第12話 魔神降臨と、ラグナフォール
その瞬間、世界から「色」が、ふっと、抜け落ちた気がした。
王城の螺旋階段を駆け上がるシルフィーの背中に、ズンッ、と——心臓を直接握り潰されるような重圧が、上から降りてくる。
魔物たちの雄叫びも、騎士の怒号も、民衆の悲鳴も。
すべてが、いっせいに凍りつく。
本能が、けたたましく警鐘を打っていた。
これまでの魔物など、ただの前座にすぎなかったのだと。
「あ……ぅ……っ」
シルフィーは、アレイシスの腕の中で振り返る。
視界の端、ステンドグラスが砕け散った窓の向こう。
砕けた空の穴。
そこから、5つの「星」が、ゆっくりと堕ちてくるのが見えた。
——いいや。星ではない。
圧倒的な質量と、神々しいほどの禍々しさを纏った、5柱の災厄。
神話の時代に封じられたはずの、魔界の最高戦力——《5魔神》。
彼らは、王都の各所へ、流星のように着弾した。
ズドォォォォォォォォン……ッ!!
着弾の衝撃波だけで、半径数100メートルの石造りの建物が、粉々に吹き飛ぶ。
立ち上る土煙の中から現れたのは、山脈のような体躯を持つ獣型の影、ぬらりと光る異形の影。
そして、王都東区画に降り立ったのは、虚無のような闇を纏った、人型の影だった。
その姿は、黒い靄がかかったように、輪郭すら定かでない。
ただ、そこに「死」が立っているという、それだけが、はっきりと届く。
その魔神らしき影が、退屈そうに、腕をすっと持ち上げた。
ただ、それだけの動作。
魔法陣の展開も、詠唱も、ない。
指先が、眼下の街を、ふっと指し示した。
カッッッ——————!!!!
音が、消えた。
王都の東区画。
下町の住宅が密集し、祭りを楽しんでいた多くの人々が逃げ遅れていた、その場所が、——純白の光に、塗り潰された。
熱波も、爆風もない。
ただ、「消滅」した。
光が収まったあとには、瓦礫すら残っていなかった。
巨大なクレーターだけが大地に穿たれ、家々も、広場も、幸せな思い出も、——数千の命も。
世界という絵から、誰かが消しゴムでなぞって消したように、なくなっていた。
「ぁ……あ、ぁぁ……ッ!!」
シルフィーの喉から、声にならない絶叫が、ひと筋、ほどけた。
聖女の《神脈直結》によって、彼女は王都の人々と、魂の深いところで繋がっている。
だからこそ、感じてしまった。
数千の命の灯火が、ふっと、瞬きのうちに、消えるのを。
ろうそくの火を吹き消すように、軽く、呆気なく。
その喪失感は、魂を引き裂くような痛みに変わって、彼女を貫いた。
「みんな……っ、私の、大切な人たちが……ッ!」
「見るなシルフィーッ!!」
アレイシスが悲鳴を上げ、彼女の顔を自分の胸に、強く押し付けた。
大きな手で、目と耳を塞ぐ。
それでも、流れ込んでくる「死」の気配までは、遮れない。
(ごめんなさい。ごめんなさい。——私が、弱いから)
守りたかった笑顔が、理不尽に、踏み躙られていく。
†
地上では、人類最強の戦力が、その理不尽な暴力に、直面していた。
「——ヒャハッ! なんだぁ? いい匂いがプンプンするじゃねぇかッ!」
瓦礫の山の上で、狂気じみた笑い声が響いた。
帝国騎士団副団長にして、戦場を愛する狂戦士。ヴァルガ・グリムフェン。
両手には、身の丈に届く三本爪——《アイアンネイル》が嵌まっている。
風に乗って漂う濃厚な「死の匂い」を肺いっぱいに吸い込み、ヴァルガは恍惚の表情を浮かべていた。
「最高だねぇ! この肌が焼けるような絶望感! ゾクゾクするぜぇ!」
笑いながら、目の前の「黒い影」が放った不可視の衝撃波を、紙一重で躱す。
常人なら視認すらできずにミンチになる速度だ。
ヴァルガは踊るように身を翻し、すれ違いざまに鉄爪を振るった。
ギィィンッ!!
影の一部を抉り、肉片に変える。一撃必殺のカウンター。最強の名に恥じない神業。
——だが。
ヴァルガは着地と同時に、舌打ちをして、背後の燃える街を睨みつけた。
「チッ……! でもよぉ……!」
その視線の先で、民家が一軒、ふっと吹き飛んでいた。
ヴァルガが回避した攻撃の余波が、その家の屋根を、撫でて通ったのだ。
「守りながら戦うにゃ、この国は、脆すぎるんだよッ!」
回避すれば、その背後の民家が消える。
切り刻めば、飛び散った魔力の波だけで、一般人が蒸発する。
最強の矛を持っていても、守るべき皿が硝子細工より脆ければ、戦いになどならない。
「おいレグルス! こっちも限界だ! 紙細工の城で暴れるなんざ、ストレスでハゲそうだぜッ!」
ヴァルガが叫ぶ方角。
そこでは、地響きのような轟音と共に、巨大な鉄塊が、何度も振るわれていた。
「うるせぇッ! 黙って斬りやがれイカレ女!!」
怒号と共に、身の丈を超える大剣を回す男。
ルーヴェル帝国騎士団長にして、シルフィーの専属護衛——《剣帝》レグルス・バーン。
彼は、魔神クラスの巨獣が放った極大の火球を、魔法で防御するのではなく、その圧倒的な膂力と剣圧で、物理的に叩き斬った。
ドォォォォンッ!!
火球が空中で爆散し、熱風がレグルスの頬を焼く。
彼の実力なら、目の前の魔神とて、一対一の平原であれば、ねじ伏せられるかもしれない。
だが、今は違う。
一歩でも引けば、背後に並ぶ数百の避難民が、全滅する。
全力で大剣を振れば、敵は吹き飛ぶが、その衝撃波だけで、近隣の街区が、ふた区画ぶん消し飛ぶ。
「チッ、うじゃうじゃと湧きやがって! キリがねぇぞ、クソッタレが!」
レグルスは荒く唾を吐き、大剣を肩に担ぎ直した。
全身から汗が噴き出している。疲労ではない。極限の出力制御を強いられる、精神の摩耗だった。
「クソッ! 俺の剣は、守るもんじゃねぇ! 壊すもんだろうがッ!!」
歯噛みし、迫る巨大な爪を、レグルスは正面から大剣で「受け止める」ことを選んだ。
ガギィィンッ!
足元の石畳が砕け、衝撃が、彼の体を通して街へ伝わっていく。
膝が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。
それでも、彼は、一歩も下がれなかった。
魔神たちが嘲笑うように腕を振るうたび、街区が一つ、また一つと、地図から消えていく。
そのたびに、レグルスとヴァルガは——指の隙間から砂のように零れ落ちていく命の重さに、押し潰されそうになる。
「……ッ! また……!」
ヴァルガが、珍しく苦々しい顔で、爪についた血を振り払った。
彼らは、「負けて」はいない。
だが、これは「殲滅戦」ではない。「防衛戦」だ。
守れなければ、それは——敗北と、同じだ。
「ふざけんな……! 聖女の結界がなきゃ、俺は目の前のガキ一人、守れねぇのかッ!!」
レグルスの悲痛な怒号が、爆炎の中に、虚しく散った。
それは、ただ敵を斬ることしかできない「武力」の、限界。
シルフィーという「護り」の要を失った人類に、突きつけられた残酷な詰みだった。
†
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
アレイシスは、ぐったりと力の抜けたシルフィーを抱え、ひたすらに王城の階段を駆け上がっていた。
肺が焼けるように熱い。
それでも、足は止められない。
腕の中の体温が、恐ろしいほどに冷たくなっているからだ。
彼女の純白のドレスは、自分の口から吐いた鮮血で、赤く滲んでいた。
それでも、彼女の唇は、消え入りそうな声で詠唱を続けている。
「ヒール……プロテクション……みんな、死なないで……」
自分の命そのものを魔力に変えて、ボロボロになった街の人々に、力を送り続けているのだ。
そのたびに吐血し、痛みに、目元を歪める。
聖女というシステムが崩壊した今、彼女自身が人柱となって、砕け散る世界を、素手で繋ぎ止めている。
その姿が、アレイシスには、痛ましくてたまらなかった。
(どうしてだ……。どうして、こんなことに……!?)
昨日の夜まで、世界は完璧だった。
彼女は笑っていた。僕たちは、幸せになるはずだった。
それが、たった数分で、地獄に変わるなんて。
——絶対に、許さない。
この平穏を壊した元凶を。
祭壇の結界を破り、魔石を砕き、この惨劇を呼び込んだ何者かを、——八つ裂きにしても、足りない。
「着いたぞ、シルフィー……!」
ついに、最上階の回廊を抜け、「天空の祭壇」への巨大な扉の前にたどり着いた。
ここに入れば、予備の魔石があるかもしれない。あるいは、制御盤から残存魔力を集めて、最低限の結界を再構築できるかもしれない。
それが、この崩壊を止める、唯一の希望。
「アレイシス様……降ろして、ください……」
「大丈夫か?」
「はい……行かなきゃ。私が、直さないと……」
シルフィーはアレイシスの手を借り、震える足で立った。
血の気を失った、幽霊のように白い顔。
それでも、その黄金の瞳の奥にある火だけは、まだ、消えていなかった。
重厚な扉に、ふっと手をかける。
ギギギギ、ギィィィィ…………
錆びついたような音が響き、巨大な扉が、ゆっくりと開いていく。
隙間から吹き抜けてきた風は、血と硝煙の匂いではなく——なぜか、凍てつくほどに、冷たく、澄んでいた。
開かれた視界の奥。
そこは、天井のない円形の祭壇。
頭上には、無残に砕け散った空の穴と、そこから雪崩のように降りそそぐ魔獣と魔族の影。
かつて巨大な魔石が鎮座していた場所には、キラキラと光る、粉のような粒子だけが、ふわふわと宙に舞っていた。
魔石の残骸。
そして——。
その粉雪の中央に。
「一人の影」が、立っていた。
月光と、魔石の破片の光を背に受けて。
最初からそこで二人を待っていた——そうとしか見えない、立ち姿で。
「——っ」
シルフィーとアレイシスが、息を呑む。
アレイシスが、即座に剣の柄へ手を掛け、殺気を放った。
「貴様……何者だ……!」
その問いに、影は、ゆっくりと振り返る。
——魔族でも、魔神でもなかった。
立っていたのは、ただ一人の人間。一人の男だった。
夜の闇を絞ったような、黒紫の髪。
シルフィーと、同じ年頃の青年だろうか。長身で、しなやかな肢体を持つ。手の中には、邪気とは違う何かを纏った剣が、だらり、と下げられていた。
その容姿は、あまりにも整っていて——そして、残酷なほどに、虚しげだった。
彼は侵入者を見ても、動じることが、ない。
ただ、——焼け落ちる祭壇の炎を映してすら、ひどく冷たい、黄金の瞳で。
踏み入った「聖女」を、静かに、見据えた。
崩壊する世界の中心で。
地獄を作り出した張本人が、——いまにも命が潰えそうな、脆く、痛々しい顔で、佇んでいる。




