第22話 血の滲む揺り籠と、セラフェイク
深夜2時。
聖女管理区画の最奥、特別育児室は、死んだような静けさに包まれていた。
窓から差し込む青白い月明かりだけが、部屋の中央にある天蓋付きのベビーベッドを、スポットライトのように白く照らしている。
周囲では、夜番の神官やシスターたちが、安らかな寝息を立てていた。
「聖女様は、天使のような寝顔でお休みになられている」。
誰もが、そう信じて疑わない、時間帯。
——けれど。
レースのカーテンで遮られた、ベッドの中だけは。
血反吐の味がする、煉獄だった。
(……まだ。まだ、広がる)
シルフィーは、高級な絹のシーツを小さな両手で強く握りしめ、脂汗にまみれて、荒い呼吸を繰り返していた。
愛らしい寝顔など、そこには、ない。
あるのは、苦痛に歪み、それでも瞳だけをギラギラと燃やす、鬼気迫る形相だった。
ギチチ、ギチチチ……。
聞こえるはずのない音が、体内で、響いている。
彼女は今、寝たふりをしながら、自分の未発達な魔力回路へ、限界ギリギリの魔力を流し込んでいた。
意図的な、「魔力拡張」。
赤子の細い血管に、無理やり、高圧の水を通すようなものだ。
未熟な神経が焼き切れる熱と、筋肉が内側からメリメリと引き裂かれる激痛が、幼い身体を容赦なく襲う。
「っ、ぅ……ぐ……ッ!」
喉から漏れそうになる悲鳴を、唇を噛みしめて、押し殺した。
痛い。
全身の細胞が、悲鳴を上げている。骨が軋み、視界がチカチカと明滅する。
普通の赤子なら、ショック死していてもおかしくない荒療治だ。
それでも、彼女は、止めない。
(痛い……。でも……っ!)
シーツを握りしめる手に、さらに、力を込める。爪が食い込み、滲んだ血が、白い布を、赤く汚していく。
(あの子の痛みに比べたら……こんなものッ!)
脳裏に、フラッシュバックする。
あの、雨の祭壇。
黒いコートの青年が、自分を刺した瞬間の、——いまにも泣き出しそうな、あの顔。
『寒かった』
『寂しかった』
『誰かに、ここにいていいと、言ってほしかった』
彼は、十数年もの間、——たった一人で、その「痛み」に、耐え続けていたのだ。
世界から拒絶され、誰にも守られず、石を投げられ、心に氷の鎧を纏うまで。
自分の肉体が裂ける痛みなんて、彼の心が凍っていく孤独に比べれば、ただのかすり傷でしかない。
(私が、先に、痛みを引き受ける)
(貴方が将来味わうはずだった絶望も、苦痛も……全部、私が今、ここで、飲み干してやる!)
幼い指が、シーツを、ぎゅっと掴む。
「ぅ……ぁ……ッ」
ポロポロと、シルフィーの瞳から、大粒の涙が、零れ落ちた。
それは、身体的な痛みのせいでは、ない。
痛みで涙が出るほど、身体はまだ幼いけれど、——魂が震えている理由は、別にあった。
(ごめんなさい……。まだ、そこに行けなくて、ごめんなさい)
今この瞬間も、世界のどこかで彼が凍えているかもしれない。
飢えているかもしれない。
1歳のこの体では、駆けつけることも、守ってあげることも、できない。
この涙は——無力な自分への、憤りと。
まだ見ぬ彼への、贖罪で、溢れた涙だった。
早く、強くなりたい。
1秒でも早く、この貧弱な檻を作り変えて、彼のもとへ駆けつけたい。
シルフィーは涙を流しながらも、魔力の循環を、止めなかった。
月が沈み、東の空が白むまで。
彼女はたった一人、血の味がする口の中で「必ず、救ってみせる」と繰り返しながら、自分自身を鍛え上げた。
* * *
「——おはようございます、シルフィー様!」
チュン、チュン……と、小鳥のさえずりが聞こえる、爽やかな朝。
扉が開かれ、聖母マリアと数名の神官たちが、部屋に入ってきた。
彼らの視線の先には、ベビーベッドですっくと立ち上がり、柵に手をかけて、満面の笑みを浮かべるシルフィーの姿が、あった。
「あーう!(おはようございます!)」
その笑顔は、まさに、一点の曇りもない天使、そのもの。
誰も、気づかない。
その背中のシーツが、彼女の爪によってボロボロに引き裂かれ、隠すように、丸められていることに。
そして、その小さな身体が、昨夜の地獄を乗り越えて、ほんのわずか、けれど確実に、「救済者」として進化していることに。
「まぁ、今日も、元気いっぱいですねぇ」
マリアが微笑む。
その隣で、年嵩の神官が、感極まったように胸の前で手を組んだ。
「あぁ、なんと尊い笑顔だ……これぞ、女神の祝福……」
大人たちが、目を細めて、彼女を抱き上げる。
シルフィーは、キャッキャと無邪気に笑いながら、その瞳の奥で、静かに誓っていた。
(基礎出力、昨日より0.5%上昇。……大丈夫、間に合わせるわ)
誰にも褒められなくていい。誰にも知られなくていい。
この笑顔の下にある血の滲むような執念は、すべて、「彼」を守るためだけのものだから。




