第31話 旧礼拝堂と、シークネスト
「——さあ、ここが貴賓室だ。我が国で最も眺めが良く、警備も厳重な『白鳥の間』だよ」
レオニス国王が、誇らしげに重厚な扉を開けた。
目の前に広がったのは、帝国の私の部屋にも劣らない、豪華絢爛な空間だった。
ふかふかの絨毯。天蓋付きの巨大なベッド。窓の外には、手入れの行き届いた王立庭園。
普通の令嬢なら、歓声を上げて飛びつくような、最高のおもてなしだ。
——けれど。
(……ダメね。ここじゃダメだわ)
シルフィーは内心で、即座に却下した。
豪華すぎる。人の目が多すぎる。何より——泥だらけで連れてくる予定の「彼」が、こんな煌びやかな部屋で落ち着けるはずがない。
1周目の最期、彼が世界の全てを拒絶していた姿が、瞼の裏を過ぎる。
人間を信じられず、温もりを知らずに凍えていた彼に必要なのは、こんな広い部屋じゃない。
狭くても、薄暗くても、誰にも見つからずに安心して眠れる、「隠れ家」のほうだ。
「……陛下。大変素晴らしいお部屋ですが、私には過ぎたものですわ」
シルフィーは申し訳なさそうに眉を下げ、首を横に振った。
「それに、私は修業の身。こんなに贅沢をしては、女神様に顔向けできません」
「む? 修行、か……。なるほど、聖女らしい心がけだ」
レオニスは感心したように頷いた。
嘘ではない——シルフィーにとっての「修行」とは、彼を救い出し、人間らしい生活を取り戻させてあげることなのだから。
「では、どこか希望はあるかな? 他の離宮も空いているが」
「はい。……お庭を、少し歩いてもよろしいですか?」
シルフィーはレオニスの許可を得て、庭園を歩き出した。
その視線は、美しい花壇ではなく、城壁の隅、人目につかない「死角」を探して、ゆっくり彷徨う。
レグルスも「あー、かったりぃ」とあくびをしながらついてくる。
執事やメイド長たちも、物珍しそうに幼き聖女の後ろ姿を見守っていた。
そして、外壁の近く。
木々に埋もれるようにしてひっそりと佇む、古びた石造りの建物を見つけた。
(……あった)
ステンドグラスは煤け、扉の蝶番は錆びついている。
屋根にはツタが絡まり、長年放置されていたことが、ひと目で分かる「旧礼拝堂」。
けれど、その構造は堅牢で、何より——ここなら、人目を避けて彼を匿える。
「あそこ! あそこがいいです!」
シルフィーはパッと顔を輝かせ、小さな指で建物を指した。
「は……? あそこ、か?」
レオニスが、目を丸くする。
後ろに控えていたメイド長も「ま、まさか! あそこはもう何年も使われていない、物置同然の場所ですわ!」と青ざめた。
「やめておきなさいシルフィーちゃん。埃っぽいし、ネズミが出るかもしれないぞ? 聖女が住む場所では、ない」
レオニスが渋る。当然の反応だ。
だが、シルフィーは一歩も引かなかった。
「いいえ、あそこがいいのです! 神様のお家が汚れたままなんて、聖女として放っておけません!」
シルフィーは両手を胸の前で組み、ウルウルとした瞳でレオニスを見上げる。
「私、お掃除します! 自分の手で綺麗にして、神様に感謝を捧げたいんです。……ダメ、ですか?」
純粋な奉仕の心。
そう見えただろう。
「知の怪物」と呼ばれる王の眉が、ピクリと動いた。彼も、5歳児の純粋無垢な「お願い」には、耐性がなかったらしい。
「うっ……。わ、分かった。好きに使いなさい。すぐに掃除の者を……」
「ありがとうございます! でも、自分のお家ですもの、私もやります!」
シルフィーは満面の笑みで宣言した。
その健気さに、周囲の大人たちから「尊い……」という溜息が漏れる。
「じゃあ俺は、そこの小屋でいいわ」
空気を読まないレグルスの声が、横から割り込んできた。
彼が指差したのは、礼拝堂の横にある、かつて出張庭師が使っていたボロ小屋だ。
「本館の空気は澄ましすぎてて息が詰まるんだよ。こっちの方が性に合ってる」
「……好きにしろ。貴様にはお似合いだ」
レオニスは心底嫌そうな顔で、許可を出した。
* * *
かくして、「聖女様の大掃除」が始まった。
「よいしょ、よいしょ……!」
派遣されたメイドたちが慌ただしく埃を払う中、シルフィーも小さなバケツと雑巾を手に、戦場へと繰り出した。
「聖女様! そのようなことは我々が!」
「いいえ! ここは私の大切な場所になるんですから!」
シルフィーはスカートの裾をまくり上げ、トテトテと礼拝堂の中を走り回る。
背伸びをして窓枠を拭き、小さな体で床を磨く。
その姿は、天界から降りてきた天使、そのもの。
「はぁ……なんて愛らしい……」
「心が洗われるようだわ……」
手伝いに来たメイドたちは、手を休めてウットリと見惚れている。
レオニス王も、執務の合間を縫ってわざわざ様子を見に来ては、「うむ、やはり帝国にはもったいない逸材だ」と目尻を下げていた。
だが、そんな大人たちの感動を他所に、シルフィーの頭の中では、極めて現実的な計算が、淡々と回っていた。
(……窓枠の建付け、よし。ここからなら夜中に彼が出入りしても音がしないわ)
キュッキュッと窓を拭きながら、逃走ルートを確認。
(床下の収納スペース、湿気なし。万が一の時は、ここに彼を隠せる)
床を磨くフリをして、隠し扉の開閉具合をチェック。
(祭壇の裏の死角……ここね。ここに一番ふかふかのベッドを置いてあげましょう。誰にも見つからず、安心して眠れるように)
表向きは「健気に掃除をする天使」。
その裏の顔は、「救い出す少年のための安全地帯を確保することに余念がない、管理者」。
(待っててね。貴方が怯えなくて済む場所、私が完璧に作ってみせるから)
シルフィーの瞳には、掃除への情熱とは違う、使命感の炎が宿っていた。
けれど、周りの大人たちは、その「一生懸命さ」のほうにだけ涙し、「なんて素晴らしい聖女様なのだ」と勝手に評価を爆上げしていた。
*
——一方、その頃。隣の庭師小屋では。
「プハァーーッ! やっぱり母国の空気と酒は最高だぜぇッ!」
レグルスが、昼間から酒瓶をラッパ飲みし、奇声を上げていた。
掃除などする気配は、ゼロ。
埃まみれのソファーに寝転がり、帝国の堅苦しさから解放された喜びを、全身で表現している。
「あ、そこのねーちゃん。尻にゴミついてるぞ〜?」
「きゃっ!?」
掃除に来た若いメイドとすれ違いざま、ペロンと尻を撫でる。
最低だ。
この国が誇る英雄であり、最強の剣聖——その実態は、ただの酔っ払いセクハラ親父だった。
「……見てみろ、あれを」
視察に来ていたレオニスが、天使を見た時の溶けた顔を、一瞬で氷点下まで戻した。
ゴミを見る目で、レグルスを指す。
「同じ『人間』でありながら、この差はどうだ」
「……ええ。一方は天使、もう一方は……ただの汚物ですね」
メイド長が、辛辣に吐き捨てる。
シルフィーの株が上がる反動で、レグルスの株はストップ安近くまで暴落していた。
「おいおっさん! 騎士団の連中呼んで宴会しようぜ! 経費で!」
「……衛兵。あの小屋の周りに『防音結界』と『認識阻害』を張れ。視界に入れるだけで教育に悪い」
レオニスは頭痛をこらえるように額を押さえた。
*
夕暮れ時。
礼拝堂は、見違えるほど綺麗になっていた。
窓ガラスは夕陽を浴びて琥珀色に輝き、床は鏡のように磨き上げられている。
「……完璧だわ」
シルフィーは、誰もいなくなった礼拝堂の真ん中で、満足げに息をついた。
小さな家具も運び込まれた。ふかふかの毛布も、温かいランプも、用意した。
(あとは……あの子を、連れてくるだけ)
シルフィーは、窓の外、広がり始めた夜の闇を見つめた。
先ほど陛下から地図が届き、準備は完璧。
明日。明日の朝一番で、全てが動き出す。
1周目の記憶が、ふと蘇る。
魔王の僕として世界を憎み、私を貫いた彼の、泣き出しそうな顔。
あの時、私は彼を救えなかった。
でも、今は違う。まだ彼は罪を犯していない。まだ、間に合う。
(怖くないわ。……だってもう、帰る場所は作ったもの)
シルフィーは小さな拳を、ぎゅっと握りしめた。
* * *
翌朝。
「——起きて、レグルス!」
ドカッ、という衝撃音と共に、レグルスはソファーから転げ落ちた。
「ぶべらっ!? ……な、なんだ敵襲か!?」
「朝よ! 出発の時間!」
飛び起きたレグルスの目の前にいたのは、すでに外出着に着替え、リュックを背負ったシルフィーだった。
朝の光を背負ったその表情は、真剣そのもの。
「……あぁん? まだ陽も昇ってねぇぞ……」
「昨日の夜、『地図』が届いたの。陛下からの差し入れよ」
シルフィーは手元の羊皮紙を、ヒラヒラとさせた。
昨日の約束通り、レオニスが手配してくれた、詳細な「王都裏面図」だ。
「行くわよ、レグルス。……お散歩の時間だわ」
「散歩ってレベルの気合じゃねぇだろ、その顔……」
レグルスはぼやきながらも、剣を掴んで立ち上がった。
2人は小屋を出て、早足で城門へ向かう。
「あ、お待ちください! 聖女様、どちらへ!?」
門番の衛兵が慌てて槍を交差させる。
こんな早朝に、子供と不審者(英雄)の組み合わせ。止めない方がおかしい。
だが、シルフィーは立ち止まらなかった。
ニッコリと、最高に愛らしい笑顔を浮かべて、言い放つ。
「お散歩です! 朝の空気が美味しいから、ちょっと城下まで!」
「えっ、しかし護衛もなしに……」
交差した槍が、困ったように揺れる。
「レグルスがいます! 通してくれないと、おしっこ漏れちゃう!」
「ええっ!?」
衛兵が動揺した隙に、レグルスが「どけ!」と強引に突破口を開く。
2人は身を翻し、城門を駆け抜けた。
「ちょ、お待ちをーッ!」
衛兵たちの声を背に、シルフィーは走った。
握りしめた地図。目指す場所は、王都の光が届かない、底の底。
(待ってて。……今、行くから)




