第17話 握り返した手と、ヴァルネラ
「やめろぉぉぉぉッ!!」
アレイシスの喉が裂けんばかりの絶叫が、祭壇に、こだまする。
——だが、その声は、もう、遅すぎた。
青年の手の中の無骨な魔剣が、無慈悲に、突き出された。
防御も、回避も、シルフィーは、しなかった。
ドスッ。
鈍く、重い音が、肉を穿つ。
続いて、ズププ……と、刃が深くまで沈み込む、生々しい感触。
時が、止まったかのようだった。
青年の「漆黒の袖」と、シルフィーの「純白のドレス」。
世界を二分するようなその白と黒の境界線から、——じわりと、鮮やかな「赤」が滲み出した。
白い布の上を、点になり、線になり、面になって、それは静かに広がっていく。
「が、は……っ」
シルフィーの唇から、小さな呼気が、漏れる。
苦痛に歪むその顔は、それでもなお、見る者の胸を締め付けるほどに、清らかだった。
「シルフィぃぃぃぃッ!!」
アレイシスが、血涙を流さんばかりの形相で、叫ぶ。
先の戦闘で、彼の体はもう、限界を超えていた。
それでも、彼は歯を食いしばり、自分の骨が砕けるバキバキという音さえ無視して、瓦礫の中から無理やり、上半身を起こした。
怒りでは、ない。
ただ、彼女を喪うことへの根源的な恐怖が、彼を突き動かしていた。
「殺す……貴様だけは、絶対にぃぃッ!」
よろめきながら立ち上がり、青年の背中へ掴みかかろうとした、——その刹那。
「……うるさい」
青年は、振り返りもせず、虚ろに呟いた。
「《紫電龍牙》」
漆黒のコートが逆巻き、その影の中から、眩いばかりの紫の雷光が噴き上がった。
雷は、顎を開いた龍の形を成し、激情のままに突っ込んできたアレイシスを、——真正面から、呑み込む。
「がぁぁぁぁッ——!?」
悲痛な断末魔すら、雷鳴に、かき消された。
皇子の体は吹き飛び、石柱に叩きつけられ、——気を、失った。
†
ふたたび、祭壇に静寂が戻る。
剣を突き刺したままの青年と、刺されたシルフィー。たった2人だけが、そこに、残された。
青年の手が、小刻みに、震えていた。
シルフィーの腹部から流れ出る、温かい血。それを、彼は、ただ、見つめていた。
これが、自分が望んだ結末だ。
世界を象徴する聖女を穢し、壊し、すべてを、否定する。
それが、復讐だったはずだ。
殺した。壊した。勝った。
——なのに、なんだ、この寒さは。
胸の奥に風穴が開いたように、ヒューヒュー、と冷たい風が吹いている。
最高の復讐を果たしたはずの、その瞬間に。
青年の手の中に残ったのは、——「何もない世界」という、あまりにも、巨大な虚無、だけだった。
青年の顔から、冷たい「魔王」の仮面が、すっと剥がれ落ちていく。
眉が下がり、瞳が揺れ、口元が、引きつる。
そこにいたのは、世界を滅ぼす覇者では、ない。
雨の中で凍え、誰かに見つけてほしくて、いまにも泣き出しそうな——ただの、迷子の顔だった。
「……ははっ。どうだ、聖女様」
震える声で、青年は、必死に言葉を紡ぐ。
そうでもしなければ、自分が崩れてしまいそうだった。
「これが……お前が命を懸けて守ろうとした世界の、重さか? 随分と……軽いじゃないか」
——嘲笑おうとした、けれど。
その表情は、泣き顔よりも、無様で、痛々しかった。
「お前のその命ひとつで、俺の気が晴れるんだとさ……。安いもんだろ? ——お前の崇高な自己犠牲のおかげで、俺みたいなゴミが、満足、できたんだからな……!」
ひと言、吐き出すたびに、青年自身が、内側から削れていく。
皮肉で武装しなければ、立っていられない。
「ざまぁみろ」と言いたいのに、——喉の奥が、つかえて、声に、ならない。
彼女の血が、青年の指を、濡らす。
その熱だけが、この凍てついた世界に残された、唯一の「本物」だった。——彼の肌を、焼いた。
(なんで……なんで俺は、こんな……)
剣の柄を握る手が、白くなるほど、強く、強く、握りしめられる。
抜くことも、押し込むことも、できない。
ただ、立ち尽くす青年の姿は、——勝者など、では、なかった。
誰よりも、救いを求めている、敗者のそれだった。
——けれど。
シルフィーは、倒れなかった。
「……ッ、う……」
苦痛に耐える呻き。
それでも、彼女の瞳から、光は、消えていない。
その華奢な手が、ゆっくりと、持ち上がり——。
自分の腹に突き刺さった、青年の魔剣を、——握りしめた。




