第18話 抱きしめる刃と、メルトクライ
肉が、焼けるような熱さ。骨が、軋む音。
そして——鉄の味を含んだ、生暖かい液体の感触。
「……は?」
青年の喉から、間の抜けた音が漏れた。
思考が、追いつかない。
世界を呪い、破壊し尽くすつもりだった自分の目の前で、——あまりにも、異質な光景が、繰り広げられていた。
「な……なにを……している……?」
シルフィーの白い手が、黒い魔剣の刃を、強く握りしめている。
彼女は、恋人の手を取る仕草で、その凶器を体内に滑らせ——柄を握る青年ごと、自分の方へ、ゆっくりと引き寄せていた。
ズブッ、ズブズブ……。
「っ、ぅ……!」
シルフィーの口から、鮮血が溢れて、純白の顎を濡らす。
激痛に、顔は蒼白。全身に、汗が滲んでいる。
それでも、彼女は、止まらない。
後ずさろうとする青年の動きを、——逃さない。
「正気か!? ……引けよ! 抜こうとするならまだしも、なんで自分から……!」
青年の声が、震えていた。
「……にげ、ないで」
「あ!?」
「私から……目を、逸らさないで……っ!」
ひと足、血の海を踏みしめて、シルフィーが、前に出る。
その気迫は、どんな高位魔法よりも強烈に、青年の魂を、——縛り付けた。
ついに、魔剣の鍔がシルフィーの腹に当たり、2人の距離が、消えた。
青年は、動けなかった。
恐怖、だった。
自分が突き刺した刃を、相手が飲み込んで、なお迫ってくる。
その狂気的なまでの「受容」に、破壊者であるはずの彼が、——圧倒されていた。
シルフィーの血まみれの両手が、ゆっくりと、持ち上がる。
攻撃される——青年が身構えた瞬間、その手は、優しく、あまりにも優しく、青年の頬を、包み込んだ。
「あ……」
冷たい。
青年の心は、ずっと、凍えていた。
けれど、今、頬に触れている血は、——驚くほど、熱かった。
「……やっと、届きました」
シルフィーが、血に濡れた唇で、ふっと笑う。
その笑顔には、聖女としての威厳も、断罪者としての正義も、ない。
ただ——迷子を見つけた誰かのような、泣きたくなるほどの慈愛、だけが、あった。
「どう、して……」
青年の声が、震える。
「俺は、お前を、殺しに来たんだぞ……! なのに、なんで……怒らないんだよ! なんで笑ってるんだよぉッ!」
——叫んだ。
拒絶してくれと、願った。
罵られ、軽蔑されれば、いつものように嘲笑って、切り捨てられたのに。
この温度だけは、——どう処理していいのか、彼には、分からなかった。
シルフィーは首を、ゆっくり振り、そっと青年の背中に腕を回した。
ドス黒い魔剣で貫かれたまま、——彼女は、殺人者を、抱きしめる。
「……言葉も、魔法も、貴方には、届きませんでした」
ひと言、ひと言、青年の凍りついた心臓に、楔を打ち込むように。
「だから……もう、これしか、ありません。貴方の痛みも、冷たさも……こうして、私の命と混ぜ合わせて、——全部、半分こに、しましょう」
「な、にを……」
問い返しかけた青年の声を、シルフィーは、首を振って遮った。
「……知っていますよ」
掠れた声が、青年の核心を、ふっと突く。
「さっき、アレイシス様のことも……本当は、殺せたはずなのに、気絶させるだけに、留めましたよね……?」
「——ッ!?」
青年の体が、大きく跳ねた。
図星、だった。
必殺の一撃に見せて、無意識のうちに急所を外し、命までは奪わなかった、自分。
その甘さを、その迷いを、——この少女だけは、見逃していなかった。
「貴方は、怪物になんて、なりきれていません。……ただ、誰よりも優しいから、誰よりも傷ついてしまっただけの……男の子、です」
「やめろ……よせ……」
青年の目から、堰を切ったように、涙が溢れ出した。
ずっと、欲しかった。
「正しい説教」でも、「恵みのパン」でもない。
ただ、「お前は、ここにいていい」という、体温が欲しかった。
誰かに、触れて、欲しかった。
それをくれたのは——彼が、最も憎み、殺そうとした、少女だった。
「……痛かった、ですよね」
シルフィーの手が、青年のボサボサの黒紫の髪を、ゆっくりと撫でる。
「……ずっと一人で、寒かった、ですよね」
「う、ぁぁ……っ」
「もう、大丈夫。……貴方はもう、一人じゃ、ありません」
その言葉は、青年の心を守っていた厚い氷の壁を、粉々に、——打ち砕いた。
論理も、復讐心も、すべてが、崩れていく。
青年は、自分の頬を濡らす彼女の血の熱に、どうしようもなく、「生」を感じていた。
自分が彼女を殺しているという罪悪感と、それでも彼女に愛されているという、救い。
矛盾する二つが、空っぽだった青年の器を、——限界まで、満たしていく。
「あぁ……ああぁぁぁぁぁッ……!!」
喉から、獣のような、——あるいは、赤子のような慟哭が、ほとばしった。
彼はシルフィーの肩に顔を埋め、泣きじゃくる。
世界への恨みも、自分の存在意義も、——すべてが、涙になって、流れ落ちていった。
シルフィーは、その頭を、ただ、優しく撫で続けていた。
意識が、遠のいていく。視界が、霞む。
命の灯が、消えかけているのが分かる。
——けれど、彼女の唇は、最後にもう一度、ふっと、笑った。
ようやく、彼に、届いた。
ようやく、彼という人を、——抱きしめることが、できたのだから。




