第26話 誓いの夕陽と、グレミラージュ
数ヶ月が経った。
4歳後半になったシルフィーの「聖女の爆買い」——別名・奴隷解放ツアー——は、帝都の裏社会で一種の伝説に育っていた。
噂は陰から陽へと染み出し、やがて、王宮の奥深くで生真面目に育てられた皇太子の耳にも、ぽつりと届く。
「——シルフィー様!」
ある日の午後。
いつものようにレグルスを連れて城下へ出ようとしていた私の前に、キラキラとしたオーラを纏った少年が、両手を握りしめて立ちはだかった。
帝国皇太子、アレイシス。
「噂を聞きました。貴女は、休みの日を使って恵まれない人々を救済していると……! 素晴らしいです! 僕も、ぜひ同行させてください!」
アレイシスは瞳を潤ませ、熱に浮かされたように一息で訴えた。
胸の前で組まれた両手が、わずかに震えている。
(……同行? アレイシス様が?)
私は瞬時に思考を巡らせた。
本来、隠密行動には不向きな組み合わせだ。けれど、彼は皇太子。顔パスがあれば通行税は免除、商人への圧力も倍増、あわよくば購入価格の値下げ交渉にも使える。
何より、未来の王が「現実」を肌で知ることは、悪い話ではない。
ふ、と聖女の仮面を取り出して、頬に貼り直す。
「……ええ、もちろん構いませんわ、アレイシス様」
完璧なカーテシーを返した。
「一人でも多くの人を救うため……お力をお貸しください」
「はいっ! 喜んで!」
アレイシスが感涙にむせぶ横で、レグルスだけが「あーあ、可哀想な坊主」と、生温かい目をしていた。
* * *
案内されたのは、帝都最大規模の奴隷市場だった。
悪臭と欲望が、湿った布天井の下で渦を巻いている。
シルフィーは怯むことなく、子供たちが収容されている区画へとまっすぐ進んでいった。
「見せてください。ここにいる子、全員です」
指示に従い、十数人の子供たちが並ばされる。
彼女は彼らの前を歩きながら、真剣な眼差しで一人ひとりを順に見つめていった。
(……違う)
(この子でもない。あの子でもない)
《魔力探知》が告げるのは、無情な「該当者なし」の反応ばかり。
胸の奥に、重たい失望がじわりと降り積もる。
(……また、ダメなの)
「彼」がこの帝都にいない可能性が、また一段、高まる。
焦りで指先が震えそうになるのを、シルフィーは奥歯で噛み殺した。
——その横顔を、アレイシスが見つめていた。
彼の視線は、子供たちを慈しむ聖女の表情ではなく、その「視線の動き」のほうへ吸い寄せられていた。
一人を見て、首を振り、次を見て、首を振り、また次。
ともすれば、誰か特定の人物を探しているような、不自然なほど規則正しい視線運び。
(……シルフィー様?)
アレイシスの中に、一瞬だけ違和感が芽生えた。
子供たちを救いたい、ではなく、子供たちの中に何かを「捜している」。
そんな、薄ら寒い輪郭が、視界の隅に立ち上がりかける。
——だが、それを意識の表面へ引き上げるよりも先に、彼は自分でその違和感を打ち消した。
まさか。
こんなにも気高い人が、奴隷の少年たちを「品定め」するように見るはずがない。
きっと彼女は一人ひとりの魂の傷を見抜いて、最も救うべき順番を頭の中で組み立てているのだ。そうに違いない。
こうして、真実はあと一歩のところで、アレイシス自身の理想によって、丁寧に覆い隠された。
「……全員、買います」
シルフィーは震えを隠すように、毅然と言い放った。
探している相手ではない。
けれど、この檻の中で怯える瞳は、かつて世界に絶望していた「彼」の瞳と、重なる。
見過ごせるはずがない。ここに彼がいないからといって、この子たちを見捨てて帰る選択肢など、私の中には存在しなかった。
懐から教会の基金証書を取り出し、商人に突きつける。
「解放手続きは迅速にお願いします。……この子たちを、これ以上縛り付けないであげて」
その姿を見ていたアレイシスは、衝撃を受けていた。
(なんて……なんて気高く、慈悲深いんだ)
彼には、シルフィーの内面にある「焦り」や「落胆」は見えていなかった。
見えていたのは、薄汚れた奴隷たち一人ひとりに真剣な眼差しを向け——
※実態はただの魔力チェック。誰一人として切り捨てずに救い上げようとする、聖女の姿だけ。
「……すごい」
アレイシスは震える手で、自身の胸を押さえた。
彼女は、人間としての権利や尊厳が踏みにじられている現場に自ら足を運び、その小さな手で理不尽をねじ伏せている。
(彼女は……すべての命を等しく愛しているんだ。身分も、種族も関係ない。ただそこに「命」があるから救う。それが彼女の正義なんだ)
それは美しい誤解だった。
シルフィーの行動原理は、あくまで「彼」への贖罪。
けれどその誤解は、少年の魂にしっかりと火を点けた。
——燃え盛るアレイシスの瞳を見て、シルフィーはほんの少しだけ視線を伏せた。
(……ごめんなさい、アレイシス様)
心の中で、ささやかに頭を下げる。
嘘をついている、というほどの自覚はまだない。ただ、自分の本当の目的を知らないまま立派なお顔をなさる彼に、申し訳なさが小さく刺さっただけだ。
けれどその罪悪感も、すぐ別の声に上書きされる。
——次のお店に行きましょう。「彼」を、見つけなくちゃ。
シルフィーの中で、アレイシスの誓いよりも、まだ会えない少年の影のほうが、ずっと大きな場所を占めていた。
「……商人の主人よ」
アレイシスが、一歩前へ踏み出す。
その表情は、いつもの頼りない少年のものではなく、次期皇帝としての威厳を、ぎこちないなりに纏い始めていた。
「この子たちの解放手続き、および路銀の手配……不足分は僕が私費で補填する。不当な手数料は認めないぞ」
「は、はいぃッ! アレイシス殿下!?」
皇太子の介入に、商人が額を地面に擦りつける。
おかげで手続きは爆速で進み、金額も大幅にディスカウントされた。
シルフィーは内心で、(助かります、アレイシス様。これでまた別のお店を回れます)と、ひっそり手を合わせた。
* * *
テントの外。夕暮れ時。
解放された子供たちが、涙ながらに小道を去っていく。
「聖女さま、ありがとう……!」
「お兄ちゃんも、ありがとう!」
子供たちの背中を見送りながら、アレイシスがシルフィーの隣に並んだ。
夕陽が、彼の金糸の髪を、ゆっくり溶かしていく。
「シルフィー様。……僕、決めました」
静かに、けれど熱を孕んだ声。
私は片眉を持ち上げ、彼の横顔を見上げる。
「はい? ……なんでしょう、急に改まって」
「僕が皇帝になった暁には……すべての人の尊厳と生を保証できるような、そんな国を作ります。……貴女の隣に立っても、恥ずかしくない男になります」
アレイシスの瞳は、夕陽を反射して、燃えるように輝いていた。
彼は本気だ。
今日のシルフィーの——勘違いされた——行動が、この少年の中に、未来の名君の芽を確かに植え付けた。
「……ええ。期待しておりますわ、アレイシス様」
シルフィーは聖女スマイルで穏やかに相槌を打った。
立派な言葉だ、と思う。
けれど、今の彼女の心の大半は、「次こそは見つけなければ」という焦燥感で、すでに塗りつぶされていた。
その様子を後ろから眺めていたレグルスが、やれやれと肩をすくめる。
「おいおい、王子が一発で持っていかれたぞ。あれはいくらで買い取るんだ?」
「静かにして、レグルス。……さぁ、次はあっちの区画よ」
レグルスは「へいへい」と気の抜けた返事を寄越し、剣帯を直して歩き出した。
「日が暮れるまで付き合ってやるよ」
——こうして、聖女と皇太子、そして最強の剣聖による奇妙な解放ツアーは、帝都の夜が更けるまで続いた。
アレイシスの瞳は、ずっとキラキラと輝き続けた。
シルフィーの瞳は、ずっと「次はどこ。まだ探していない場所はどこ」と切実に燃え続けた。
夕陽が、ふたつ並んだ小さな影を、長く、長く伸ばす。
その影は、肩を寄せていながら、決して同じ方向を向いてはいなかった。




