県境
「美智さんの話に出てきた、俊さんの兄、能味尊は私の亡くなった夫です」
「亡くなった・・・」
「ひき逃げに遭ったんです。犯人は黒川数樹」
思いがけない名前を聞いて、沢白の眉間に力がこもった。
「黒川がひき逃げ、ですか。しかし、彼に前科はなかったはずです」
「ええ。だって捕まっていませんから」
これまでのうろたえた様子が嘘のように消え失せ、未亜はきっぱりと言い切った。
黒川が罪を犯したのに、捕まっていないとはどういう事だろうか。
「詳しくお聞かせ願えますか」
「私たち夫婦は、2年前まで静岡の田舎にある診療所も兼ねた家に暮らしていました。
夫はその町で医者をしていたんです。
ひき逃げにあった日、夫は山梨へ往診に行っていました」
「山梨まで行っていたんですか?」
「ええ、ちょうど県境近くに診療所があったので。山梨につながる神楽峠という峠道で、夫は事故にあったんです」
「そのひき逃げが、黒川さんによるものと考える理由はなんでしょう」
沢白の問いに答えたのは、美智だった。
「現場に残されていたタイヤ痕と峠のふもとで目撃された車のかたちから、国内であまり流通していない外車だということが判明したの。
特定した車種をもとに聞き込みした結果、神楽峠近くの射撃場をよく利用していた黒川数樹の可能性が出てきたのよ」
「静岡県警は当然黒川に事情聴取をしたんだよな?」
今度は蓮井が口を挟んだ。
「ええ。それに事件当時射撃場に出ていたオーナーにも裏をとった。
で、結果はシロ。オーナーは、黒川は射撃場に来ていないと証言したし、黒川自身にも東京でアリバイがあった」
「そこまで調べて、警察は事件から手を引いたんです。静岡県警からは、『本件は継続捜査の対象になった』と言われました」
継続捜査。人海戦術を基本とする通常の捜査方針から、少数精鋭の捜査に切り替えられたということか。
警察は要員を割くことを無駄と判断したのだろう。
後を引き取った未亜の言葉に、蓮井が眉間に皺を寄せた。
「手を引いた、他の容疑者を探そうともしなかったんですか」
「警察は最初から捜査に消極的でしたから」
未亜はうつむきながら、悔しそうに声を発した。
そんな未亜の様子をみて、沢白は居心地の悪さを感じた。
この事件の捜査が充分に行われなかったのは、恐らく広域捜査庁にも原因がある。
それはこちらから言うべきだろう。
「ひき逃げ事件の現場が、県境だったからですね」
「・・・えぇ」
「静岡と山梨の警察で、管轄権争いが起こった」
蓮井は納得したような表情でつぶやいた。
「そうです。
後から分かったのですが、静岡県警も山梨県警も最初から捜査には積極的ではなかったそうです。
そこに来て、容疑者が黒川数樹だと分かると、あからさまに押し付け合いが始まったと」
「でも2年前といえば、広域捜査庁は既に設立されていたんでしょう?こういう時に動くのも仕事じゃないの?」
美智が目を丸くして尋ねてきた。
ここにきて、蓮井もいたたまれなくなったのか、座る位置を微妙に調整しながら、美智の問いに答えた。
「確かに、その時期に広域捜査庁は存在した。だが、県境地帯での事件捜査は、我々の管轄外なんだ」
「どういうこと?」
「我々が動くのは、AI解析によって複数事案の接点が判明した時と地元警察から応援要請が来た場合に大別されるんだ」
それ以外にも、誘拐事件発生から72時間経過した場合やテロ事案が発生した時も、広域捜査庁の管轄権が発動される。
「何よ、それ。県境で発生した事案で動かないなんて、意味ないじゃない」
美智の言葉に、沢白も蓮井も反論できなかった。
当然の非難だからだ。
警察組織が二の足を踏む県境での事件を広域捜査庁が担当しない理由がない、と意見する者と、複数の事件の接点が明らかになって初めて捜査するべき、と反論する者で、議論は割れた。
広域捜査庁設置法が施行されて10年以上の月日が経つが、いまだこの「県境問題」は決着していない。改正法案が国会に提出されていないのだ。
法務省と警察庁の対立だけでなく、広域捜査庁をあくまで地域政党との政争の道具としか見ていない政府が、この問題の解決に関心を示していないことが、最大の要因だった。
しかし政府の事情など、事件に巻き込まれた一般市民からすれば、知ったことではないだろう。
テーブルの雰囲気が悪くなったのを知ってか知らずか、未亜はまた話し始めた。
「警察の捜査は行われなくなりましたが、ある刑事さんが仕事の合間に事故について調べ続けてくれたんです」
「上の意向を無視してですか」
なかなかの執念をもった刑事だな、と沢白は思った。
「ええ。定年間際の女性の刑事さんでした。夫が亡くなった時に知らせに来てくれた方でもあったんです」
「その刑事さんは、黒川さんの犯行だと信じていたんですか」
「はい。射撃場のオーナーの態度がどうにも気になって、関与を疑って調べていたみたいなのですが、証拠は見つからなかったそうです」
そう言うと、未亜は悔しそうに顔をゆがめ、テーブルに目を落とした。
美智は未亜の肩に手をやり、何度もさすった。
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