第19話 血の口移しと、リバースライト
カラン、カラーン……。
乾いた音が、静寂の祭壇に虚しく響いた。
青年の手から力が抜け、魔剣が石畳へ転がり落ちた音だった。
彼を支え、彼を「最強」たらしめていた武器。
そして、目の前の少女を貫いた、凶器。
青年は、自分の掌を見つめた。そこには、彼女の温かい血が、べっとりと、張り付いている。
「あ……あぁ……」
糸が切れたように、膝から崩れ落ちる。
シルフィーの身体を支えるように抱きしめた、その腕が、小刻みに、震えていた。
傷口を押さえる指の隙間から、止めどなく溢れる、鮮血。
ガラスの底に開いた穴のように、彼女の命が、指の関節を伝って、零れ落ちていく。
「止まれよ……なんで、止まらないんだ……クソッ!」
青年は焦燥に駆られ、自分のコートを引き裂いて、傷口に押し当てた。
だが、白いドレスを染める赤は、広がるばかりだ。
このままでは、死ぬ。
自分が、殺した——その事実が、鋭い刃となって、青年の精神を、削っていく。
「逝くな……置いてくなよ……! 俺を、一人に、しないでくれ……!」
思考が、焼き切れる。
彼女を繋ぎ止めるためなら——。
ふと、頭をよぎる。
この世界に生きる者は皆、肉に、骨に、そして血液に、魔力を宿している。
魔力こそが、生命の根源だ。
自分の体には、常人とは桁外れの魔力が、脈打っている。それが血液に溶けているのなら——。
これが、彼女の枯渇していく「命」の代わりに、なるかもしれない。
青年は、迷いなく、自分の舌を、歯で挟んだ。
ガリッ、ブチリ!!
肉を食い破る鈍い音と共に、激痛が、脳髄を走る。
だが、そんな痛みなど、どうでもよかった。
裂けた舌先から、鉄の味と、濃密な魔力を帯びた鮮血が、一瞬で口の中を満たしていく。
「……飲めっ」
青年は、シルフィーの顎を強引に持ち上げ、血に濡れた自分の唇を、彼女の蒼白な唇に、押し付けた。
「ん……ぅ……」
シルフィーの細い喉が、ふっと鳴る。
青年は躊躇なく、舌をねじ込んだ。
口の中を蹂躙するように、溢れ出る自分の「生命」を、彼女の喉の奥へと、直接、流し込んでいく。
ドクリ、ドクリ。
青年の喉仏が動き、シルフィーの喉へ、赤い熱が、ひと押しずつ送られる。
それは、輸血と呼ぶには、あまりに暴力的で、なりふり構わぬ蘇生措置だった。
青年の唾液と血液と、魔力が、シルフィーの体液と、混ざっていく。
2人の口の端から真っ赤な雫が零れ落ち、重なり合った顎を伝って、白い首筋を、——汚していった。
(……熱い)
シルフィーは、薄れていく意識の底で、奔流のように流れ込んでくる彼の「命」を、感じていた。
冷え切っていた血管に、——彼の激情が、後悔が、そして「生かしたい」という、どうしようもない渇望が。
ひと滴ずつ、注ぎ込まれていく。
青年は、離さなかった。
呼吸さえ忘れ、何度も、何度も、自分の血を啜っては、彼女の口内へ、移し続ける。
ただ、必死に。ただ、切実に。
「……っ、はぁ……っ、はぁ……」
青年が、ようやく唇を離し、荒い息を吐く。
口元は、自分の血で真っ赤に染まり、瞳は、狂気と懇願で、揺れていた。
「頼む……戻ってこい……!」
血まみれの額を、シルフィーの額に、ぐっと、擦り付ける。
「俺が、悪かった……全部、俺の、間違いだった……! だから……償わせてくれよ……!」
天を仰ぎ、青年は、慟哭した。
「戻りたい……っ! お前を傷つける前に……何もかも、やり直したいんだよォッ!!」
もし、許されるなら。
あの日の、路地裏へ。
まだ剣を握る前の、——ただの、孤独な少年だった、自分へ。
——その時。
シルフィーの身体の中で、奇跡の火種が、ぱちりと、爆ぜた。
彼女自身の「聖なる血」と、青年から無理やりに注ぎ込まれた「男の血」。
本来なら、相容れないはずの二つが——2人の願いを触媒にして、拒絶することなく、ドロドロに溶け合い、螺旋を描いて、ひとつに、融合していく。
(あぁ……聞こえる。貴方の願い)
シルフィーは、自分の中に芽生えた新たな熱を、はっきりと、感じていた。
彼が、これほどまでに悔い、やり直したいと、願っている。
ならば、聖女として——いいえ、ひとりの女として——自分のすべきことは、ひとつだけ。
「……大丈夫」
シルフィーが、血に濡れた唇で、ふっと微笑む。
「……間違いは……やり直せます」
彼女の身体から、心臓の鼓動に合わせて、黄金の粒子が、ふわりと舞い上がった。
青年の魔力を燃料にし、彼女の生命力のすべてを対価にした、——大いなる光。
それが、制御不能な奔流となって、溢れ出す。
「え……?」
青年が、息を呑む。
彼の腕の中で、——シルフィーの存在そのものが、光に、変質していく。
視界が白く染まり、祭壇の瓦礫が、重力が、空間そのものが、軋みはじめた。
「私が……やり直させて、あげます……」
その言葉は、「これからの人生で、罪を償えばいい」という慈悲に、聞こえた。
けれど、その光は——あまりにも、強すぎた。
カッ——————!!!!
世界は、白一色の静寂に、包まれた。




