第28話 利害の一致と、ケイジブレイカー
早朝の謁見の間。
重厚な扉が、ぎぃ、と低く軋みながら開かれる。同時に、5歳の幼き聖女の声が、高い天井へ真っ直ぐ突き抜けた。
「ダリウス陛下! 私、今日付けでアルヴァレイン王国にお引越しします!」
玉座に座っていた皇帝ダリウスが、飲んでいた最高級の紅茶を、見事なまでに盛大に吹き出した。
「ぶふぅッ!? ……な、ななな、何を言い出すのだシルフィーよ!?」
皇帝は玉座から転げ落ちんばかりの勢いで身を乗り出した。
顔面蒼白、冷や汗ダラダラ。
溺愛する孫娘——のような存在——からの突然の離反宣言に、心臓が止まりかけている。
「な、なぜだ!? 帝都の飯が不満か!? それともベッドが硬いか!? 何でも言うがよい、最高級の羽毛布団を今すぐ100枚用意させよう!」
「違います! お布団の問題じゃありません!」
シルフィーは小さな胸を張り、毅然と言い放った。
小さな指先が、ぴしり、と空中に線を引く。
「私はもっと広い世界を見て、多くの人々を救いたいのです。そのためには、帝国の加護から出なければなりません!」
「ぐぬぬ……! 立派な志だが、まだ早い! 5歳児が外国へ移住など、前代未聞じゃ!」
ダリウスが頑として首を縦に振らない。
当然だ。国家最高戦力であり象徴でもある聖女を、いくら同盟国とはいえ他国へ渡すなど、政治的にも軍事的にもあり得ない話だ。
議論は平行線。
シルフィーが焦りで唇を噛みかけた、——その時だった。
「——行かせてやれよ、爺さん」
それまであくびを噛み殺していたレグルスが、のっそりと2人の間に割って入った。
「レグルス殿!? 貴公、シルフィーを唆したな!?」
ダリウスがギロリと最強の剣聖を睨みつける。
だがレグルスは動じることなく、ニヤリと不敵に笑って言った。
「唆したわけじゃねぇ。……ただ、『至宝』ってのは、蔵に隠しておくもんじゃなくて、太陽の下で磨くもんだろ?」
「……む」
そう呻いたダリウスの眉が、片方だけ持ち上がる。
レグルスは肩をすくめ、もっともらしい顔のまま続けた。
「帝国の温室で育った花より、荒野の風に吹かれた野花のほうが、強く根を張る。……歴代最強の聖女に育てたいなら、可愛がりすぎて根を腐らせちゃなんねぇよ」
レグルスのもっともらしい——適当な——言葉に、ダリウスが唸る。
教育論として正面から突きつけられれば、皇帝といえど反論しづらい。
「……むぅ。確かに、過保護が過ぎれば成長を妨げるか……。一理ある、な」
ダリウスが溜飲を下げ、納得しかけた瞬間。
シルフィーはレグルスの横顔を見上げ、小声でこっそり囁いた。
「(……珍しいわね、レグルス。貴方がそんな真面目な援護射撃をしてくれるなんて)」
私は知っている。
この男は基本、面倒事には関わらない主義だ。それがなぜ、こんなにも積極的に「アルヴァレイン行き」を推しているのか。
レグルスは、シルフィーだけに聞こえる声で、額に滲んだ脂汗をなすりつけながら、早口で答えた。
「(……勘違いすんな。俺のためでもある)」
「(え?)」
レグルスは素早く周囲へ目を走らせ、声をさらに落とした。
「(昨日の夜もだ。……『ヴァルガ』って女が、俺の部屋の窓をこじ開けて入ってきやがった)」
シルフィーは「あっ」と察した。
帝国将軍ヴァルガ。
「戦鬼」として恐れられる女傑であり、レグルスの遺伝子に対して異常なまでの執着を見せる、超弩級ストーカーだ。
「(鍵を3つかけたのにだぞ!? あのゴリラ、壁ごとブチ抜いてきやがった! 幸い俺はトイレにいて鉢合わせなかったが……もう限界だ。この国にいたら、俺の身が持たねぇ!)」
レグルスは、必死の形相だった。
最強の剣聖が、たった1人の激ヤバ女に震え上がっている。
「(今朝、城門の衛兵から聞いた。『ヴァルガ将軍が鼻息荒く王城に向かっている』とな……。鉢合わせる前に、物理的に距離を取るしかねぇんだよ)」
シルフィーの目的は、「探し物」の救出。
レグルスの目的は、激ヤバストーカーからの緊急退避——生存本能。
もう一度、あの子の顔を、ちゃんと見たい。
ちゃんと、今度こそ、無事に生きていることを、確かめたい。
——シルフィーの胸の中で揺れていたのは、ただそれだけの、素朴な願いだ。
けれど、その「ただそれだけ」の願いが、なぜ自分にこんなにも遠出を急がせるのかは、5歳の彼女にはまだ上手く説明できない。
救いたいのは、確かだ。
けれどそれだけでは収まらない何かが、胸の奥でくすぐったく動いている。
(……まあ、いいわ。今は、名前をつけなくて)
シルフィーは、その小さなもやもやを脇に置いて、聖女の表情を整え直した。
ここに、聖女と剣聖の、美しくも不純な「利害の一致」が成立した。
「(……分かったわ、レグルス。協力して)」
「(おう。今すぐだ。今すぐ『公式に』逃げるぞ)」
2人は目配せし、同時にダリウスに向き直った。
レグルスが、芝居がかった真剣な表情でダリウスに詰め寄る。
「爺さん。聞いた通り、この聖女様の決意は固い。……もしここで無理に止めれば、彼女は1人で城を抜け出しかねんぞ?」
「な、なに!? まさか……」
ダリウスが、思わず身を乗り出す。
「だが、俺がついていけば安心だ。アルヴァレインまでは俺が責任を持って送り届ける。……どうだ? 聖女の家出が修行に変わり、同盟国との絆も深まる。悪い話じゃねぇだろう?」
レグルスの言葉はもっともらしく聞こえるが、その裏には「護衛任務という大義名分を得て、堂々とヴァルガから距離を置きたい」という、切実で必死な下心が、ぎっしり詰まっている。
ダリウスは唸り、そしてシルフィーの瞳を見た。
そこには、テコでも動かないという強い意志が、確かに宿っていた。
皇帝は、ガックリと肩を落とす。
「……分かった。認めよう」
「おお! さすがは賢帝!」
レグルスが大袈裟に拳を振り上げた、その勢いを掌で押し戻すように、ダリウスが声を張った。
「ただし! 移動には我が国が誇る最新鋭の『魔導馬車』を使うこと! そして、準備が整う明日の早朝までは城で待機すること! ……よいな!?」
ダリウスの条件に、レグルスが一瞬「チッ、今すぐじゃねぇのか」という顔をした。
が、すぐにそれを引っ込める。背に腹は変えられない。
ヴァルガに見つかるリスクはあるが、公式な「勅命」さえあれば、彼女も無理やり連れ戻すことはできないはずだ。
「……分かりました、陛下。感謝いたします」
シルフィーは深々と頭を下げた。
これで「足」と「許可」は手に入れた。あとは、行くだけだ。
「よし、交渉成立だ! 爺さん、馬車の手配は頼んだぞ! 俺は……そうだな、出発まで部屋に鍵かけて『精神統一』でもしてるわ!」
レグルスはヴァルガの気配に怯えつつ、そそくさと謁見の間を後にしようとする。
その背中は、「頼むから出発まであの女に見つかりませんように」と、雄弁に物語っていた。
「……シルフィーよ」
去り際、ダリウスが涙目で、ぽつりと声をかけてきた。
「本当に……行ってしまうのか?」
「はい。でも、戻ってきます。……私の『探し物』を、見つけたら」
シルフィーは力強く頷いた。
ドタバタ劇で勝ち取った許可だが、その胸にある決意は、本物だ。
——ダリウスには、まだ言わない。
「探し物」が「物」ではなく、ひとりの少年であることは、5歳の聖女が口にするには、ほんの少しだけ、気恥ずかしい話だったから。
朝の陽が、玉座の階段を一段ずつ撫で上げていく。
小さな聖女の足元に、小さな影が、北東——アルヴァレインの方角——へ細く伸びていた。




