第15話 無知の毒と、アンサングロア
祭壇の間には、重苦しい静けさだけが、満ちていた。
崩れ落ちた石柱、砕けた床。
その瓦礫の海を、漆黒の青年が、ゆっくりと歩いてくる。
カツ、カツ、カツ。
足音が響くたび、心臓を直接握り潰されるような圧迫が、ひと段ずつ増していく。
漆黒のロングコートが、歩みに合わせて、ふわりと広がった。巨大な鴉の翼となって、祭壇に立つシルフィーへ、長い影を落とす。
シルフィーは、震える膝を必死に叱咤して、顔を上げた。
ここで、引くわけにはいかない。彼を、止めなければならない。
「……答えてください」
絞り出した声は、自分でも驚くほど、掠れていた。
それでも、彼女は、その瞳を逸らさない。
「貴方は、人間なのですよね? 言葉も通じる、痛みも知っている……私たちと同じ、人間のはずです。ならば、どうしてこんな……世界そのものを滅ぼすような真似が、できるのですか!」
悲痛な叫びが、祭壇の冷たい空気に、ふっと吸い込まれていく。
青年の足が、ピタリと、止まった。
数秒の沈黙。
爆発直前の導火線が、燃え尽きるその瞬間のような静けさだった。
「……人間、か」
青年がぽつりと漏らした、その言葉。
それを聞いた瞬間、シルフィーは、周りの温度が氷点下まで落ちたような錯覚を覚えた。
顔を上げた青年の瞳に宿っていたのは、激情の炎ではない。
もっと底のないところから掬い上げられた——侮蔑。
「傑作だな。お前は今、——俺を『人間』の枠に入れて、説教をしたのか?」
ふっと、嘲りの息が漏れる。
青年が、ひと足、また、ひと足。距離を詰めてくる。
「おいおい、笑わせないでくれよ、聖女様。——俺を人間扱いしなかったのは、お前らが守ってきた、その美しい世界の方だろうが」
「な……何を、言って……」
シルフィーの声が、わずかに震える。
「忘れたとは、言わせないぞ。——いや」
青年は、手を伸ばせば届く距離で立ち止まり、彼女を見下ろした。
至近距離で浴びる気配は、刃のように、鋭い。
「『知らない』んだろうな。お前は」
唇が、ふっと歪み、凶悪なまでの皮肉が形を結ぶ。
「お前が、その清らかな結界の中で『世界は平和だ』『人は善きものだ』と笑っているその足元で。——俺たちのような『持たざる者』が、どう扱われてきたか。想像したこと、すらないんだろう?」
「それは……私は、すべての人を、救いたいと……!」
シルフィーは思わず、言葉を返した。
だが、それは、青年が口を開く一拍前のことだった。
「救う? ——誰をだ? 視界に入る、綺麗なものだけか?」
声は、暴力的なまでに流暢で、逃げ場を塞ぐように突き刺さってくる。
「親に捨てられ、残飯を漁り、野良犬のように石を投げつけられた時。——誰も俺を『人間』とは呼ばなかった」
青年の声が、低く落ちる。
「貴族の連中が狩猟ごっこの的にして、俺を撃ち、追い回した時。あいつらは俺を『獣』と呼んで、笑っていた。泥水を啜り、地面に落ちた残飯を這いつくばって喰らい、尊厳を靴底で踏みにじられていた時——お前らの言う『人間』の定義から、俺はとっくに、外されていたんだよ」
シルフィーは、言葉を、失った。
彼の語る情景が、あまりにも鮮明で、あまりにも、残酷だった。
自分が信じていた「守るべき世界」の裏側に、そんな地獄があったなんて。
青年は、彼女の動揺を見透かすように、ふっと続ける。
「都合がいいんだよ、お前らは。俺が力を持たず、路地裏で死にかけていた時はゴミのように無視しておいて、こうして脅威になった途端、『同じ人間だろ』『話し合おう』だと? ——どの口が、言ってるんだ?」
「ちが……私は、そんな、つもりじゃ……!」
シルフィーは反射的に首を振った。
だがその否定を、青年は鼻で吹き消す。
「いいや。同じだ。——その『悪気はなかった』という顔が、何よりの、証拠だ」
地を這うように低い声で、続けた。
「いいか、よく聞け。お前のその清廉潔白な『光』がなぜ輝いているか、教えてやろうか? それはな、——俺たちのような弱者から搾り取った犠牲を、燃料にして、燃えているからだ」
青年の手が伸び、シルフィーの頬に触れるか触れないかの距離で、ぴたりと、止まった。
触れられていないのに、肌が焼けるような錯覚。
「お前が純粋でいられるのは、世界の汚い部分をすべて、俺たちに押し付けて、見ないフリをしてきたからだ。——お前のその正義は、お前が踏みつけにしている死体の山の上に、立っているんだよ」
青年は、ふっと目を細める。
「……その無知こそが、俺には、何よりも醜悪な『毒』に見える」
ガツン、と。
頭を殴られたような衝撃が、シルフィーを、襲った。
反論しようとした言葉が、喉の奥で、凍りつく。
(私の……光、が……)
彼女が信じてきた、正義。守ろうとしてきた、平和。
それが、——目の前の彼のような存在を、虐げることで、成立していたのだとしたら。
彼を「怪物」に変えたのが、ほかならぬ「自分たちが守ってきた世界」だとしたら。
「あ……」
シルフィーの瞳が、揺らぐ。
圧倒的な「被害者」の側からの、断罪。
それは、純粋な善意で生きてきたシルフィーにとって、——魔法による攻撃よりも、ずっと深く、魂を切り裂く、ひと振りだった。




