Puck
能味俊の疲労はいまやピークを越えていた。
20時間以上も東京をさまよい、一息つく暇もなかったからだ。
品川にある木立に足を踏み入れた時、倒れこみそうになった。
だが、甘えた己を律する心構えはかろうじて残っていた。
都会の喧騒と切り離された木立の中を進むと、一脚のベンチが目に入る。
座って息を整えるだけならば、問題ないだろう。自分自身にそう言い訳すると、ベンチに座り、しばしの安らぎを得ようとしていた。
昨夜から気が立っている。最後の一仕事をこなす前に沈めなければ。
また失敗するわけにはいかない。
黒川を襲った時に顔を見られた。警察は今ごろ、自分を追っているだろう。
そう考えて、都内の防犯カメラだけでなく、警察のパトロールドローン、パトカーや警察官、交番の前を避けるよう行動しなければならなかった。
口で言うほど簡単ではない。しかし、能味には心強い味方がいた。
ダークウェブ上で売買されているマップアプリだ。
そのマップには、監視カメラの設置個所だけでなく、巡回中のパトカーやドローンの位置が随時反映されていた。どういう仕組みか分からないが、警察から逃げるには便利な代物だった。
未亜の前から姿を消し、都内のネットカフェや安ホテルをさまよっていた能味に、Puckから連絡が来たのは、昨日の夕方だった。2週間ぶりの連絡だった。
Puck。
集権派に属するグループのメンバだと名乗ったその人物からメールがきたのは、ちょうど1週間前だった。
どうやらPuckは、SNSから『日本のシステムを考える会』のメンバを探し当て、《下手な鉄砲も》方式で誰彼構わず連絡を取ってきているらしかった。
最初のころ、Puckは分権主義がこの国に及ぼす害をひたすらアピールする文章を送ってきているだけだった。
分権論争に全く興味のない能味はこれを無視していたが、数日して状況が変わった。
Puckは、分権主義の中でも過激派に位置づけられるグループにいるとカミングアウトしてきたのだ。
Puckは、公の場で黒川数樹と分権移行について討議したいが、真正面から頼んでも出てこないだろう。だから、こちらのアジトに拉致して生配信の形で討論するしかない、と言ってきた。
討議のくだりはどうでも良いが、生配信というのが能味の食指を動かした。
2年前のひき逃げについて聞けば、誰の助けもない黒川も答えざるを得ないのではないか。
答えないにしても、疑惑を視聴者が知れば、そこから拡散し、黒川を攻撃できるのではないかと考えたのだ。
そこで、Puckに対して、自分も黒川と話すことができるのなら、協力する、と告げた。
Puckは仲間からの了解を得る必要がある、と答え、それまでの間、いつアジトに来てもいいように姿だけ隠してくれ、と連絡してきた。
しばらくしてPuckから連絡がきた。
《黒川が永田町のホテルに行く予定。彼を自分たちのアジトに連れ去ってほしい》
それがPuckの要望だった。
能味は、ホテルの地下駐車場に潜み、黒川を待ち伏せしていた。予定通り、彼が地下駐車場に現れたところまでは良かったが、女が近くに来たことで動揺し、失敗してしまった。
《次の機会を掴むまで待て》
急いでホテルから脱出した能味が、Puckに報告すると、そう返事が来た。
そのメールには、件のマップアプリが添付されていた。そして、それ以降何の音沙汰もないまま、日付が変わってしまったのだった。
能味は焦っていた。襲撃に失敗したことで、黒川の身辺に警官がつき、警護は厳重になっているだろう。Puckが言う次の機会が来る可能性は低いと思われた。
ひょっとすると、Puckは何か強引な手段を企てているのかもしれない、という不安もよぎった。
だが、それよりも黒川の罪を表に引きずりだすことの方が重要だった。
何よりも、義姉・浜尾未亜のために。
Puckから接触を受けたことを話した時、未亜は危険だから関わらない方が良いと言っていた。それは能味も同感だった。だが、この好機は逃すには惜しい。そこで能味は未亜にも黙って、Puckの指示に従ったのだ。
これから犯罪に手を染める自分と、関係を断っていた方が良い、という考えもあった。
未亜は今ごろどうしているだろうか。
警察が、昨日の襲撃者を俺だと突き止めれば、東京で同居していた未亜のもとにも来るだろう。
余計なことに巻き込んでしまったと、胸が痛む。
しかし、黒川の罪さえ暴けば、これ以上彼女が苦しむことはない。兄の無念を晴らし、未亜の重荷を解放する。それだけが、今の能味の願いだった。
夜の木々に漂うひんやりとした空気を、深く吸い込み、能味は立ち上がった。
電気街で買った使い捨ての携帯を、ズボンのポケットから取り出す。
起動すると、数時間前にPuckから届いたメッセージがそのまま表示された。
《到着したら連絡を。これが最後のチャンスです》
メッセージには、Puckの警告ともとれる文章と、都内のある住所が書かれている。
「これから入る」とだけ打ち、Puckに返信する。
能味はそのまま歩き出し、木立を抜けた。頭上から橙色の光が降り注いでくる。
見上げると、天まで届きそうなタワーマンションがそびえ立っている。
Puckから送られた住所は、黒川数樹の自宅マンションだった。




