第30話 智王の一瞥と、アビスカルテ
アルヴァレイン王国の王城は、帝国の武骨な城塞とは、対照的だった。
洗練された尖塔。
幾何学模様が刻まれた大理石の回廊。
そして何より——そこを行き交う人々の瞳に宿る色が、違った。
帝国の人間が「力」を信奉するなら、この国の人間は「知」と「益」を重んじる。
空気中に漂うのは、剣の錆びた匂いではなく、インクと計算高い欲望の香りだ。
その最高峰たる場所——「謁見の間」。
重厚な扉が開かれた瞬間、数百の視線が一斉に突き刺さった。
「——王聖総団長レグルス・バーン、ならびに、ルーヴェル帝国聖女シルフィー・エリオス・ルーメリア殿! 入場!」
衛兵の高らかな声と共に、シルフィーは緋色の絨毯の上を歩き出した。
隣を歩くのは、不機嫌そうに欠伸を噛み殺している最強の剣聖、レグルスだ。
5歳の可憐な少女と、凶悪な人相の大男。
あまりに不釣り合いな2人の登場に、整列していた貴族たちの間から、隠しきれないざわめきが波紋のように広がっていく。
(……すごい視線。値踏みされているわね)
シルフィーは内心で緊張を飲み込んだ。
この先に座る男——この国の王を説き伏せなければ、路地裏にいる「彼」を迎えに行く権利すら、得られない。
シルフィーは背筋をピンと伸ばし、完璧な「聖女の歩調」で進んだ。
玉座の前まで進み出たところで、レグルスが足を止めた。
シルフィーもそれに倣い、優雅にスカートの裾を摘んでカーテシーを披露する。
——だが、その静寂を破るように、ひとりの男が大声を上げた。
「陛下! これは一体どういうことでございますか!」
列から飛び出してきたのは、見るからに神経質そうな貴族だった。
彼はレグルスを指差し、唾を飛ばして叫ぶ。
「レグルス団長は帝国へ出向中のはず! 正式な帰還命令もなしに独断で戻り、あまつさえ他国の重要人物である聖女殿を連れ回すなど、国際問題になりかねませんぞ! 即刻、彼を拘束し尋問を——」
「——……騒がしいな」
低く、静かな声だった。
怒鳴ったわけではない。むしろ、雨音よりも静かな呟き。
けれど、その一言が落ちた瞬間、謁見の間の空気が「凍結」した。
シルフィーは、ゆっくりと玉座を見上げた。
そこに、その男はいた。
アルヴァレイン国王、レオニス・アルヴァレイン。
くすんだ緑の髪に、理知的なエメラルドの瞳。
彼は頬杖をついたまま、騒ぎ立てる貴族を、感情のない瞳で、ただ「一瞥」した。
ただ、見ただけ。
それだけで、喚いていた貴族の顔色が、土気色に変わった。唇がわなわなと震え出す。
脳裏に、自身の裏帳簿や弱みを全て握られているという恐怖が、蘇ったのだ。
レオニスは、この国において、「情報」を支配している。
「ボ、ボルジェ侯爵……下がれ。陛下の御前だぞ」
周囲の貴族が青ざめて、彼の襟首を引き戻した。
謁見の間は、針1本落ちる音すら聞こえるほどの、静寂に沈んだ。
「ふぅ……。朝から頭が痛い」
レオニスはやれやれと溜息をつき、気だるげに指先を振った。
「ダリウス皇帝からの『荷物(聖女とレグルス)』だ。私が許可した。……文句がある者の領地は、明日から関税を見直してもいいのだぞ?」
その言葉は、絶対だ。
「金」と「情報」で首輪を握る。それが、智王レオニスの支配。
レオニスは満足げに頷くと、ようやく興味の矛先を「荷物」へと向けた。
「さて。……ようこそ、シルフィーちゃん。よく来てくれたね」
王の表情が、一瞬で「優しいおじ様」のものへと切り替わる。
だが、シルフィーはその瞳の奥にある理知的な光が、自身の価値を冷静に分析していることに、気づいていた。
「突然の来訪にも関わらず、温かく受け入れてくださり感謝いたします、レオニス陛下」
シルフィーは愛らしい声で、最大限の敬意を込めて答えた。
ここで賢さをひけらかすよりも、純粋な子供として振る舞うことが、相手の警戒を解く最適解だと判断したからだ。
「構わないよ。ダリウス殿からの親書は届いている」
レオニスは、手元の羊皮紙をひらりと振った。
「『聖女が外の世界を見たいとワガママを言い出した。温室育ちの花より、外の風に当てたほうが強く育つだろうから預かってくれ』とな。……まったく、あの筋肉達磨は、人使いが荒いにも程がある」
言葉は少し乱暴だが、その声色には、かつてのアレイシスの父を通じて親交のあった先輩・ダリウスへの信頼と、少しばかりの呆れが滲んでいた。
そして、レオニスの視線が、隣のレグルスへと、ぬるりと移る。
「……で? 貴様はどうなんだ、レグルス」
「あ? なんだよ、おっさん」
レグルスが、悪びれもせずタメ口で返した。
周囲の貴族がヒッと息を呑むが、レオニスは眉ひとつ動かさない。最強の剣聖の不敬など、今に始まったことではないからだ。
「聖女の修行に付き添うという大義名分はあるようだが……本当の理由は別にあるのだろう?」
「……っ」
レグルスが、わざとらしく視線を斜めへ逸らす。
「図星か。……帝国の『猛獣』から逃げ帰ってきたな?」
「ぶふっ!?」
レグルスが盛大に咽せ、慌てて口元を拭った。
「ち、違いますよ! 俺はあくまで聖女様の崇高な志に感銘を受けて……!」
「嘘をつくな。貴様の顔に『助けてくれ』と書いてあるぞ」
レオニスは可笑しそうに口元を歪めた。
「まあいい。あの女が我が国の国境付近で暴れ回るのも迷惑だ。……貴様を匿うことは許可する。その代わり、分かっているな?」
レオニスの指先が、トントンと玉座の肘掛けを叩く。
その規則正しい音だけが、広間に低く響く。
「聖女シルフィー嬢は帝国の至宝だ。彼女の髪一本でも損なわれれば、帝国との同盟に亀裂が入る。……私の胃に穴が空く前に、完璧に護衛しろ」
「へいへい。分かってらぁ」
レグルスが面倒くさそうに頭をかく。
その横で、シルフィーは冷静に分析していた。
(ダリウスお爺様は武を極めた方だけど、こちらの王様は政治を極めた方……。剣を持たずに人を動かす、本物の為政者だわ)
レオニスは、再びシルフィーへと向き直った。
「シルフィーちゃん。この国にいる間は、私が貴女の後ろ盾になろう」
王は立ち上がり、広間に響く声で宣言した。
「彼女は我が国の国賓であり、私の庇護下にある。いかなる派閥、いかなる貴族であっても、彼女への接触や勧誘、政治的利用は一切禁ずる。……破った者は、一族郎党、地下牢で残りの人生を過ごすことになると思え」
その言葉は、貴族たちへの「釘刺し」であり、同時に、シルフィーへの最強の「防波堤」の約束だった。
これで、国内の面倒な派閥争いに巻き込まれる心配はない。自由に動ける環境が、整った。
「感謝いたします、陛下」
シルフィーは深く頭を下げた。
これで第一段階クリア。王の許可を得た。最強の護衛もいる。あとは——
「では、侍従に部屋へ案内させよう」
レオニスが話を締めくくろうとした、——その時。
シルフィーは顔を上げ、王の翠玉の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「陛下。……恐れながら、ひとつだけ『お願い』を言ってもよろしいでしょうか?」
「ほう? なんだい? 最高級のお菓子かな?」
翠玉の瞳が、面白がるように細められる。
「いいえ。……地図が、欲しいのです」
レオニスの扇が、ぴたりと止まった。
「地図?」
王の眉が、わずかに上がった。
「はい。この王都の……一番、光の当たらない場所の地図が」
——会場が、ざわめいた。
聖女が求めるものとは、到底思えない言葉。
だが、レオニスだけは、その意味を即座に計算した。
光の当たらない場所。スラム。貧民街。
帝国で奴隷解放に勤しむ聖女の噂、突然の来訪、この清廉潔白な聖女が、なぜそんな場所を?
(……なるほど。ダリウス先輩が『ワガママ』と言った理由はこれか)
彼女は、何かを探している。それも、王城の宝物庫にはない、泥にまみれた「何か」を。
そしてその瞳には、ただの好奇心ではない、切実で揺るぎない意思が宿っている。
(面白い)
レオニスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
彼は玉座からゆっくりと立ち上がり、階段を降りてくる。
広間に緊張が走る中、王はシルフィーの目の前で足を止め、その小さな冒険者を優しく見下ろした。
「……地図、か。よかろう。すぐに用意させよう」
レオニスは、それ以上は理由を問いたださなかった。
だが、その翠玉の瞳は、雄弁に語っていた。
「今はまだ聞かないでおくよ」と。
「その代わり、地図ができるまでの間、私の相手をしてくれないかな?」
レオニスは、シルフィーに手を差し出した。
「我が国の城は複雑でね。……私が直々に案内してあげよう」
「えっ……? 陛下自ら、ですか?」
シルフィーが目を丸くする。
周囲の貴族たちも「陛下が案内役など……」と青ざめているが、レオニスは意に介さない。
「いいではないか。私も少し、退屈していたところでね」
レオニスは悪戯っぽく微笑み、そして声を潜めて、付け加えた。
「さあ、行こうかシルフィーちゃん。……君が探している『宝物』が見つかった時は、私にも見せておくれ」
シルフィーは一瞬躊躇い、そして安堵の微笑みを浮かべて、その手を取った。
彼は、私の秘密に気づいている。けれど、無理に暴こうとはせず、泳がせてくれるつもりだ。
その度量に、心からの感謝を覚える。
「はい。……ありがとうございます、陛下」
(難しい方かと思ったけれど……受け入れてくださってよかった)
王の差し出した骨ばった手と、シルフィーの紅葉のような小さな手が、緋色の絨毯の真ん中で、静かに重なる。
広間中の貴族たちが、その奇妙な対比を、息を呑んで見守っていた。




