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今日もハムスター少女として生きていく  作者: 酣睡


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「あなた」の一声、交錯するそれぞれの思惑

帝国魔法学院、女子寮の裏手に広がる、人影のない極めて辺鄙な空き地。


風にそよぐ雑草の中、マリーズは両手で頬杖をつきながら、目の前で繰り広げられる極めて魔幻的な光景をただぼう然と見つめていた。


その灰色の長い髪が夜風にふわりと揺れ、紫丁香色の瞳は光を映してぼんやりと焦点が合っていなかった。


視線の先では、黒い短髪に金褐色の獣瞳を輝かせたドウバオが、どこからか引きずってきた、見事な手際で血抜きされ毛をむしられた丸々とした肥え太ったイノシシを一頭、解体していた。


このモフモフした獣人少女には、貴族の厨房にあるような煩わしい作法など微塵もない。


マリーズには名前すら分からない、色鮮やかで怪しげな香辛料の粉末を両手で豪快に掴むと、まるで泥遊びでもするかのように、イノシシの皮と腹腔へ容赦なく塗りたくっていく。


続いてドウバオは、蝉の羽のように薄く、淡い銀色の光を帯びた熱伝導性の透明シートを取り出した。イノシシの巨体を隙間なく厳重に包み込むと、焼き網を用意する気配すらなく、「ドスン」と乱暴な音を立てて、勢いよく燃え盛るパチパチとした火輪の中へと直接放り込んだのだ。


特殊な媒体を用いて高温で蒸し焼きにするこの手法自体は、マリーズも前世の地球のキャンプ動画や高級料理界の知識として耳にしたことがあった。


だが、彼を何より驚かせたのは、その薄い紙が火熱を浴びた瞬間に放ち始めた、常識外れの奇怪な芳香だった。


温度がぐんぐんと上がるにつれ、密閉されたシートがふわりと膨らんでいく。パチパチと薪が爆ぜる焦げ臭さを力尽くで突き破り、暴力的なまでに馥郁たる芳香が鼻腔へと潜り込んできた――


クミンを思わせる刺激的なスパイス感、黒コショウの心地よいピリッとした刺激、脂っこさを一瞬で吹き飛ばす柑橘系の爽やかさ、そして極めて幽玄なアニスの香り。


だが、マリーズが知るそれらの馴染み深い香りの背後には、地球で生きた三十年間で一度たりとも領略したことのない深遠な気配が、何層にも重なり合っていた。


蜜のように甘やかなもの、あるいは朝霧に濡れた山林のような清冽なハーブの香り。それらが熱の中で溶け合い、衝突し、嗅覚への最も直接的な一撃となって脳を揺さぶる。


ぐうぅぅぅ――。


極めて情けないほど大きな悲鳴が、マリーズの幼女の小さなお腹から遠慮なしに響き渡った。


「えへへ! すっごくいい匂いでしょ! リリのお腹も我慢できずに大抗議中だね!」


ドウバオは豊満な胸をこれ見よがしに反らせて得意げに胸を張り、頭の上のモフモフした獣耳をご機嫌にパタパタと揺らした。


この帝国の地において、獣人族は権謀術数が渦巻く宮廷の官僚的な智謀では狡猾な人間に敵わないかもしれない。だが、大自然と対話し、山川草木の精華を見極める直感にかけては、人間など彼らの前では盲目で自大な学徒に過ぎないのだ。


それゆえに、帝国上層部も獣人の部族には常に手厚い包容力と配慮を見せてきた。


世襲の獣人貴族のほとんどは帝国の命脈を握る大農業主であり、ドウバオの実家であるケンペス家は、その巨頭たちの中でも赫赫たる名を馳せる「スパイス王国」である。


獣人特有の世代を超えて受け継がれた鋭敏な嗅覚を頼りに、ケンペス家は百年にわたり様々な奇跡の香辛料を交雑、育成、改良し続けてきた。


そうして築き上げた絶対的な技術の壁によって、帝国全土のスパイス市場の七割近くを独占しているのだ。


彼らの香辛料は年を追うごとに芳醇さを増し、防腐と保存の限界記録を毎年更新し続けている。


全大陸の貴族の舌を左右するこの切り札を握るケンペス家の帝都における地位は揺るぎなく、千年の歴史を誇る古参の名門世家ですら、この香辛料を操る獣人たちを軽んじることなど決してできない。


マリーズがよだれを垂らしそうになりながら、薄紙に包まれた焼きイノシシの焼き上がりを今か今かと待ちわびていた、その時だった。


耳元に、カサリと極めて微かな草擦れの音が届いた。


次の瞬間、しなやかで優雅な二つの人影が、音もなく左右から現れ、マリーズが座る巨石の両脇へと腰を下ろしたのだ。


呆気にとられたマリーズがわずかに目を見張り、顔を横に向けて隣に座った人物の顔を視界に捉えた瞬間、その口元が引き攣った。


――本当に、冤家路窄(よりによって、こいつらかよ)。


左隣に座っていたのは、先ほど演習場でマリーズにからかわれ、挙句の果てに親衛隊をゴミのように蹴散らされた精霊使いのフェイだった。


普段は冷ややかで高貴な、平民出身の天才女神と称えられる彼女が、今はなぜか水で満たされたバケツを両手で抱えて持参している。


霜白の長い髪を揺らし、マリーズのすぐ隣に腰を下ろした途端、その整った横顔は熟れた林檎のように一瞬で真っ赤に染まった。


フェイは足元にそっとバケツを置くと視線を明後日の方向へと逸らし、蚊の羽音のように細く弱々しい声で呟いた。


「べ、別に……いくら寮の裏の寂れた空き地だからって……火の用心くらいは常識よ。特に……二人とも水魔法が使えないんだから、火事にでもなったら大変でしょう……」


その言葉に、焚き火を見つめていたマリーズとドウバオは、揃ってぽかんと目を瞬かせた。


先ほどの戦いの後で腹が減りすぎていた上に、普段誰も寄り付かない荒れ地だったこともあり、二人とも防火の規則など完全に頭から抜け落ちていたのだ。


「あ、あのね……」


フェイは純白の法衣の裾をぎゅっと握りしめ、指先が力みによって白く強張っていた。


胸の奥で渦巻く、本能に近い恐怖をどうにか抑え込もうと必死だった。


何しろ目の前にいるこの華奢な幼女は、ほんの少し前、大の大人である近衛騎士たちをボールのように蹴り飛ばすという常軌を逸した暴力を披露したばかりなのだ。


だが――それ以上に、全校生徒の前であんなにも軽薄に「私の嫁にならない?」などと口説いておきながら、用が済んだら何食わぬ顔で姿を消し、こんな辺境で呑気にイノシシを焼いていることへの羞恥と屈辱が、胸の中で炎となって燻っていた。


なんでよ。なんでこの元凶の張本人は、ここまで無神経でいられるのよ……!?


フェイは下唇を噛み締め、震える喉の奥で言葉を詰まらせながら、一生分の勇気を振り絞ってあの恥ずかしい「よ……嫁」という言葉を喉から絞り出そうとした――その時。


「あなた、夜風が冷たくなってまいりましたけれど、寒くはありませんか? よろしければ、私のショールをお使いになって?」


蜜のように甘く、とろけるような柔らかい声音が、マリーズの右隣から極めて自然に漂ってきた。


マリーズの背筋が凍りつき、首がギギギと音を立てるように硬直しながら右へと回る。


漆黒の長い髪に紅い瞳を湛え、尊き血筋を誇り、普段の学園では氷山のように不可侵な神と崇められる公爵令嬢イリノーが、いつの間にか優雅な仕草で腰を下ろしていた。


イリノーはすでに、金糸の暗紋が刺繍された高価なベルベットのショールを肩から外し、手慣れた親愛の仕草でマリーズの小さな肩へと掛けようとしていた。


この瞬間になって、マリーズは重大な物理的欠陥にようやく気づかされた。ドウバオが手近だからと適当に運んできたこの二つの腰掛け用の青石――いくらなんでもデカすぎる。少女三人が横並びに座っても、まだゆとりがあるほどだ。


そして、「あなた(奥様)」という二文字が、イリノーのあの冷艶で高貴な紅唇から極めて滑らかに紡ぎ出された瞬間。刺すような荒唐無稽さと底知れぬ寒気が、鈴木八重の背筋を這い上がって後頭部へと突き刺さった。


おかしい。あまりにも、おかしい。


元のマリーズの砕け散った記憶の残滓、そしてつい先ほど観覧席から向けられていた視線の微細な表情筋の動きから見ても、この公爵令嬢が三十分前まで自分に向けていた感情は、明白な「嫌悪」と「保身」、そして底知れぬ「打算」だったはずだ。


つまり、目の前で甲斐甲斐しく愛を囁き、体温を差し出してくるこのイリノーは、絶対に極めて異常な病態モードに入っている。


実家からの強烈な圧力か、あるいは骨の髄までしゃぶり尽くすような巨大な陰謀を腹に収めているのか。どちらにせよ、天から降ってきた棚ボタのような幸運など、この落ちこぼれの身体に舞い込むはずがないのだ。


結局のところ、前世のコンクリートジャングルで三十年間、独身のまま荒波に揉まれてきた成熟した男として、マリーズは誰よりも理解していた。「美しい女が、自らの天賦の武器をいかに残酷に振るうか」ということを。


高度な社交の場において、上位層の女は男など足元にも及ばないほど、他人の微細な心の揺らぎを捉えることに長けている。


いつ弱みを見せればいいのか、他人の取るに足らない好意をどう利用するのか。ほんのわずかな伏し目、風に乗る微かな残り香一つで、彼女たちは相手を手玉に取り、己にとって最大の籌碼(利益)を掠め取っていく。


マリーズの脳裏に、かつて短期間だけ関わりのあった前世の婚約者の姿がよぎる。


あの頃の自分も、不器用なりに必死になって二人の距離を縮めようとしていた。だが返ってきたのは、いつだって絵に描いたように礼儀正しく冷淡な表情と、「まだそこまで定めたくはないの」という死刑宣告の言葉だけだった。


あの惨めで滑稽な過去があるからこそ、マリーズの骨の髄には、安っぽい「一目惚れ」などという幻想を信じる余地など微塵も残っていなかった。


分かりきっていることだ。相手が悪いわけじゃない。二人の世界があまりにも違いすぎただけだ。身分の壁などというものは、甘い言葉をいくつか並べたところで崩せるほど薄くはない。


生まれながらにして身分、地位、権力、美貌、そして卓絶した才能を手にしてきた天の寵児たちが、平庸な魂に対して心底から頭を垂れ、本気で惚れ込むことなどあり得ないのだ。


前世の高嶺の花だったあの婚約者がそうであったように。


そして、今まさに焚き火の傍らで、眩い光を放ちながら自分を左右から挟み込んでいる、この二人の学園の女神たちもまた、然り……。


マリーズは静かに視線を落とし、一メートル五十にも満たない幼女の華奢な己の手を見つめ、口元を皮肉げにわずかに引きつらせた。


――腹の中に八百個ばかりの企みを隠し持っていなきゃ、前世で三十年食ってきた社会の飯が泣くってもんだ。


「ありがとうございます。とても温かいショールですね」


マリーズは肩に掛けられた、魔獣の羽毛で織り上げられた一国一城に匹敵するほどの濃紫のベルベットをそっと引き寄せた。そして、イリノーに向けて春の雪解けのように完璧で、純真無垢な微笑みをふわりと浮かべてみせた。


頬を染めることもなく、動揺の色も見せず。ましてや、あの荒唐無稽な「あなた」という呼びかけに対しては、肯定も否定も、何一つ返さずに。


まるで廊下ですれ違った顔見知りのクラスメイトから、適温の紅茶を一口受け取ったかのような、あまりにも自然で平穏な佇まい。紫丁香色の瞳の奥には、さざ波一つ立っていない。


――私にその手を仕掛けてくるわけ?


マリーズは長く密なまつ毛を伏せ、その瞳の奥に冷徹な愉悦を走らせた。


男の前で無垢を装い、完璧なキャラクターを演じることなど、現代社会の修羅場で幾多の「感情の暗殺者」たちの洗礼を浴びてきた孤狼の魂にとっては、呼吸をするのと同じくらい造作もないことだ。


地球の過酷なアルゴリズムの波に揉まれ、ミリ単位で洗練されてきたあざとい駆け引きの手腕は、身分制度と血統のゴリ押ししか知らないこの異世界の住人に対して、文字通り軍用兵器による原始人への空爆に等しい。


帝国筆頭公爵の愛娘。普段ならば他人が額を地につけて縋り付いてくるのを冷たく見下ろす立場にある彼女が、誰かを本気で落とそうと頭を下げたことなど、一度たりともあるはずがないのだ。


その手のプライドなど、恋愛の実戦経験の欠如という事実の前には、薄氷のように脆い。


このお嬢様が強気な求愛で自分を手籠めにしようと目論んでいるのなら、その青臭い拙さをそっくりそのまま利用して、主導権を根こそぎ握り潰してやるまでのこと。


案の定、イリノーの冷艶で美しい横顔が、目に見えて微かに強張った。


長袖の下で、公爵令嬢の指先が無意識にぎゅっと引き絞られる。


貴族の礼法で固められたイリノーの精密な頭脳において、社交の駆け引きとは常に「一手打てば、相手が一手返す」ものだった。


先ほど公爵家の面目をかなぐり捨て、破れかぶれで口にした「あなた」という呼びかけは、彼女にとっても全財産を賭けたような乾坤一擲の一撃だったのだ。


彼女の想定では、マリーズが顔を真っ赤にして「な、何を破廉恥な!」と武器を抜いて怒鳴るか、あるいは照れ隠しに狼狽え、最悪でも「失せろ」と冷たく突き放してくる――そのいずれかのアクションが返ってくるはずだった。


反応さえあれば、あの独占欲に満ちた呼び名が急所を射抜いた証拠になり、相手の動揺の隙を突いて押すなり引くなり、追撃の手を打つことができる。


だが、この反応は一体何なのだ。


マリーズは受け入れもしなければ、拒絶すらしていない。


「不躾ですわ」と怒るでもなく、「何をふざけたことを」と呆れるでもない。帝国中をひっくり返すほどの爆弾発言を、まるでただの環境音として綺麗に聞き流し、あろうことか「温かいショールへの感謝」だけに話をすり替えてみせたのだ。


聞こえていなかったのか? それとも聞こえないふりをしたのか?


この関係を暗黙のうちに認めたのか? それとも、自分の媚びへつらいなど反論する価値すら値しないと見下しているのか?


学園で常に頂点に君臨し、鉄の規律で場を支配してきた女帝の心臓に、初めて「疑心暗鬼」と「焦燥」という名の冷たい棘が突き刺さった。手応えのまったくない泥沼に全力の拳を叩き込んでしまったような喪失感が、彼女の身にまとう公爵令嬢としての薄っぺらな余裕を、じわじわと内側から剥ぎ取っていく。


すぐ傍らに立っていたドウバオは、真ん丸な金褐色の獣瞳を見開いたまま、尻尾をピーンと直立させて目の前の静かな激突に戦慄していた。


人間のねじ曲がった腹芸など理解できない彼女だったが、犬系獣人としての嗅覚は、空気中の微細な感情の匂いを恐ろしいほど正確に捉えていた。ドウバオの鼻腔の世界において、先ほどの数秒間はまさに神々の死闘だったのだ――


最初は淑やかに整っていたイリノーの匂いが、何らかの決死の覚悟を固めて「あなた」と口にした瞬間に、羞恥と捨て身の覚悟が入り混じった張り詰めた甘ったるさへと激変した。


対するマリーズの匂いも、その言葉を聞いた刹那にわずかコンマ数秒だけ揺らいだが、瞬く間に水面のように凪ぎ、底知れぬ静寂へと戻っていった。


そして、この戦いの最大の逆転劇が、あのあまりにも軽やかな一言――「温かいショールですね」だった。


ドウバオの単純な脳みそでは、その言葉のどこに致命的な殺傷力があるのかさっぱり分からなかったが、イリノーの自信に満ちた香りがその一瞬で完全に砕け散り、まるで火のついた藁の上をのたうち回るような焦燥の悪臭へと変わったことだけは、嫌というほど嗅ぎ取れた。


このおバカな犬系獣人は、も拔け殻のようにマリーズに対して五体投地の勢いで尻尾をブンブンと振り回し、猛烈なリスペクトの念を抱かずにはいられなかった。


(まさか……これがマリーズが前に言ってた、『地球』っていう世界の至高の呪い――コトダマ魔法なのかな!? ただお礼を言っただけで、あの公爵令嬢の心をへし折っちゃうなんて……!!)


もちろんこの駄犬の勘違いは明後日の方向を向いていたが、ある意味で、地球の「言葉の刃」を老獪な使い手が振るえば、目に見えぬまま人を殺めることなど造作もない。


もっともマリーズに言わせれば、因果や魂の代償を伴うような本物の言霊など使うまでもなく、精神的に未成熟なこの世界の深窓の令嬢を相手にするなら、前世のあざとい心理誘導だけで十二分にオーバーキルだったのだが。


「あ……あの……あなた、カトラリーはお持ちでして?」


完全に主導権を奪われたイリノーは、焦りのあまり、信じられないほど拙劣な話題を口走ってしまった。


磨き上げられた白銀のフォークとナイフは、彼女たちの目の前の石の上にこれ見よがしに並べられており、ナプキンすら丁寧に畳まれている。


見えていなかったなどと言い訳をしても、三歳の子供すら騙せはしない。だが、マリーズにすべての攻め手を綺麗に受け流された公爵令嬢の頭は真っ白になっており、溺れる者が藁を掴むように、口から出まかせを放つしかなかったのだ。


「見かけによらず……公爵令嬢様は、ずいぶんと目がかすんでいらっしゃるのね」


凛とした冷ややかな、そして嘲弄の色を隠そうともしない声が、唐突に横から割り込んできた。


マリーズがわずかに眉を寄せ、隣でくんくんと匂いを嗅いでいたドウバオもあんぐりと口を開けた。


見れば、先ほどまで遠巻きに様子を窺っていたフェイが、マリーズの華奢な身体にぴったりと己の上半身を密着させ、からかうような熱を帯びた海藍宝石の瞳でこちらを覗き込んでいたのだ。


全学園から「優雅と高潔の化身」と称えられる精霊使いの女神が、今その冷艶な美貌に浮かべているのは、明白な攻撃性を孕んだ挑発的な冷笑だった。その視線は、切っ先のように鋭くイリノーへと突き刺さっている。


先ほどの一騎打ちでは確かに躊躇して後れを取ったフェイだったが、今や彼女の負けん気には完全に火がついていた――このまま無様に退場することなど、絶対に許せなかった。


それに何より、彼女がマリーズの体術に異常なまでに執着する理由は、単なる意地や勝ち負けなどでは決してない。


フェイの体の脇に垂らされた指先が、掌に爪が食い込むほど強く握りしめられる。あの血塗られた悪夢が、再び脳裏に生々しく蘇っていた。


ある討伐任務の最中、部隊が遭遇した極めて特異な人型戦士の魔物。圧倒的な近接速度と暴力の前に、彼女が誇る高位精霊たちは詠唱の暇すら与えられず、冷酷な刃によってゴミのように細切れに解体されたのだ。


精霊という絶対の盾を失った精霊使いなど、殻を剥がされたカタツムリのように無力だった。


幼い頃から姉妹のように育った親友が、最後の瞬間に命を燃やして盾になってくれなければ、フェイはとっくに冷たい肉塊になり果てていたはずだった。


そしてその親友は今もなお、死人のように昏睡状態のまま、救護室の冷たいベッドの上で息をしているだけなのだ。


あの無力感と後悔が、今も毒蛇のように昼夜を問わず彼女の心臓を苛み続けている。


強くなりたかった。何よりも、敵に懐に入り込まれた一瞬で相手の息の根を止め、関節を粉砕できるような、あの泥臭く絶対的な近接格闘の力を手に入れたかった。


大切な者が目の前で倒れていくのを、ただ泣きながら見ているだけの無力な存在になど、二度と戻りたくはなかったのだ。


そして――目の前にいる、あんなにも華奢で小さな幼女のくせに、常識外れの正拳突きと濃縮されたマナによる絶対的な暴力で騎士たちを叩き伏せたマリーズこそが、彼女にとって唯一縋りつくことのできる希望の光だった。


フェイは深く息を吸い込み、瞳の奥に渦巻く激痛を力尽くで押し殺すと、顎をツンと持ち上げた。まるで宣戦布告するかのような不遜な笑みを湛え、青ざめるイリノーを真正面から見据えて、冷酷な追撃を言い放つ。


「目の前のナイフとフォークすら見えないのなら、さっさと屋敷に帰って養生なさったらどうかしら? ――ここの席はね、目が見えない哀れな人のために空けてあるわけじゃないのよ」

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