↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今日もハムスター少女として生きていく  作者: 酣睡


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/29

所詮は、独り善がりに過ぎない

運命が与えてくれるすべての贈り物には、とうの昔に密やかな値札がつけられている――何かを手に入れたいと望むなら、それ相応の等価の対価を支払わねばならない。


それはマリーズがかつて鈴木八重として生きていた頃、あの凍てつくような現代社会の荒波に揉まれる中で学んだ、唯一無二の生存法則だった。


人気の絶えた荒れ地に、冷ややかな夜風が吹き抜ける。焚き火の薪がパチパチと乾いた爆ぜる音を立てていた。


一国一城に匹敵するほどの豪奢なベルベットのショールを肩に羽織りながらも、マリーズの食べ方には貴族令嬢らしい優雅さなど微塵もなかった。


彼女は小柄な手で乱暴に脂の滴る焼き猪肉を鷲掴みにし、幼女特有の小さな口で、一口、また一口と、無遠慮に貪るように食いちぎっていた。


芳醇な肉汁の旨味が舌の上で弾ける。しかし、その紫丁香色の瞳の奥底は、光の届かない深い淵のように冷徹に凪いでいた。


正直なところ、マリーズはこの学園で燦然と輝く二人の女神が、唐突に自分などに「好意」を寄せてくるなどとは露ほども信じていなかった。


より正確に言うならば――これまで誰もが蔑み、泥のように踏みにじってきたあの気弱で無能な「落ちこぼれ令嬢」を、彼女たちが理由もなく愛するはずなど絶対にないのだ。


目の前にいるフェイは、マリーズの体術に対して自虐に近い狂気的な執着を抱いている。その渇望の裏にどれほどの血と涙が滲んでいるのか、今のマリーズには知る由もない。だが、胸が痛むほどに伝わってくるのだ――


「手に入れなければ死ぬ」とでも言わんばかりの、溺れる者が藁をも掴むような必死の形相が。


そして隣に佇むイリノーに至っては、元のマリーズという少女に対して、これまで情のかけら一つ向けたことすらなかったはずだ。


そんな誇り高き公爵令嬢が、すべての矜持をかなぐり捨てて平然とあの甘ったるい「あなた(奥様)」などという呼び声を口にした。その背後に、息の詰まるような巨大な家柄の暗影や権力闘争の泥沼が存在しないはずがない。


情報が圧倒的に不足している現状において、これは砂糖菓子で覆われた、一歩間違えれば骨までしゃぶり尽くされる死の賭場に他ならなかった。


つまるところ、マリーズは世間における己の「立ち位置」を痛いほど弁えていたのだ。


輝かしい名門の家柄を背負いながら、中身は一顧だにされない無能の廃棄物。それはつまり、群がってくる誰もが自分を「値札のついた商品」か「盤上の駒」として値踏みしているということだ。


背後の伯爵家からどれほどの甘い汁を吸えるのか、その小柄な肉体からどれほどの利益を搾り取れるのか。


これまで誰一人として、本当の「彼女」を見てくれた者などいなかった。彼女が胸の内で何を叫び、何を思っているのかなど、気にかける人間は存在しなかった。


「ふぅ……」


マリーズの唇から、形にならない微かな吐息が零れ落ちた。


その嘆息は薪が爆ぜる音に掻き消されるほど頼りないものだったが、傍らに立つドウバオの頭の上で、ふさふさとした獣耳がピクリと鋭く跳ねた。


その場に居合わせた三人の少女のうち、イリノーは損得と退路を秤にかけ、フェイは復讐と執念の闇に溺れていた。


だが、このおどけた犬系獣人だけが、マリーズの魂の深層に渦巻く、行き場を失った疲弊とやりきれなさを、誰よりも真っ先に感じ取っていたのだ。


前世、あの冷え切ったコンクリートジャングルの中で独り足掻き続け、誰にも看取られずに命を落とした鈴木八重。


そして今世、伯爵家の威光に守られながらも、高潔な学園の壁の陰で怯える小動物のように息を潜めていた小柄なマリーズ。


二人の数奇な運命は、あまりにも残酷なほど似通っていた――周囲が羨望の眼差しを向ける華麗な檻の中で、その本質は誰の視界にも入らない透明人間だったのだから。


マリーズは異形のスパイスが絡み合う猪肉をゆっくりと噛み締めながら、瞳を丸くして自分を見つめるドウバオの姿を、どこか呆然と見つめていた。


滑稽で、けれど胸を締め付けるほどに温かい。


二度の生を生き、前世の三十年を費やし、そしてマリーズとしてこの世界に投げ出されてなお……彼女が人生で初めて手に入れた「本当の意味での友」が、目の前にいる肉と香辛料のことしか頭にない、この愛すべき阿呆犬のドウバオだったのだから。


ドウバオの濡れた黒い鼻先が、クンクンと微かに蠢いた。


その鋭敏な嗅覚の世界において、マリーズが纏う感情の匂いは、先ほどまで複雑に絡み合った糸のように重く苦いものだった。


しかし、この華奢な少女が自分へと視線を向けたその一瞬、あの刺すような苦味はふわりと霧散し、代わりに純粋で無防備な「安心」の甘い香りが満ちてきたのだ。


それを悟った瞬間、ドウバオはまるで世界で一番素晴らしい宝物を授かったかのように、背後のふさふさとした大きな尻尾をブンブンと荒野の風を切る勢いで振り回し始めた。


ドウバオは、あの臆病で、それでも自分の耳を優しく撫でてくれたかつてのマリーズを愛していた。


けれど同時に、冷酷な眼差しで敵を容赦なく叩き伏せる、魔神のように強大なこの「異邦人」のことも、心の底から愛おしく思っていた。


なぜなら、獣人の魂を射抜く直感において、この二人の少女からは寸分違わず同じ匂いが漂っていたからだ――それは、世界の片隅に置き去りにされ、骨の髄まで冷え切った、底知れぬ「孤独」の匂い。


だからこそ……あの瀕死の淵で震えていた哀れな小動物は、命の火が消えゆく最後の刹那、見ず知らずの異郷の魂へとその肉体を差し出し、「どうか代わりに、この過酷な世界を生きてほしい」と願いを託したのかもしれない。


荒涼とした敷地の中で、それぞれに異なる企みを抱えた四人の少女が、一つの焚き火を囲んで猪肉を食んでいた。


マリーズはぼんやりとした意識の中で噛み締めていた。


目の前で脂まみれになりながら笑うこの無邪気なドウバオこそが、この不条理な異世界へと叩き落とされた自分が、辛うじて溺れ死なずにすがりつくことのできた「最初の救いの浮木」だったのだと。


思い返せば、すべては道理の通らない唐突さの連続だった。


もとはただの三十代の男・鈴木八重として唐突に意識を失い、闇の中で見知らぬ小倉鼠のような少女から一方的に命を押し付けられた。


そして目覚めた瞬間、この世界の理も、言葉も、常識すら咀嚼する暇を与えられぬまま、引きずられるようにして演習場へと立たされ、屈強な学長との理不尽な模擬戦に放り込まれたのだ。


世界を越える転生劇はあまりに拙速で、息を継ぐ猶予すら許されなかった。まるで運命という名の理不尽に顔面を引っぱたかれ、いきなり血生臭い闘技場へ突き落とされたようなものだ。


もしも前世の日本で、世間から見れば奇矯でしかなかった異端の技芸を偏執的なまでに修めていなかったなら。


もしも魔力などという概念の枠に囚われない未知の力と武具を操り、致命的な「情報格差」の奇襲を叩き込む術を持っていなかったなら――自分はとっくの昔に、この階級社会という名の底なし沼で無残に骨まで砕かれていたはずだ。


マリーズは手元の油で光る猪肉を見つめ、その眼差しを氷のように研ぎ澄ませていく。


切り札が切り札と呼ばれる所以は、決して白日の下に晒してはならないからだ。


前世で脳裏に刻み込んだ銃器の構造や現代火薬の技術。それはこの世界の住人が生涯目にすることのない未知の凶器だ。


安易に露見させ、結界や魔力防御を極めた帝国の学者たちに対策を講じる時間を与えてしまえば、その絶対的な優位性は水泡に帰す。


同様に、道楽の域を超えて叩き込んだ華夏武術の精華、そして魂に染み付いた神道教の秘儀――それらもまた、自らの腹の底に永遠に沈め、決して他人に悟らせてはならない終極の秘匿事項だった。


この幼い肉体が馴染むにつれ、マリーズは二つの世界の理が交錯する境界の歪みに気づき始めていた。


科学が支配する地球の日本では、陰陽術を真似事のように弄び、鬼神の力を身に宿そうとしたところで、それは自己暗示や気休めの域を出ない。どれほど美麗な呪符を描こうと、鉛の銃弾一発の前には無力だった。


しかし、大気に魔力が満ち、奇跡が日常として呼吸するこの異界にあっては、世界の境界線が極限まで希薄化している――彼女は自らの霊魂の裡に、神道教が説く「一霊四魂」が明確な質量を伴って脈打っているのを、確かに知覚していたのだ。


それは彼女が、この世界で魔力ならざる「マナ」を自在に統御できる根本の根源でもあった。


――闘志と破壊を司る【荒魂あらみたま】。

――調和と平穏を紡ぐ【和魂にぎみたま】。

――愛と恵みをもたらす【幸魂さきみたま】。

――そして、真理と奇跡を洞察する【奇魂くしみたま】。


それらはもはや古書の黄ばんだ頁に記された抽象的な概念ではなく、生きた奔流となって彼女の魂の深奥を巡っていた。


ゆえに、未だ一度たりともその封印を完全に解き放ったことがないにもかかわらず、マリーズの直感は確信していたのだ――ひとたびその楔を叩き折れば、自分は妖刀を提げた「鬼武者」へと完全に変貌できるのだと。


それは前世、東京の道場で瞑想に沈んでいた折、精神の深淵から幾度となく這り上がってきた、身の毛もよだつ恐怖の幻影だった。


漆黒の重厚な大鎧を纏い、威厳に満ちた佇まいで闇に立つ影。その甲冑は戦国の大将の気品を湛えながら、歴史上のいかなる武家の記録にも存在しない不吉な家紋が刻まれていた。そして威厳ある兜の奥、面頬の下に隠された羅剎の如き鬼面――。


その眼窩の虚無の奥底から、二条の氷のように冷たく濁った紅蓮の凶光が放たれていた。


それはイリノーが浮かべる高貴で妖艶な、打算と情欲の滲む紅い瞳とは決定的に異なるものだった。


そこには生命の熱など一欠片もなく、夾雑物のない、純粋なる「滅亡の意志」だけが凝固した非人の眼差し。一瞥されただけで、常人ならば骨髄の芯まで凍結させられるような絶対の死の気配。


思い返せば前世のある時期、鈴木八重は毎夜のようにその鬼武者に追い詰められる悪夢に飛び起きていたものだった。


そして冷汗に塗れたある深夜、極限の恐怖とプレッシャーに精神を摩耗させた彼女は、誰もいない暗闇の部屋でついに感情を爆発させ、虚空に向かって狂ったように怒鳴り散らしたのだ。


なぜ自分を呪いのように追い回すのか、なぜ執拗に影の如く付き纏うのか、と。


だが、漆黒の帳に沈むその凶鬼は、面頬の奥から、憐憫すら滲ませた低く掠れた声音で、静かにこう告げたのだ。


――『我は汝を追うたことなど、一度たりともない。』

――『我こそが、汝自身の魂そのものなのだから。』


当時の八重は、激務による自律神経の失調が見せた脳のバグだと自分に言い聞かせていた。


だが、異世界転生という天地の理を嘲笑う奇跡が現実となった今。脂っこい猪肉を咀嚼しながら、夜風の中に蠢く魂の疼きを感じ取ったマリーズは、自嘲するように口元を微かに歪めた。


魂が肉体を乗り越えて異界へ渡る荒唐無稽が罷り通るのなら……


己の霊魂の檻の中に一尊の飢えた羅刹が眠っていたところで、今更取り乱す理由など、何一つありはしないのだ。


「あ……あ……あの……あ、あなた(奥様)……お水、飲まれます……?」


夜風の中で何度も舌がもつれ、羞恥に窒息しそうになりながら、フェイはようやくその忌まわしい呼び名を喉の奥から絞り出した。


消え入りそうな震える声音は、少女特有の蜜のような甘さと耐え難い屈辱を孕んで、マリーズの小さな耳朶をくすぐった。その響きに、マリーズの胸の奥がチリチリと甘痒く疼く。


動揺しなかったと言えば、それは完全な嘘になる。


幼い殻を被ってはいても、中身は鋼と硝子の都会で三十年間独り身のまま生き抜いてきた成熟した男の魂なのだ。目の前にいるのは、地球上のどんな銀幕のスターすら霞むほどに完璧な美貌を誇る絶世の少女。


霜白の長い髪は火の粉を浴びて淡雪のように輝き、アクアマリンの双眸は恥じらいの涙を湛えて潤み、耳の付け根まで朱に染めながら、そのしなやかな肢体をぴったりと擦り寄せてきているのだ。


傾国の美姫に顔を間近にして「あなた」と懇願される。たとえ性別のベクトルが滑稽なまでに狂っていようと、男としての本能的な虚栄心が、その瞬間、甘美な快楽となって疼かないはずがなかった。


だが――その浅ましい高揚感は、芽吹いた瞬間に分厚い氷水を浴びせられたように冷酷に鎮火した。


マリーズの冷ややかな視線は、フェイが白く強張るまで握りしめた指先を捉えていた。その澄んだ瞳の奥底に横たわっているのは、追い詰められた獣の恐怖と屈辱だけであり、情愛の欠片など微塵も存在しなかった。


これは恋などではない。生き延びるための、魂の土下座だ。


この誇り高き平民の天才は、強さを渇望するあまりに自らを売り払おうとしている。どれほど過酷な過去を背負い、どれほど血を流してきたとしても、今差し出されているこの追従と偽りの温もりは、所詮は生存のための冷たい取引のチップに過ぎない。


何よりマリーズは肌で感じ取っていた。この異世界における女の貞潔に対する掟の重さは、前世の奔放な現代社会など足元にも及ばないほどに重く、窒息するような封建の桎梏であることを。


あの模擬戦の最中、口から出まかせに放った軽薄な戯れ言が、今や呪いの枷となってこの白百合の誇りを折り、一度きりの尊厳をギャンブルの卓上に引きずり下ろしてしまったのだ。


(……本当に、業が深いな。)


マリーズは唇の端を苦い笑みで歪めた。口いっぱいに広がる香辛料の風味すら、その胸の苦さを洗い流すことはできない。


結局のところ、自分が抱いた一瞬のときめきも、すべては滑稽極まりない独り善がりに過ぎなかったのだ。


各々の思惑と打算を腹に隠した二人の絶世の美女に挟まれ、下劣な甘言で持ち上げられる――世の男が夢見るハーレムの実態とは、これほどまでに吐き気を催す茶番劇だったのか。


もしも未来のいつか、この幼い肉体が流されるままに彼女たちのどちらかと婚姻を結んだとして、その先に何が待っているというのだ?


力と庇護のために頭を垂れた者は、より強大な力や、胸に秘めた本物の執念の対象が現れた瞬間、躊躇なく背を向けて去っていくだろう。その先にある結末など、目も当てられないほどの裏切りの烙印だけだ。


そもそも彼女たちの瞳には、最初から「マリーズ」という人格も、「鈴木八重」という魂も映ってなどいない。


彼女たちが見ているのは、都合の良い無敵の盾であり、命を繋ぐ劇薬であり、絶壁を這い上がるための強固な命綱に過ぎないのだから。


そんな薄氷を踏むような賭けに乗る気など、毛頭なかった。


マリーズは長く密集した睫毛を伏せ、紫丁香色の光を灰色の前髪の奥へと隠した。


この期に及んで、彼女は自らの本性を情けないほど残酷に見せつけられていた――前世でどれほど世慣れた社畜を気取っていようと、その実、自分は誰よりも臆病で、誰よりも偏執的な「純愛の潔癖症」だったのだ。


無数の美女を侍らせるような爛れた夢など求めたこともない。ただ一人と、嘘偽りのない誠実さで添い遂げること――それだけを心のどこかで信じたがっていた。


けれど、己の器の小ささなど自分が一番知っている。


前世の狭いオフィスで深夜に誰にも看取られず息絶えた鈴木八重であれ、今世で貴族の姓をぶら下げながら無能と蔑まれてきたこの小柄なマリーズであれ、彼女は誰かの世界を照らす太陽になど、逆立ちしたってなれはしないのだ。


他者を狂酔させ、盲従させるほどの圧倒的な魅力など持ち合わせていないし、打算のない純粋な愛を受ける資格などない。


目の前の温もりはあまりに甘美で、そしてあまりに空虚だった。それは蜜を塗られたギロチンの刃であり、毒汁を吸った救命索に過ぎない。


「……水なら結構ですよ」


マリーズは静かに顔を背け、肩にかかっていたイリノーの贅沢なショールを、ほんのわずかに手で払うようにして隙間を作った。


その声音は、雪山の奥底から汲み上げたばかりの水のように平坦で、喜怒哀楽の波を一切感じさせなかった。


「少し脂が強かっただけですから。……一人で風に当たっています」


マリーズは振り返らなかった。フェイの顔色が一瞬にして血の気を失い蒼白になったことも、イリノーの紅い瞳が一瞬で冷徹な鋭さを取り戻したことも、視界に収めようとはしなかった。


望むものを与える気がないのなら、そして自らの心臓を量り売りに差し出す気がないのなら――この下らぬ茶番は、泥の中で早々に踏み躙っておくのが互いのためだった。


少し離れた場所で、ドウバオはその空気を敏感に感じ取っていた。


彼女には分かっていた。この異郷からやってきた大きな背中の主もまた、元のマリーズと同じように、途方もなく過酷で痛ましい人生を歩んできたのだと。


そうでなければ、これほどまでに魂の匂いが似通うはずがない。


「はいはーい! 今日の宴会はお開きだよ! 二人とも先に帰って休んでて! ここはアタシが一人で片付けちゃうからさ!」


張り詰めた沈黙を切り裂くように、ドウバオの底抜けに明るい声が空き地に響き渡った。


その声には計算も、打算も、嘘偽りも一切混ざっていなかった。初夏の大地を駆け抜ける乾いた風のようにカラリとして、力強く、温かい。


石台の周りに澱のように溜まっていたあの息苦しい策略の瘴気を一瞬で吹き飛ばし、張り詰めすぎて今にも千切れそうだったマリーズの神経を、ふわりと地面へと着地させてくれた。


二人は言葉を交わさずとも、互いの心の揺らぎを痛いほど理解し合っていた。


獣人の娘であるドウバオにとって、貴族令嬢の政治的思惑も、平民の天才が抱える復讐の炎も、人間たちの複雑怪奇な利害など、吹き抜ける埃ほどに意味のないものだ。


彼女はその天性の無邪気さゆえに、人間たちの腹の探り合いなど一生理解できないだろう。けれど、理解できなくとも構わない――彼女はただ、全身全霊で寄り添い、受け止めることを選んだのだ。


そしてマリーズもまた理解していた。


この能天気に見える大きな犬が、どれほど深淵のような企みを読み解けなかろうと、自分なりの不器用で真っ直ぐなやり方で、ずっと傍らに立ち続けてくれているのだと。


見返りを求めず、何かを奪おうともせず。ただ「ここにいる」という事実だけを差し出す。


魂に値札をつけて売り買いするこの世界において、これほどまでに無償で純粋な好意が、どれほど奇跡に近く、どれほど得難い至宝であることか。


マリーズは骨の残骸を手際よくまとめながら、背後でふさふさと揺れるドウバオの尻尾を見つめ、胸の奥底に熱い痛みが込み上げてくるのを覚えていた。


ドウバオは、本当に良い娘だ。彼女の世界は鏡のように曇りがなく、好きなら飛びつき、嫌いなら牙を剥く。誰も欺かず、誰も貶めない。


けれど同時に、野獣ならではの研ぎ澄まされた直感で空気を読み、決して踏み込んではならない痛みに気づけば、何も聞かずにそっと傘を差し出してくれる。


固く強張っていたマリーズの小さな両肩から、ようやくすとんと力が抜けた。


彼女は小さく顔を上げ、ドウバオの濁りのない金褐色の瞳を見つめると、薄い唇を静かに綻ばせた。


「……ありがとう、ドウバオ。あなたは本当に……優しい良い子ね」


それはイリノーやフェイをあしらうための、あの仮面のような貴族の微笑みではなかった。大人が利益を前にして浮かべる薄ら笑いでもない。


かつて冷え切った地球の片隅で、たった独り足掻き続け、擦り切れ、三十年を生き抜いてなお、異界に投げ出されて「残業」を強いられている疲れ果てた男の魂が――ようやく見つけ出した安息の波止場で、ひび割れた心の奥底から零れ落とした、最も無防備で、最も儚い、本物の笑顔だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。