第37話 血反吐の契約と、マスターズトラップ
張り詰めた糸が切れたように、レグルスが指を離した。
カラン、と乾いた音を立てて、ナイフが床に落ちる。
「……合格だ」
レグルスは短く告げると、レンとシルフィーに、くるりと背を向けた。
「え……?」
シルフィーの声が、裏返る。
合格? 何が? あの、殺意の塊のような一撃が?
「自ら死を選ぶほど腐ってもいねぇし、かといって無謀に心臓を狙う馬鹿でもねぇ。自分の持ってる手札で、一番確率の高い『勝ち筋』を選びやがった。——生き汚ねぇその性根、気に入ったぜ」
レグルスは肩越しに、へたり込むレンを見下ろして、ニヤリと笑った。
「ついてこい、ガキ。俺の家に住まわせてやる」
「なっ、ちょっと待ってくださいレグルス!」
シルフィーが慌てて立ち上がり、その巨体の前に立ちふさがった。
ドレスの裾は汚れ、頬には涙の跡が残っている。
けれど、その瞳だけは、決して引かないという強い意志で、燃えていた。
「レンを連れて行く気ですか!? 彼はまだ子供です! あんな傷だらけで……心も体もボロボロなのに! 私が、ここで看病します!」
「看病だぁ? くだらねぇ」
レグルスは鼻で笑い、親指でレンを指差した。
「お前が与えられるのは『温かいスープ』と『ふかふかのベッド』だけだ。だがな、そいつが欲しがってるのは、そんなモンじゃねぇ」
シルフィーが、唇を噛む。
「見ろよ。そいつの目を」
シルフィーが、ハッとして振り返る。
そこには、まだ荒い息を吐きながら、血走った目でレグルスを睨みつける、レンの姿があった。
恐怖は、ない。
あるのは、「こいつを食ってやりたい」という、ギラギラとした野心だけ。
「そいつに必要なのは、誰にも脅かされないための『絶対的な力』だ。お前の優しさじゃ、そいつの飢えは満たせねぇよ」
正論だった。
悔しいけれど、今のレンが求めているのは「救い」ではなく「武器」なのだ。
かつての世界で、彼が力を求めて魔王軍へ堕ちたように。
彼の中の獣は、牙を研ぐ場所を、求めている。
「……わかり、ました」
シルフィーは拳を握りしめ、一度だけ、深く息を吐いた。
そして、凛とした声で、告げる。
「連れて行ってください。……ただし!」
「あ?」
「食事と、身の回りのお世話は、私がします! 毎日、貴方の小屋に通いますから! それだけは、譲りません。もし断るなら……聖女の権限で貴方を国外追放にして、全力で妨害します!」
それは、聖女にあるまじき、脅迫だった。
けれど、その必死さが、彼女の愛の深さを物語っていた。
たとえ彼が修羅の道を選んでも、その道端に、花を植え続ける。
それが、シルフィーの愛し方だから。
「ハッ、小動物の威嚇みてぇだな。勝手にしやがれ」
レグルスは鼻で笑い、面倒くさそうに頭をかきながら、歩き出した。
レンは、ふらつく足で立ち上がると、シルフィーを、一瞥した。
「…………」
礼も言わない。
それどころか、「余計なことをするな」と言いたげに、睨みつける。
それでも、レンは温かいスープの残る礼拝堂に背を向け、レグルスの後を追った。
地獄への入り口だと分かっていて、自らそこへ飛び込むように。
†
礼拝堂の裏手にある、森の中。
そこに、レグルスが寝起きしている、粗末な小屋があった。
家具など、ほとんどない。
あるのは、大量の武器と、酒瓶と、トレーニング機材だけ。
「いいか、俺が教えられるのは『剣』と『殺し方』だけだ」
レグルスは小屋の前で立ち止まり、振り返った。
夕闇の中で、その巨体が、圧倒的な威圧感を放つ。
「毎日死にたくなるまで遊んでやるから、死ぬなよ?」
「……殺してやる」
レンが、掠れた声で答える。
レグルスは満足げに頷くと、自身の体に触れた。
「じゃあ、まずは契約だ。ルールを説明する」
彼が着ている革のベストや、腕、足首。
そこには、黒い金属でできた棒状の「重り」が、ベルトで何本も固定されていた。
「俺の体には、この特製の重りが『7箇所』ついている。両手首、両足首、腰、背中、そして胸だ」
レグルスは、指を一本立てた。
「条件はシンプルだ。俺との組み手で、この重りのついてる部位に『触れる』か、攻撃を『かすらせる』こと。それができたら——」
彼はニヤリと笑い、レンの細い首を指差した。
「その重りを外して、テメェにつけてやる」
「……は?」
「つまりだ。俺から一本奪うたびに、俺は軽く——速くなり、テメェは重く——遅くなる。そうやって7本すべてを俺から奪い取れれば……卒業だ」
常軌を、逸していた。
今でさえ、指一本触れることすら叶わない化け物だ。
なのに、ハンデを奪えば相手はさらに強くなり、自分には枷が増えていく。
それは修行というより、終わりのない処刑に、近い。
だが。
「……上等だ」
レンの瞳に、揺らぎはなかった。
「全部奪って……その首ごと、へし折ってやるよ」
「カカッ! 良い遠吠えだ」
レグルスは大剣を地面に突き刺し、手招きをした。
「さぁ、地獄の釜の蓋は開いたぞ。——始めようぜ、クソガキ」
森の闇に、男たちの殺気と、それを見守る聖女の祈りが、溶けていく。
こうして。
最悪な師弟の、血反吐にまみれた生活が、幕を開けた。




