第29話 爆走の馬車と、ヴァフェイト
翌朝。
帝都の空が、ようやく白み始めた頃。
王城の裏門には、帝国が誇る最新鋭の「魔導馬車」が、低く唸るように停まっていた。
「おい、早く乗れシルフィー! 日が昇りきっちまう!」
御者台の横で、レグルスが鬼の形相で時計を睨んでいる。
背中には、すでに冷や汗がびっしょりだ。
昨晩の「ヴァルガ襲来(未遂)」によって、彼の精神は限界の縁に追い詰められていた。公式な許可を得たとはいえ、あの激ヤバ女に見つかれば、力ずくで引き留められる可能性は十分にある。
(やべぇ……。奴が嗅ぎつける前に、国境を越えなきゃなんねぇ……)
レグルスの焦りなど露知らず、シルフィーは小さなリュックを背負い、トコトコ馬車へ向かっていた。
——その時だった。
「——シルフィー様!」
朝霧を切り裂くような、切羽詰まった声。
シルフィーが振り返ると、息を切らせた金髪の少年——皇太子アレイシスが、こちらへ走ってくるのが見えた。
寝巻きの上に急いで礼服を羽織ったのか、いつも完璧な彼の襟元が、わずかに乱れている。
「アレイシス様? どうしてここに……」
「見送りになんて来ないでくれ、と言われても無理です! ……本当に、行ってしまうのですね」
アレイシスは馬車の前で立ち止まり、悲痛な面持ちでシルフィーを見つめた。
その瞳は、捨てられた子犬のように潤んでいる。
「……はい。どうしても、やらなければならないことが、あるのです」
シルフィーは真っ直ぐに答えた。
心はすでに、東の空——アルヴァレインの路地裏で消え入りそうな灯火のほうへ、飛びかけている。
一刻も早く行きたい。けれど、ここまで協力してくれたアレイシスに、別れの挨拶もしないのは、人として失礼だ。
「そんな……。寂しいです」
アレイシスが、こくりと喉を鳴らして俯く。
そして、恐る恐る、縋るように問いかけた。
「……また、会えるでしょうか?」
その問いに、シルフィーは即答した。
「ええ、もちろんです! すぐに会えますわ!」
迷いは、一切なかった。あまりにも当然の事実だったからだ。
(アレイシス様は今10歳。もうすぐ帝国の『半成人式』がある)
皇族の半成人式ともなれば、同盟国の要人も招かれる、国を挙げた式典だ。
聖女である自分も、アルヴァレインへ行ったとしても、式典に合わせて一時帰国するか、外交的な招待で彼と顔を合わせる可能性は高い。
再会は、もはや目と鼻の先に確定したイベントなのだ。
「…………ッ」
しかし、その背景を知らないアレイシスにとって、シルフィーの迷いのない「肯定」と「すぐ」という言葉は、恋する少年の脳内で、とんでもない化学反応を引き起こすことになった。
(あぁ……なんてことだ)
アレイシスは衝撃に打ち震えた。
彼女は、一瞬たりとも躊躇わなかった。
「会えるか分からない」ではなく「すぐに会える」と、断言してくれたのだ。
それはつまり——
(僕との未来を、これっぽっちも疑っていないということ……! 再会の約束を、これほど強く信じてくれているんだ)
ドカン、と彼の胸中で、感動のビッグバンが起きた。
違う。そうじゃない。ただの直近のスケジュールの話だ。
だが、恋は盲目。勘違いは加速する。
アレイシスの瞳から、ツーッと美しい涙がこぼれ落ちた。
彼は袖口でそれを乱暴に拭い、燃えるような瞳でシルフィーを見つめ直す。
「……分かりました。貴女がそこまで僕を信じてくれているのなら、僕も誓いましょう」
胸の前で、握りしめた拳が震えていた。
「僕は強くなります。……次に会う時、貴女の隣に立っても恥ずかしくない、立派な男になってみせます! だから……待っていてください!」
「? はぁ、頑張ってくださいね(式典のスピーチ練習かしら?)」
シルフィーはニコリと営業スマイルを返した。
アレイシスの背後に、勇壮な英雄譚の始まりが見えた気がしたが、今のシルフィーには関係のないことだ。
——こうして、未来の皇帝アレイシスの「成長フラグ」は、盛大な勘違いと共に、しっかり樹立された。
「おい、いい加減にしろ! 感動の別れは手紙でやれ!」
痺れを切らしたレグルスが、シルフィーの首根っこを掴んで馬車に放り込む。
直後——遠くの城門のほうから、鼓膜を破るような怒号と殺気が、こちらへ向かって突進してきた。
『レグルスぅぅぅッ! どこ行きやがったァァァァッ!』
野太く、荒々しい、女の咆哮。
敬称などない。獲物を追い詰める肉食獣の声だ。
「来たぁぁぁッ! 出せぇぇぇッ! 全速力だ馬鹿野郎!」
「御意ッ!」
レグルスの悲鳴と共に、御者が鞭を振るう。
魔導馬車は加速の塊となって飛び出し、あっという間にアレイシスの視界から消え去った。
「……行ってしまった」
土煙の舞う道に1人残されたアレイシスは、それでも清々しい顔で、空を見上げた。
「見ていてください、シルフィー様。……僕は必ず、貴女に相応しい王になります」
夜明けの薄青が、彼の前髪に淡く沈んでいく。
* * *
帝都を出発した魔導馬車は、驚異的な速度で街道を爆走した。
レグルスが「追っ手」の恐怖から魔力を注ぎ込み続けたおかげで、通常の3倍の速度が出ていたからだ。
そして、1日後。
「……着いたわ」
馬車の窓から顔を出したシルフィーの瞳に、雄大な景色が飛び込んでくる。
荒々しい岩山を背にそびえ立つ、難攻不落の巨大な城塞都市。
赤い旗が風にはためき、武骨ながらも活気に満ちた「武」の国。
アルヴァレイン王国。
レグルスの故郷であり、そして——シルフィーが探し求めた「彼」がいる場所。
「懐かしいわ……。この乾いた風の匂い」
シルフィーは目を細めた。
1周目の記憶にある風景と、変わらない。かつて外交や視察で何度も訪れたことのある、勝手知ったる場所だ。
けれど、今回の目的は違う。
表敬訪問でも観光でもない。「奪還」だ。
「まずは挨拶だ。……レオニスの“おっさん”は、ダリウス爺さんほど話が通じる相手じゃねぇぞ」
レグルスが、自国の王を「おっさん」呼ばわりしながらニヤリと笑う。
「あの人は政治の化物だ。損得勘定にはめっぽう聡い。『帝国最強の聖女』が自ら転がり込んできたんだ。外交カードとして利用価値が高いと踏んで、歓迎するはずだぜ」
「ええ。利用されるくらいで丁度いいわ。……こちらも利用させてもらうのだから」
シルフィーは冷静に頷いた。
レオニス国王の政治手腕——ランクS——は、1周目でも周知の事実だ。
彼が「聖女の保護」を国益と判断するなら、そこを突き、交渉材料に変えるまでのこと。
馬車はゆっくりと、王城の大門をくぐり抜けていく。
目的の「彼」がいる路地裏へ行く前に、通らなければならない、最大の関門。
赤い旗が、城門の真上で、湿った朝風を孕んで重く揺れていた。




