第20話 上位裁定権と、リジェネシア
光の中で、世界が、悲鳴を上げていた。
それは、物理法則が崩壊する音であり、——神が決めた「運命」という鎖が、無理やり、引き千切られる、断末魔だった。
「な……なんだ、これ……!?」
青年は、目を見開いたまま、動けずにいた。
腕の中にいるシルフィーの身体から、太陽が爆発したかのような、黄金の奔流が、噴き出している。
それは、癒やしの光などでは、ない。
もっと根源的で、暴力的で、——畏れ多い、エネルギーの塊。
青年の「戻りたい」という絶望的な渇望と、シルフィーの「救いたい」という強欲なまでのエゴ。
ふたつの強烈な願いが、共鳴した時。
彼女の魂に刻まれた固有権能《神脈直結》は、——その限界を、突破していた。
もはや、女神の魔力を借りるだけの、パイプではない。
さらに上位の概念。理そのものを司る「上位神」へ直接願い出て、この世界の結末すら書き換えるよう請願する、——禁忌の、権能。
——専神権能《上位裁定権》。
ギギギギギギギギッ!!!!
空が、割れた。
祭壇の天井が吹き飛び、露出した夜空に、——星々を遮るほどの、巨大な「時計の歯車」が、出現する。
黄金に輝くその歯車は、世界の自転を無理やり止めるように、重い軋みを上げて、ゆっくりと、回転を始めた。
「嘘だろ……時が……止まって……?」
青年の頬を伝っていた涙が、空中で、ピタリと、静止する。
舞い上がっていた粉塵が、宙でその姿勢のまま、止まる。
世界から「音」が消え、——2人だけの時間が、残された。
「……約束、しましたよね」
光の中心で、シルフィーが、静かに口を開く。
その姿は透き通り、いまにも光の粒となって消えてしまいそうだ。
けれど、その瞳だけは、神々しいほどに、力強く、青年を、射抜いていた。
「私が……貴方を、やり直させてあげる、と」
「お前……まさか……」
青年は、悟った。
彼女が、しようとしていること。
その代償として、——彼女が、自分の全存在を、燃料にくべようとしていることを。
「やめろ! そんなことしたら、お前は消滅するぞ! 俺のために……俺なんかのために、命を、使うな!」
シルフィーは、その叫びを遮るように、震える指先を、青年の瞼へ伸ばした。
そして、まだ乾ききっていない涙の跡を、——優しく、愛おしげに、撫でた。
「いいんです」
囁くような声。
「貴方が泣かなくていい世界を……貴方が、誰かに愛されて笑える世界を、私が、作ります」
指先から、温かい熱が、伝わってくる。
それが、——この時間軸における、最後の感触だった。
「約束します。……次は、絶対に」
シルフィーの顔が、近づく。
光に溶けていくその表情は、悲しみではなく、戦場へ赴く者のような、——揺るぎない、決意で、満ちていた。
「次は、絶対に。——私が、貴方を、守ってみせます」
ゴォォォォォンッ!!!!
頭上の巨大な歯車が、ゆっくりと、逆回転を、始めた。
鐘の音のような衝撃波が、世界を、駆け巡る。
世界の色が、ふっと、反転した。
夜空が白く、光が黒く。
血の赤が、生命の青へ。
落ちた瓦礫が、空へと戻り、破壊された祭壇が、修復されていく。
「おい……ッ! 待てよ! 名前も、知らないのに……行くなぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
青年の絶叫が、遠ざかっていく。
彼の腕の中から、——シルフィーの重みが、ふっと、消える。
(さようなら、悲しい世界)
(さようなら、——私の愛した、孤独な人)
視界が、真っ白な光に塗りつぶされ、シルフィーの意識は、——因果の彼方へと、溶けていった。
* * *
「——……ぅ」
温かい。
鉄の臭いも、焦げた臭いもしない。
日向の匂いと、柔らかい布の感触。
シルフィーは、ゆっくりと、瞼を開けた。
そこに広がっていたのは、崩れ落ちた祭壇でも、夜空でも、ない。
高い天井。揺れる、モビール。
そして、教会の窓から差し込む、穏やかな、朝の光。
「あ……ぅ……」
声を出そうとして、——うまく言葉にならないことに、気づく。
自分の手を、見る。
そこにあるのは、血にまみれた大人の手では、ない。
小さく、あどけない、紅葉のような、——赤子の、手だった。
(あぁ……戻ったのね)
状況を理解した瞬間、堰を切ったように、涙が、溢れ出した。
「ふぇ……あぁ……ん……ッ」
声帯が未発達なため、それは赤子の泣き声となって、響く。
けれど、その涙の意味は、周りの大人が思うような、「空腹」や「不安」では、ない。
——記憶が、ある。
あの地獄の、記憶が。
彼の流した、涙の、熱さが。
そして、——彼を救えなかった、自分の、無力さが。
魂に、はっきりと、焼き付いている。
平和だ。
この時間は、まだ、誰も傷ついていない。
あの人も、——まだ、世界のどこかで、膝を抱えて泣いているかもしれないけれど。
まだ、その手は、汚していない、はずだ。
シルフィーは、涙で濡れた瞳で、天井を見つめた。
一度目の彼女なら、ただ無垢に、笑っていただろう。
だが、——今の彼女の瞳には、1歳の赤子には到底似つかわしくない、暗く、重く、そして、燃えるような「誓い」の色が、宿っていた。
(泣かないで。もう二度と、貴方を、一人には、しない)
小さな拳を、ぎゅっと、握りしめる。
(待っていて。今度は、私が、貴方を、救いに行くから)
赤子の泣き声が、教会の天井の高みへと、高らかに、響き渡る。
それは——新たな、そして、本当の物語の、始まりを告げる、産声だった。




