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第33話 教会に住む狂犬と、メルドロップ

挿絵(By みてみん)

アルヴァレイン王城の、北外れ。

かつて「忘れられた場所」だった旧礼拝堂は、いま、世界で最も奇妙で静かな同居生活の舞台になっていた。


ステンドグラスを透かした陽光が、長年積もった埃を金の粉のように照らす。

祭壇の奥、かつて修道女たちが身を清めるために使っていた質素な個室。そこが今の、シルフィー・エリオス・ルーメリアの「城」だった。


ことこと、と。

小さな鍋が、機嫌よく湯気を吐いている。


「……よし。お野菜、ちゃんと柔らかくなりましたね」


豪奢な天蓋付きのベッドも、専属のシェフも、傅くメイドたちも、ここにはない。

あるのは古びた調理器具と、最小限の家財道具だけ。

それでも、シルフィーに不満などひとつもなかった。

5歳の小さな手で、少し重たいお玉を懸命に操りながら、彼女は鍋の中を覗き込む。


だって、この食事は「彼」のためのものだから。


奴隷商人の檻から連れ出した少年、レン。

彼を誰にも渡さないために、シルフィーは王城での快適な暮らしを捨て、この廃教会に住み着くことを選んだ。

1日じゅう、彼と同じ空気を吸い、彼を守る。

それが今の彼女にとって、何ものにも代えがたい幸福だった。


「レン、お待たせしました。お昼にしましょう」


お盆にスープと白パンを乗せ、シルフィーは礼拝堂の隅へ向かう。


だが。


「…………ッ」


部屋の隅、陽の差さない影の中で、その少年は膝を抱えていた。

ボサボサに伸びた黒紫の髪。泥と垢にこびりついた肌。

その隙間から覗く黄金の瞳が、手負いの獣のように、ぎらりと光る。


数日前ここへ連れてきてから、彼は一言も口をきいていない。

近づく者を殺さんばかりに睨み、喉の奥で低く唸り続けている。


「今日はカボチャのポタージュです。甘くて、美味しいですよ?」


シルフィーは努めて明るく振る舞い、相手を刺激しないよう、そろりと膝をついた。

傷ついた野良犬に、手の甲を差し出すように。

温かな湯気が、ふたりの間に細くたなびく。空腹の限界にいる子供なら、涎を垂らして飛びつくはずの匂いだ。


けれど——。


「……なんの、つもりだ」


枯れた喉から、レンが声を絞り出した。

言葉というより、恐怖の悲鳴に近い。


「毒を入れたのか……? それとも、痺れ薬か……ッ!」


「え?」


突然の敵意に、シルフィーが小さく目をしばたたく。

その一拍の戸惑いを、レンは図星と取り違えた。膝を抱える腕に、ぐっと力がこもる。


「知ってるんだぞ! お前みたいな綺麗な服を着た奴が、俺たちをどうするか。優しくするのは最初だけだ。『太らせてから食う』気なんだろ!? それとも、高い値で売り飛ばす気か!?」


ガシャンッ!


乾いた音が、礼拝堂の高い天井に跳ね返った。

レンが発作的に腕を振り払い、お盆を叩き落としたのだ。


陶器が砕け、黄金色のスープが石床に広がっていく。

時間をかけて煮込んだ野菜が、無惨なゴミになって散らばり、シルフィーの白いエプロンに点々と跳ねた。


「はぁ、はぁ、はぁ……ッ」


レンは肩で息をしながら、壁に背を押しつけて震えていた。

こいつは敵だ。温かい食事は罠で、優しい言葉は地獄への入り口だ。

そう学ばなければ生き延びられなかった彼の過去が、シルフィーの愛を、肉体ごと弾き返していた。


普通の少女なら、泣き出していただろう。

「せっかく作ったのに」と、声を荒らげてもおかしくない。


けれど、シルフィーは動じなかった。

ドレスの裾をまくり、スープの海の中へ、ためらいなく膝をつく。


「……っ」


レンが、びくりと身を硬くした。

殴られる、と思ったのだ。食事を粗末にした奴隷への罰は、いつだって痛みだったから。


だが、彼女の手は振り上げられなかった。

その小さな素手で、割れた陶器の破片を、ひとつ、またひとつと拾い始める。


「……ごめんなさい」


静寂に、鈴を転がすような声が落ちた。


「ごめんなさい、レン。……怖がらせて、しまいましたね」


シルフィーは顔を上げた。

悲しげに、それでいて慈しむような瞳。

怒っていない。自分の苦労が泡になったことなど、髪一筋ほども気にしていない。

ただ、自分の配慮が足りず「彼を怯えさせたこと」だけを悔いている顔だった。


「毒なんて、入っていないけれど……貴方がそう思うなら、食べる必要はありません。無理強いして、ごめんなさい」


手早く残骸を片付けると、シルフィーは部屋の隅を指差した。

そこには、レオニスに運び込ませた、最高級のふかふかなベッドが据えてある。


「あちらのベッドを使ってくださいね。シーツも、新しいものに替えてありますから」


「……は? お前は、どうするんだよ」


思わず、レンが聞き返す。

この部屋に、ベッドはひとつしかない。

するとシルフィーは、こともなげに祭壇の裏を指差した。


「私は向こうに。……昔のシスターが使っていた木の寝台を洗ってありますから、そこで寝ます」


「ッ!?」


レンは、絶句した。

あそこにあるのは、カビ臭い、板切れ同然の寝台だ。

王城で絹にくるまれて眠るはずの聖女が、あんな場所で寝るというのか。俺に、最高級のベッドを譲って?


「では、私は向こうにいますから。……何かあったら、呼んでくださいね」


最後にニコリと微笑んで、シルフィーは去っていった。

パタン、と扉が閉まる音すら、優しい。


後に残ったのは、甘いスープの残り香と、立ち尽くすレンだけ。


「…………なんだよ、あいつ」


レンは、その場にへたり込んだ。

心臓が、うるさいほど鳴っている。

殴られなかった。罵られなかった。

それどころか、世界で一番大切なものを見るような目で、見つめられた。


喉が、渇いていた。

入り口に置かれた水瓶が、宝石のように煌めいて見える。

レンはおずおずと手を伸ばし、震える指で、それを口へ運んだ。


冷たい水が、干からびた喉を滑り落ちていく。

毒など、入っていなかった。

ただ、甘露のように美味しい水だった。


(……罠だ。絶対、罠だ)


そう言い聞かせても、あの悲しげな笑顔が、瞼の裏から剥がれてくれない。


夕暮れの鐘が鳴る。

ステンドグラスを抜けた茜色が、ふたりを隔てる壁に、長い影を落としていた。

孤独な獣と、それを守る聖女。

ふたりの距離はまだ遠く、手を伸ばしても届かない。


それでも、凍てついた冬の大地に、最初の一滴が落ちたことだけは、確かだった。

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