなしていた。
なぜなら、それもまた「修行」だからだ。
重い水桶を運ぶことで足腰を鍛え、薪割りで背筋を使い、雑巾がけで体幹を練る。
すべては、あの理不尽な怪物を、殺すため。
「レン、あの……私が代わりますよ? 貴方は怪我をしているし……」
その様子を、オロオロと見守る少女がいた。
シルフィーだ。
彼女は約束通り、毎日、王城からこの小屋へ通っていた。
豪華なドレスではなく、動きやすいエプロン姿で。
泥だらけになって床を磨くレンを見ていられず、彼女は手を伸ばす。
「その桶、重いでしょう? 私が水場まで……」
「触るなッ!」
レンは、食いつかんばかりの勢いで、シルフィーの手を振り払った。
弾かれた指先を、シルフィーがそっと胸元へ引き寄せる。
「これは俺の仕事だ。お前みたいな『お姫様』が、手を出していい場所じゃねぇんだよ!」
「で、でも……手から、血が出ています」
「関係ねぇ! 邪魔するなら帰れ!」
レンは再び雑巾を床に叩きつけ、一心不乱に手を動かし始めた。
その背中は、拒絶を叫んでいる。
優しさなんていらない。施しなんて、受けない。
俺は、自分の力だけで生きていくんだ——と。
シルフィーは、行き場を失った手を、そっと胸元で握りしめた。
悲しかった。
けれど、それ以上に……どこか、安堵している自分もいた。
(……目が、生きています)
礼拝堂でうずくまっていた頃の、あの死んだ魚のような目は、もうない。
今のレンの瞳には、明確な「光」が、宿っている。
たとえその源泉が、レグルスへの殺意や、世界への憎しみであったとしても。
「殺すために生きる」という目的が、彼を死の淵から引き戻し、生きる活力を与えているのだ。
ボロボロの服。あちこちに増える、生傷。
それでも、彼は昨日よりも確実に、強く、逞しくなっている。
「……ふふ」
シルフィーは、小さく微笑んだ。
今はまだ、拒絶されてもいい。
彼が前を向いて歩いているなら、今はその後ろ姿を見守れるだけで、十分だ。
たとえその道が、修羅の道だとしても。
私が、絶対に、彼を一人にはさせない。
「……じゃあ、せめてお邪魔にならないように、隅っこにいますね」
シルフィーは小屋の隅にちょこんと座り、エプロンのポケットから、ハンカチを取り出した。
いつか、彼が汗を拭かせてくれる、その時のために。
殺意と、献身。
奇妙なトライアングルの中で、少年は確実に「魔物」へと、進化していく。
そして翌日も、シルフィーは早朝から、厨房に立っていた。
拒絶されても、邪魔者扱いされても。
今の自分にできる、精一杯の「応援」を、届けるために。




