第35話 聖女の平手と、デフィアスティア
壁に叩きつけられた衝撃よりも、心に刻まれた一撃のほうが、遥かに重かった。
「あ、あぁ……ッ!」
レンは床に転がりながら、喉の奥から込み上げる嗚咽を、吐き出した。
痛い。
だが、体が痛いのではない。
圧倒的な、力の差。虫ケラのように扱われた、屈辱。
そして何より——どれだけ牙を剥いても、殺意を向けても、誰にも届かないという「無力感」が、彼の心をへし折った。
「なんで……なんでだよぉッ!」
レンは床を、拳で叩いた。血が滲むほど、強く。
「俺が、何をしたっていうんだ! 生まれつき、魔力が濁ってただけだろ!? それだけで、親父も、母さんも、兄貴たちも……俺をゴミを見るような目で見て、殴って、縛り付けて……!」
それは、5歳の子供が抱えるには、あまりに巨大すぎる絶望だった。
「不遇」という言葉では片付けられない、存在そのものを否定され続けた記憶の、奔流。
「こんなことになるなら……助けてくれなくて、よかったのに! また殴られるくらいなら、また奴隷として売られるくらいなら……死んだほうが、マシだったんだよぉッ!」
その叫びは、あまりにも、悲痛だった。
シルフィーは息を呑み、駆け寄ろうとした足を、止める。
彼の傷は、回復魔法で癒せるような、浅いものではない。
魂が、壊れてしまっている。
「……レン、私は……」
かける言葉が、見つからない。
ただの「可哀想」という同情は、今の彼には刃物にしかならないと、分かっていたから。
——だが。
その重苦しい空気を切り裂いたのは、金属が床を叩く、冷たい音だった。
カラン、と。
一本の短剣が、レンの目の前に、投げ出された。
「——だったら、死ねばいい」
レグルスだった。
彼は笑うのをやめ、氷河のように冷徹な瞳で、レンを見下ろしていた。
「レ、レグルス……!?」
「うるせぇ、黙ってろシルフィー」
レグルスは低い声で聖女を制すると、顎で短剣をしゃくった。
「ほらよ、俺の予備だ。切れ味は保証してやる。それで頸動脈を掻っ切れば、数秒で楽になれるぞ?」
「な、に……?」
レンが、涙で濡れた顔を上げる。
目の前の巨人は、冗談を言っているようには、見えなかった。
「喚くだけなら、犬でもできるんだよ、ガキ。世の中が悪い? 親が悪い? 俺は不幸だ? ……だからなんだ」
レグルスの声は、底冷えするほど、静かだった。
「その『クソみたいな世界』ですら生きたいと願う奴だけが、地面に足をつけて立てるんだよ」
それは、残酷なまでの「真理」だった。
彼は最強の騎士として、戦場で数え切れないほどの死を見てきた。
だからこそ、死を盾にして同情を誘う「甘え」が、許せない。
「生きる気概もねぇ、戦う牙も折れた。残ったのは、惨めな泣き言だけ。……見てて不愉快なんだよ。死にたいなら、今すぐ死ね。俺が埋めてやる」
「……あ、ぅ……」
レンの手が、震える。
目の前の短剣。これを使えば、苦しみから解放される。
レグルスは、本気だ。止める気は、ない。
死への誘惑が、レンの心を黒く塗りつぶそうとした——その時だった。
パァァァァァンッ!
乾いた破裂音が、礼拝堂に響き渡った。
「——っ!?」
レンが、目を見開く。
レグルスの頬が、わずかに赤くなっていた。
シルフィーだ。
いつも穏やかで、虫一匹殺せないような聖女が。
その小さな手のひらで、最強の剣帝の頬を、思い切り叩いたのだ。
彼女の肩は、激しく上下していた。
黄金の瞳からは、大粒の涙が溢れている。
——それは、悲しみの涙ではない。
烈火のごとき、「怒り」の涙だった。
「……訂正、してください」
震える声。けれど、そこには決して譲れない信念が、宿っていた。
「死んでいい命なんて……この世に一つも、ありませんッ!」
シルフィーは、叫んだ。
かつての世界で、失われてしまった、多くの命。
そして何より、救いを求めながら死んでいった「彼」の最期を、知っているからこそ。
命を軽んじる言葉だけは、たとえ相手が誰であろうと、絶対に許せなかった。
「レンは、懸命に生きているわ! 傷ついて、怖くて、それでも必死に……! それを『死ね』だなんて……ふざけないでよ、レグルス!」
聖女の、ビンタ。
物理的なダメージなど、レグルスにとっては、蚊に刺された程度だろう。
しかし、その一撃に込められた「魂の重さ」が、張り詰めた空気を、一変させた。
レグルスは、ゆっくりと顔を戻す。
その表情は、変わらない。
頬を叩かれたことへの怒りもなければ、動揺もない。
ただ、底知れない瞳で、レンとシルフィーを、見下ろしていた。




