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第32話 差し伸べた手と、エンジェイドル

挿絵(By みてみん)

鼻を突くのは、腐った水と鉄錆の臭い。

華やかな王都アルヴァレインの光が、決して届かない、どん詰まりの路地裏。


5歳のシルフィーは、泥濘に足を取られそうになりながらも、ひたすらに走っていた。

純白の靴は、すでに泥だらけ。

精巧な刺繍が施されたドレスの裾も、汚水で黒く染まっている。

けれど、彼女はそんなことなど、気にも留めない。


「ハァ、ハァ……ッ! こっちよ、レグルス!」


「おいおい、そんなに急ぐなって。転んでも知らねぇぞ、お姫様」


背後からは、散歩でもしているかのような軽い足音。

最強の剣聖レグルスにとって、幼子の全速力など、止まっているも同然だ。

彼は欠伸を噛み殺しながら、呆れたように、けれど油断なく周囲を警戒してついてくる。


突き当たりに見えたのは、ボロボロの天幕と廃材で組み上げられた、醜悪な小屋だった。

周囲には、人の目を好まぬ商売をする輩特有の、粘つくような視線が漂っている。


違法奴隷商人のアジト。

地図の座標と、《魔力探知》が告げる「凍てつくような孤独」の気配が、ぴたりと一致した。


(……ここね)


シルフィーは足を止め、睨みつけるように小屋を見据えた。

入り口には、強面の男たちが2人、見張りとして立っている。


「あぁん? なんだこのガキ……って、おい! その格好、貴族の嬢ちゃんか?」


ひとりが声を上げた途端、もうひとりが下卑た笑みを浮かべて、ずるりと前に出る。


「へへっ、カモがネギ背負ってきやがった。迷子か? おじさんたちが保護してやろ——」


男たちが薄汚い手を伸ばした、——その瞬間。


ズンッ——。


大気が軋むような殺気が吹き荒れ、男たちが白目を剥いて泡を吹いた。

物理的な攻撃ではない。ただの「威圧」だけで、彼らの意識が、一瞬で刈り取られたのだ。


「……あー、クソ。朝っぱらから不愉快なツラ見せんじゃねぇよ」


シルフィーの背後から、不機嫌の塊のような男が現れる。

ボサボサの髪に、だらしない着こなし。

だが、その背に負った身の丈ほどもある大剣を見た瞬間、小屋の中から飛び出してきた商人たちの顔色が、紙のように白く染まった。


「あ……あ、ありえねぇ……!」


ひとりが、震える指を空中に突き出した。


「そのふざけたデカさの剣……ま、まさか、『剣帝』レグルスか!?」


男たちの声が裏返り、ガチガチと歯が鳴る音が、薄暗い壁に跳ね返る。

アルヴァレインの裏社会において、その名を知らぬ者はいない。

かつて単身で盗賊ギルドを壊滅させ、王国の英雄となっただけではない。

現魔王が着任する前の「前魔王」と「前々魔王」すらも、ひとりで討伐したと噂される——文字通りの、人類最強の殺戮兵器。


「な、なんでこんな所にいんだよ!? 帝都に行ったはずじゃねぇのか!?」


ひとりが裏返った声で叫ぶ。

もうひとりは、もはや声も出せず、その場で失禁していた。


「ひ、ヒィィッ! 助けてくれぇ! 殺されるぅッ!」


小悪党たちは腰を抜かし、這いつくばって逃げ惑う。

魔王すら葬る男が目の前にいるのだ。抵抗などという概念すら、浮かばない。ただの天災だ。


レグルスは彼らをゴミでも見るような目で見下ろし、鼻を鳴らした。


「チッ、うっせぇな。散歩の邪魔だ、失せろ」


彼が一歩、踏み出しただけで、商人たちは悲鳴を上げて散り散りに逃げ去った。

剣聖の覇気。言葉などいらない。生物としての格が、違いすぎる。


「制圧完了だ。……ほら、好きにしな」


レグルスが顎で奥を指す。

シルフィーは小さく頷き、薄暗い小屋の中へと足を踏み入れた。


そこには、いくつもの鉄格子が並んでいた。

中には、痩せこけた子供たちが押し込められ、怯えた目で震えている。


「……ッ」


シルフィーの足が、一瞬、止まった。

本来なら、一刻も早くあの子の元へ行きたい。一秒でも早く、会いたい。

けれど、目の前で助けを求める小さな命たちを、無視して通り過ぎることなど、聖女にはできなかった。


彼女は足を止めず、振り返りもせず、力強い声でだけ、後ろに投げた。


「レグルス。この子たちを全員、解放してあげて」


「はぁ? またかよ。何度も言うが俺は子守りじゃねぇぞ」


レグルスが、露骨に顔をしかめる。


「お願い。……私が全員、引き取るわ。貴方なら、鍵くらい指一本で壊せるでしょう?」


レグルスが、面倒くさそうに頭を掻く。


「……チッ。人使いの荒いガキだぜ」


レグルスは悪態をつきながらも、大剣の柄に手をかけた。

彼がいるなら、もう大丈夫だ。

シルフィーは再び前を向き、奥へと走った。


光の一切届かない、小屋の最深部。

そこに、他の檻とは違う、厳重に鎖で何重にも巻かれた「頑丈な木箱」が、ぽつんと据えられていた。

猛獣でも封じ込めるような、厳重な扱いだった。


シルフィーは、その箱の前に立った。

中から漏れ出してくる、悲鳴のような魔力の残滓。

1周目の最期、世界を呪い、涙を流しながら剣を突き立てた、あの青年の慟哭の原点が、ここにある。


(……やっと、辿り着いた)


「どきな、嬢ちゃん」


追いついてきたレグルスが、面倒くさそうに剣を一閃させる。

ジャララッ——!

鎖が斬り裂かれ、重い錠前が地面に落ちた。


シルフィーは、震える手で木箱の扉に手をかけた。

深呼吸を、ひとつ。

そして、勢いよく扉を開け放つ。


ギギギギッ——バンッ!


     †


暗闇。

それが、少年にとっての「世界」の全てだった。


思い出すのは、屋敷での光景だ。

父も、兄たちも、俺を見る時はいつも顔を歪めた。

見た目ではない。肌をざらつかせる、不快な魔力の波長だ。「化け物」と呼ばれ、日の当たる場所から引き剥がされ、屋敷の最奥に隔離された。家畜以下の暗がりに、捨て置かれたのだ。


血の繋がった家族にすら拒まれた命。

誰にも、必要とされていない。


(殺してやる)


木箱の隅で、少年は膝を抱えて、うずくまっていた。

全身には折檻の痕である無数の痣と傷。

足首には、皮膚に食い込むほどの重い鉄枷。

食事は3日に一度、腐りかけた残飯が投げ込まれるだけ。


少年の心は、どす黒い憎悪と、深い絶望で塗りつぶされていた。

いつかここを出たら、全員殺してやる。

俺を捨てた家族も、殴った商人も、このクソみたいな世界ごと、全部壊してやる。

そう思わなければ、心が、壊れてしまいそうだった。


ガチャン、という音がした。

また、殴られるのか。

それとも、どこか別の地獄へ売り飛ばされるのか。


少年はぎらついた目を向け、威嚇の姿勢を取った。

誰が入ってこようと、ただでは済まさない。

俺に、触れるな。


ギィィィ。

扉が開く。


カッ——。


「う……っ」


少年は、目を細めた。

眩しい。目が焼けるほどの、圧倒的な「朝の光」が、暗闇の箱の中に雪崩れ込んできた。


逆光の中、誰かが立っている。

殴りに来た大人か? いや、小さい。


光に目が慣れてくる。

そこにいたのは——今まで見たこともないほど綺麗な、「女の子」だった。


月光を紡いだような銀色の髪。

宝石のような、黄金の瞳。

純白のドレス。


天使?

いや、違う。

その天使は、ひどく汚れていた。

綺麗なドレスは泥だらけ。靴なんて、真っ黒だ。髪も乱れ、汗を流し、息を切らして、肩を上下させている。


なにより。

どうして、泣いているんだ?


彼女の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちている。

俺を見て、泣いているのか?

汚いから? 怖いから?

そうだ、どうせ俺なんて、化け物だ。


「……ッ、なんだお前! 寄るなッ!」


少年は枯れた声を絞り出し、噛みつくように叫んだ。

来るな。優しそうな顔で近づいて、どうせまた裏切るんだろ。

期待なんて、させるな。


——けれど。


少女は、引かなかった。

それどころか、汚い箱の中へ、躊躇なく一歩、踏み込んできた。


バシャッ。

床の汚水が跳ね、彼女の白い靴下を汚す。

それでも彼女は、止まらない。


「……見つけた」


少女が、震える声で呟いた。

その声には、恐怖や嫌悪なんて、微塵も混じっていない。

失くしていた宝物を、ようやく見つけ出した者の——熱い、熱い響きだった。


「やっと……会えた……」


少女は、泥だらけの床に膝をついた。

俺と同じ、目線の高さ。

彼女の手が、ゆっくりと差し伸べられる。


少年はビクリと体を強張らせた。


殴られる。

反射的に、身構える。


——だが、その手は空中で止まった。


触れるか触れないかの距離。

彼女は、壊れ物にそっと触れる手つきで、優しく微笑んだ。

涙でぐしゃぐしゃの、世界で一番綺麗な笑顔で。


「……痛かったね」


その一言が、少年の心臓を、貫いた。


「寂しかったね。怖かったね。……ひとりで、よく頑張ったね」


ドクリ、ドクリ。

止まっていた少年の時間が、動き出す音がした。


——違う。

この子は、俺を殴らない。

俺を、化け物扱いしない。

ただ、俺の痛みを、自分の痛みみたいに、泣いてくれている。


どうして?

俺は、家族にすら捨てられたのに。世界を呪っているのに。

なんでそんなに、愛おしそうに俺を見るんだ。


「……もう、大丈夫」


シルフィーは、汚れた少年の手を、そっと取った。


温かい。

凍えていた少年の指先に、彼女の体温が、流れ込んでくる。


「これからは私が、貴方を守ってあげる」


それは、契約でも、気まぐれな慈悲でもない。

魂に刻み込むような、絶対の誓い。


「暗闇になんて、もう二度と置かない。……私が、貴方の光になるから」


差し込む朝陽よりも眩しい、彼女の黄金の瞳。

少年は、吸い込まれるように、その目を見つめ返した。


殺意が、溶けていく。

憎悪が、行き場を失って霧散する。

代わりに込み上げてきたのは——生まれて初めて知る、「安堵」という名の感情。


「……お名前は?」


少女が、鈴を転がすような声で尋ねた。

少年は、躊躇った。

もう、誰も呼んでくれなかった名前。

いや、そもそも、あの家にいた頃の名前なんて、もう、意味がない。


少年は、少しの間、黙り込んだ。

喉が張り付いて、うまく、声が出ない。

それでも、彼女は急かさず、ただじっと、待ってくれている。


「…………レン」


小さく、掠れた声で、答える。


「……レン、だ」


シルフィーは、花が綻ぶように笑った。


「ええ。……行きましょう、レン」


少女は、少年の汚れた手を、力強く引いた。

少年は、戸惑いながらも、立ち上がらざるを得ない。

心が完全に開いたわけじゃない。まだ何も、信じられない。

けれど、その小さな手の熱量と、差し込む光の眩しさに、半ば強引に引きずり出されていく。


暗闇の箱から。

光あふれる、世界へ。


少年の素足が、初めて、朝の石畳を踏みしめた。

冷たい朝の風が、剥き出しの足首の鉄枷の痕を、ゆっくり、撫でていった。

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