第27話 焼ける脳と、ブラッドソナー
季節が巡り、シルフィーは5歳を迎えていた。
この半年間、彼女は聖女として、そして「救済者」として、帝都の闇を駆け回った。
レグルスという最強の護衛を連れ回し、アレイシス皇太子の権力を勝手に後ろ盾にし、数多の奴隷たちを解放してきた。
その功績は「幼き聖女の奇跡」として帝国中に広まり、人々は彼女を生き神のように崇めている。
——けれど、シルフィーの心は乾ききっていた。
(……いない。帝都には、どこにもいない)
救っても、救っても、心の穴は埋まらない。
解放された子供たちの笑顔を見るたびに、シルフィーの胸の底には「彼を見つけられなかった」という罪悪感が、澱のように積もっていく。
帝都の闇市も、スラムも、すでに探し尽くした。
それでも見つからないなら——彼は帝国の外、もっと遠い場所にいる、ということだ。
(なら……『禁じ手』を使うしかない)
シルフィーは決意した。
5歳になり、肉体の成長に伴って魔力回路も安定してきた今なら、あの大技にもなんとか耐えられるはずだ。世界地図を一気に広げて、意識を極限まで飛ばす。
深夜2時。
聖女の寝室は、針が落ちる音さえ聞こえそうな静寂に沈んでいた。
シルフィーはベッドの上で座禅を組み、深く、静かに、呼吸を整える。
(制限時間は1分。それ以上は、脳が焼き切れる)
意識を深く潜らせる。
探すのは、名前も知らない誰かではない。シルフィーの魂に直接刻み込まれた、忘れようもない「傷跡」のほうだ。
——あの日。崩壊する祭壇の上で。
彼がシルフィーの腹部を魔剣で貫いた時、切っ先から流れ込んできた、凍てつくような絶望の魔力。
あの感覚を、あの痛みを、シルフィーは一度も、忘れたことはない。
(神脈直結・再現・開始)
シルフィーは自らのトラウマを鍵にして、《超広域・魔力探知》を発動させた。
ブワッ、と視界が広がる。
意識が肉体を離れ、上空へと駆け上がる。帝都を越え、街道を越え、国境を超えて、世界地図の上空へ。
膨大な情報量が、容赦なく脳を殴りつけた。
数億人の鼓動。数億の魔力の瞬き。その中から、たった一つの「魔力波長」を探し出す——砂漠で一粒のダイヤモンドを拾い上げるような作業。
「……ぐ、ぅ……ッ」
鼻からツーと、熱いものが流れる。鼻血だ。
脳の奥が、ぎちぎちと軋む音を立てる。10秒、20秒、30秒……。
見つからない。
北の雪原にも、西の砂漠にも、南の諸島にも。
(嘘……。この世界に、もう彼はいないの)
絶望が掠めた。残り時間、5秒。
——ピギィッ。
シルフィーの脳髄を、鋭い針で刺したような反応が貫いた。
微弱だ。
あまりにも弱く、今にも消え入りそうな灯火。
けれど、その波長は、間違いなく「彼」のものだった。冷たく、鋭く、そして泣きたくなるほどに寂しい色。
(——いた)
シルフィーは意識をその一点に集中させ、座標を特定する。
帝国領内ではない。東。帝国の隣にある、同盟国の領土。
(嘘……。そこは……)
座標がピタリと重なった。
場所を認識した瞬間、シルフィーは目を見開き、時間切れと共に意識が肉体へと引き戻された。
「はぁッ……! はぁ、はぁ……ッ!」
シルフィーはベッドの上でガバッと身を起こした。
全身が汗でぐっしょりと濡れ、激しい頭痛がガンガン響いている。
だが、そんな痛みなど、もうどうでもよかった。
彼女は震える手でシーツを握りしめ、闇の中で戦慄いた。
「……なんてこと」
場所は、アルヴァレイン王国。
レグルスの故郷であり、帝国の友好国。
その、城下町。
それも、煌びやかな大通りではない。
地図にも載っていないような、汚水とゴミにまみれた薄暗い「路地裏」。光の当たらない地下深く、何重もの結界で隠された違法な奴隷商人の隠れ家だった。
「……信じられない。獅子の足元に、彼が埋もれていたなんて」
なんという皮肉だろう。
シルフィーが必死に帝国のスラムを引っ繰り返している間、彼は最も安全だと思われていた場所——同盟国の中枢、それもレグルスやレオニス王のお膝元で、誰にも気づかれずに朽ちていこうとしていたのだ。
(近い。……すぐそこだったんじゃない)
大国アルヴァレインの影。
その一番濃い闇の底に、彼はいた。
(待ってて。……今すぐ、行くから)
衝動が、理性を焼き尽くす。
ガタッ、とシルフィーはベッドから飛び降りた。
パジャマのまま、小さな足で床を踏みしめる。瞳の奥で、溶岩のような熱が、ぐらりと揺れていた。
* * *
翌朝、夜明け前。
空が白み始めたばかりの薄暗い時間帯。
レグルスが割り当てられている来賓室の扉が、コンコンと、控えめながらも強い意志を感じさせるリズムで叩かれた。
返事を待たずに、シルフィーが扉を押し開けて入ってくる。
「……あぁん? なんだ、まだ朝の……」
ベッドで惰眠を貪っていたレグルスが、のっそりと半身を起こした。
その目に映ったのは——既に完璧に身支度を整え、リュックを背負った5歳の聖女の姿だった。
凍てつくほどに冷たく、けれど奥底で溶岩のように熱を持った瞳。
レグルスは一瞬、何かを舌の上で噛みしめるように、ゆっくり呑み込んだ。
「起きて、レグルス」
「おいおい……散歩に行く時間じゃねぇぞ」
欠伸まじりに、レグルスが首を鳴らす。
「散歩じゃないわ。……見つけたの」
シルフィーはベッドの縁を、小さな手で強く握りしめた。
「あの子が……私がずっと探していた『探し物』が、貴方の国の路地裏にいるの」
「……なんだと?」
レグルスの目が鋭く細められた。眠気は一瞬で消し飛ぶ。
アルヴァレインの路地裏。それは彼が守るべき国の、最も恥ずべき部分。
そこに、この幼い主が血眼になって探していた「ナニカ」がいた、というのか。
「今すぐ行きたい。飛んでいきたい。……でも、それじゃダメなの」
シルフィーは唇を噛みしめた。
ただ飛び出すだけでは、連れ戻される可能性がある。
彼を見つけ、保護し、二度と誰にも奪われないようにするためには、確固たる「権利」と「後ろ盾」が必要だった。
「……だから、決めたわ」
「あ? 何をだ」
シルフィーは振り返らないまま、窓の外にそびえる帝国の玉座——謁見の間がある方角を睨みつけた。
「これから、ダリウス陛下に会いに行くわ」
「はぁ? 朝一番にかよ」
ベッドの上で胡座をかいたレグルスが、半笑いで頭を掻く。
シルフィーは、その軽口を意にも介さず、彼に向き直って、高らかに宣言した。
それはもう、おねだりでも相談でもなかった。聖女の全権限を行使した、宣戦布告だった。
「私、アルヴァレイン王国へ『お引越し』するわ。……誰にも文句は言わせない」
レグルスは数秒、ぽかんと口を開けて——やがて、ニヤリと獰猛に笑った。
この幼い主は、目的のためなら、国境すらもねじ曲げるつもりらしい。
「……へっ。そいつは面白くなりそうだ。皇帝の爺さんが泡吹いて倒れなきゃいいがな」
リュックの肩紐を、小さな手が握り直す。
「倒れても行くわ。準備して、レグルス」
(待っていて。もう逃げたり隠れたりしなくていい場所を、私が作るから)
東の空が、淡く白んでいく。
シルフィーの白銀の髪の先で、まだ寒い夜明けの色が、刃のように細く光っていた。




