第36話 5秒のカウントダウンと、サバイベット
頬を張られてなお、レグルスの瞳は、凍ったままだった。
「——ククッ」
頭上から降ってきたのは、低く、地を這うような嘲笑。
「……あ?」
シルフィーが、息を呑む。
レグルスは、赤くなった頬を撫でようともしなかった。
ただ、絶対強者だけに許された傲慢な瞳で、聖女を見下ろしている。
「甘ぇな、おチビ。砂糖菓子でできた脳みそでも詰まってんのか?」
「なっ……」
「『死んでいい命はない』だぁ? 寝言はベッドで言えよ。俺はこの剣で、腐るほど人を斬ってきた。生かしておけば害にしかならねぇクズ、弱者を食い物にする豚……そして、俺とは違う正義を持っていた者。現実はな、綺麗事じゃ回らねぇんだよ」
レグルスの言葉には、戦場で積み上げてきた死体の山ほどの、重みがあった。
反論しようとしたシルフィーの言葉が、喉元で詰まる。
「それにだ」
レグルスは視線を下げ、床にうずくまるレンを、冷酷に見据えた。
「目の前の犬っころ一匹、その魂に火を点けることもできねぇで……何が『救済』だ。同情で飯を食わせて、優しさで傷を舐めて……それで救った気になるなよ? そいつが欲しがってるのは『餌』じゃねぇ。『牙』だ」
「ッ……!」
図星だった。
シルフィーは、与えることばかり考えていた。
けれど、レンの心の奥底にある「無力感」までは、救えていなかった。
レグルスはシルフィーを無視し、レンへと向き直る。
その足元には、冷たく光る短剣が、転がっている。
「おい、ガキ。そのナイフは『入場券』だ」
レグルスが、淡々と告げる。
「それを使えば、このクソみてぇな人生って舞台から、今すぐ降りられる。楽になれるぞ? 誰も文句は言わねぇ」
悪魔の囁きだった。
レンの手が、無意識に、ナイフへと伸びる。
「だがな——使い道は、もう一つある」
「……え?」
「その刃で、未来を切り拓くかだ。生きるってのはギャンブルだ。勝つか負けるか、保証なんてどこにもねぇ。だが、そのテーブルに着くための『参加費』は、テメェの命しかねぇんだよ」
レグルスは、五本の指を広げ、レンの目の前に突き出した。
「選べ。ここで野垂れ死ぬか、修羅となって生き足掻くか。——5秒、やる」
無慈悲なカウントダウンが、始まった。
「5」
数字が落ちるたび、レンの脳裏を、走馬灯が駆け巡る。
『気持ち悪い魔力を出すな』と、兄たちに罵られた日々。
『動物の死骸を漁って生き延びていたのか、この化け物が』と、顔を歪めた母の声。
冷たい土間の感触。誰が置いたとも知れぬ、葉の上の食料の味。
「4」
やめて。
シルフィーが叫ぼうとするが、レグルスの放つ凄まじい闘気が、声を封じる。
——これは、男同士の儀式だ。聖女といえど、介入は許されない。
「3」
死にたい。もう、疲れた。
レンの指が、ナイフの柄に触れる。
その切っ先を自分に向ければ、すべてが、終わる。
「2」
——でも。
でも、なんでだ?
なんで、俺だけが死ななきゃいけない?
目の前で、この巨人はニヤニヤと笑っている。
俺をゴミのように見下して、高みから、楽しんでいる。
「1」
——ふざけるな。
俺が死ぬんじゃない。
俺をこんな目に遭わせた世界が、狂ってるんだ。
恐怖が、消えた。
絶望が、冷え切った殺意へと、昇華される。
レンの呼吸が止まる。筋肉が弛緩し、極限の集中状態へと入っていく。
「0」
瞬間。
レンはナイフを逆手に持ち——自らの首筋に、当てた。
「レンッ!」
シルフィーが悲鳴を上げる。
自害を選んだ。誰もが、そう思った。
レグルスすらも、微かに眉を動かした——その刹那。
——ヒュンッ!
レンの手首が、返った。
自分の首を斬る軌道から、流れるような動作で、前方へ。
狙うは、レグルスの心臓でも、足でもない。
生物として最も柔らかく、最も脆弱な急所——「眼球」。
(貰った)
それは、5歳の子供が描く軌道ではなかった。
自害に見せかけた、フェイント。
相手の油断を誘い、確実に殺すための、罠。
錆びた切っ先が、レグルスの首元、静脈へと、迫る。
パシィッ。
音がした。
レグルスの人差し指と中指が、首筋の数ミリ手前で、白刃を挟んで止めていた。
完全に、防がれた。
圧倒的な、敗北。
——だが、レンの瞳に、絶望の色はなかった。
ナイフを止められたまま、レンはゆらりと顔を上げ、黄金の瞳で、最強の剣帝を射抜く。
「……チッ」
レンは、あろうことか、舌打ちをした。
震えてなど、いない。
その顔に張り付いているのは、獲物を仕留め損なった捕食者の、飢餓感。
「——あと、ちょっとだったのに」
ゾクリ、と。
シルフィーの背筋に、冷たいものが走った。
今、この子は、自分の命が尽きるかもしれない瞬間に、悔しがったのか?
「殺せなかったこと」を?
ナイフを挟んだレグルスの指に、ツー……と一筋の赤い線が走る。
刃が届いたわけではない。
レンの殺気が、皮膚を裂いたかのような、錯覚。
一瞬の、静寂。
そして——。
「……ハッ」
レグルスの口の端が、三日月のように、吊り上がった。




