第34話 剣帝の登臨と、カラミティギア
礼拝堂での奇妙な同居生活が始まって、3日が過ぎた。
シルフィーの献身は、徹底していた。
朝は誰よりも早く起きてパンを焼き、昼は彼が食べやすいよう具を細かく刻んだスープを作り、夜は悪夢にうなされる彼の背を、離れた場所から一晩じゅう見守った。
その行動を支えているのは、恋心などという甘やかなものではない。
ただ、「救いたい」という、純粋で、強固な意志だけだ。
かつての世界——1周目で、彼は「魔王の先兵」として世界を壊し、最後には、シルフィー自身の命を奪った少年だった。
けれど、その最期に、彼は泣いていた。
自らの剣でシルフィーを貫きながら、「助けてくれ」と、血を吐くように懇願したのだ。
だからこそ、シルフィーは誓った。
今度こそ、彼を「殺人者」になどさせない。彼が本当は望んでいた「普通の幸せ」を、必ずこの手で与えてみせる、と。
——けれど、その想いはまだ、頑なな氷を、溶かしきれていない。
「……また、食べてくれませんでしたか」
シルフィーは、ほとんど手つかずで戻ってきたお盆を見て、小さく眉を下げた。
レンは相変わらず、祭壇の隅で警戒心を剥き出しにしている。
近づけば唸り、目を合わせれば射殺さんばかりに睨みつけてくる。
物理的な距離は数メートル。けれど心の距離は、まだ断崖絶壁の、向こう側だ。
(焦っては、いけません。ゆっくり、時間をかけて……)
そう自分に言い聞かせ、冷めたスープを温め直そうと鍋に手を伸ばした、その時だった。
ドガァンッ!
礼拝堂の重厚な扉が、蹴破られるように開け放たれた。
「——よぉ。おママごとは順調か? おチビ」
静寂をぶち壊して入ってきたのは、巨大な影。
熊のような巨躯に、無精髭。そして、背に負った身の丈ほどの大剣。
かつて王国最強の騎士団を束ねた「元・王聖総団長」にして、今はその地位を捨ててシルフィーの剣となった男。
「剣帝」、レグルス・バーンである。
「レ、レグルス!? ノックくらいしてください!」
「まーまー、いいじゃねぇか。減るもんじゃなし」
レグルスはシルフィーの抗議を鼻で笑い飛ばし、ズカズカと土足で聖域を踏み荒らした。
傍若無人。その一言に尽きる態度だ。
だが、彼が纏う空気は、ただの粗野な男のそれではなかった。
魔法でも、魔力でもない。ただ純粋に、生物としての「質量」と「筋力」が、異常なのだ。
歩くだけで床板が軋む。その圧倒的なフィジカルこそ、彼が最強たる所以だった。
「で? そいつが例の“狂犬”か」
レグルスの凶悪な視線が、部屋の隅へ向けられた。
「ッ……!」
レンの喉が、引きつった。
本能が、けたたましく警鐘を鳴らしている。
目の前の男は、今まで見てきたどの大人とも違う。奴隷商人も、貴族の護衛も、比べ物にならない。
これは——「災害」だ。
「どーれ。ツラ拝んでやるか」
レグルスが、無造作に手を伸ばす。
レンは反射的に逃げようとした。だが、遅い。
丸太のような腕がぬっと伸びたかと思うと、次の瞬間には、レンのボロ布の襟首を、無造作に掴み上げていた。
「が、ッ……!?」
「軽いな。中身が空っぽなんじゃねぇか?」
レグルスは、5歳の子供を、猫の仔でもつまむ手つきで、ひょいと持ち上げた。
足が宙に浮く。襟が締まり、息ができない。
圧倒的な暴力。逃げ場のない、拘束。
「やめてレグルス! レンが怖がっているじゃない!」
シルフィーが慌てて駆け寄ろうとする。
だが、それより早く——獣が、動いた。
「——殺すッ!」
レンの瞳孔が開ききり、殺意が爆発する。
彼は宙吊りのまま体を捻り、レグルスの剛腕に、その牙を突き立てた。
ガリッ。
「あ?」
さらに、レンの手には、いつの間にか「武器」が握られていた。
床の修理に使われていた、錆びた五寸釘。
それを逆手に持ち、迷いなく、レグルスの急所——「左目」めがけて、突き出す。
(死ねぇぇぇぇッ!)
子供の力ではない。
生きるか死ぬかの修羅場を、何度もくぐり抜けてきた者の、必殺の一撃。
シルフィーが悲鳴を上げる暇すら、なかった。
錆びた切っ先が、レグルスの眼球まで、あと数ミリに迫る。
——パシィッ。
乾いた音が、ひとつ。
「…………は?」
レンの思考が、停止した。
釘が、止まっている。
レグルスの、目の前で。
まぶたすら、閉じていない。
ただ、男の親指と人差し指が、迫る釘を「つまんで」止めていた。
魔力による防御障壁などではない。ただの指の力だけで、鉄の釘を、完全に静止させたのだ。
「……元気がいいのは結構だがな」
レグルスは、あくびが出るほど退屈そうに、ニヤリと笑った。
「じゃれあいにしちゃあ、品がねぇぞ」
「う、あ……」
化け物だ。
レンの全身から、血の気が引いていく。
噛みついている腕は、岩に歯を立てたみたいにビクともしない。鋼の筋肉に、こちらの歯のほうが欠けそうだった。
「躾の時間だ、クソガキ」
レグルスは釘をつまんでいた指を離し——そのまま、その指を、レンの額にそっと添えた。
デコピンの、構え。
純粋な筋力だけの、指弾。
「飛んでけ」
パァァァァァンッッ!
空気が、破裂した。
レンの小さな体が、砲弾のように、水平に弾き飛ばされる。
「ごふっ!?」
景色が、高速で流れた。
礼拝堂の端から端まで、十メートル以上の距離を、一瞬で。
ドガァァァァンッ!
壁に激突し、背後の漆喰が蜘蛛の巣状にひび割れる。
レンは床へ無様に転がり落ち、激痛に息を止めた。
「レ、レン!?」
シルフィーが顔色を変えて駆け寄る。
その背後で、レグルスは腹を抱えて爆笑していた。
「ギャハハハハ! 良い音しやがった! おいおチビ、安心しろ、手加減はしてやったぞ。首が飛ばなかっただけ、マシだと思え!」
床に転がるレンの体は、痛みと、それ以上の屈辱で、震えていた。
殺す気で放った一撃を、指先ひとつで、虫を払うようにあしらわれた。
「人間」として、扱われなかった。
その事実が、幾人もの大人に壊されてきたプライドへ、とどめの一撃となって突き刺さる。
「ぅ、ぁ、あああああああッ……!」
礼拝堂に、獣の咆哮のような、子供の泣き叫ぶ声が響き渡る。
それは恐怖の叫びではない。
絶対的な敗北を知った魂の、慟哭だった。




