涙を流すのにも、あまりに大きな勇気がいる
青銅の燭台に灯された魔力の火が、夜の帳の中で頼りなげに揺らいでいた。
冷たい青みを帯びた光が薄暗い二人部屋の隅々を満たし、無骨な石壁の上に、幾重にも重なる影を長く引き伸ばしている。
ベッドの上に仰向けになったマリーズの枕元には、湿り気を帯びた灰白色の髪が、乱れるままに広がっていた。
タオルで拭き取ることすら億劫で、ただ、頭皮にじわりと沁み込んでくる冷たさに身を任せる。そうしていれば、胸の奥で渦巻くまとまりのない思考が、少しは冷えて静まってくれるような気がしたからだ。
眠気など、欠片も訪れそうになかった。
今のマリーズにとって、自らの身に起きているすべては、あまりに現実味のない夢想の延長線上にあった。
体内に確かに巡り、この世界の魔力とも渡り合える「マナ」の脈動。その熱を肌で感じていながらも、意識のどこかには拭い去れない空虚な乖離感がへばりついている。
――もしも、このまま目を閉じて眠りに落ちてしまえば。明日の朝、耳障りなアラームの音とともに目を覚ました時、目の前に広がっているのは相変わらず日本の、あの狭苦しくて湿っぽいワンルームなのではないか。
これまでの出来事すべては、過労死の瀬戸際に追い詰められた脳が、最後の慰めに幻視した胡蝶の夢に過ぎないのではないか。そんな思いが、どうしても頭を離れなかった。
前世、鈴木八重として過ごした三十年の年月。
彼女はどこか現実から逃げ去るようにして、あらゆる流派の格闘技や雑学を、独り静かに貪り続けてきた。
けれど、法と秩序に守られた現代のオフィスで、折りたたみナイフを握り締めた暴漢を前にした瞬間、血の滲むような鍛錬を重ねてきたはずの技は、あまりに滑稽で、あまりに無力だった。
結果として、為す術もなく切り刻まれ、こうして見知らぬ異世界へと放り出される羽目になったのだ。
人はいつだって、二つの致命的な思い違いをしてしまう。
己の拳の力を過信し、そして刃物を手にした人間の危うさを、あまりにも侮るのだ。
容赦のない自然界の掟において、錆びた短刀一本を手にした痩せっぽちの人間であっても、己の数倍もの体躯を誇る森の猛獣を恐怖させ、退かせるだけの絶対的な脅威となり得る。その事実を骨の髄まで弁えている者は、驚くほど少ない。
手当ての術を持たない荒野において、骨に達するほどの裂傷は、そのまま化膿と死に直結する。野獣の本能は、その恐怖を遺伝子レベルで知っているのだ。
道具とは、肉体の延長線上に生まれた最も残酷な牙だ。八重の前世の呆気ない幕切れこそが、その冷酷な鉄則を何より雄弁に物語る、痛烈な皮肉に他ならなかった。
マリーズは自らの手をそっと持ち上げ、ハンドクリームで手入れされた、白く滑らかな手の甲をぼんやりと見つめた。
あの無力だった鈴木八重には、もう二度と戻りたくない。
人の目を奪うような美しさもなく、誰の記憶にも留まらず、行き交う人々の波の片隅で三十年間、独り息を潜めるように生きていた、あの透明人間のような自分には。
もっとも、この肉体の本来の持ち主――あの臆病で、まるで小さなハムスターのように怯えてばかりいたリリもまた、この世界の冷たさと身分の理不尽に心を削られ、絶望の果てに命を手放してしまったのだけれど。
それでも、遺されたこの器はあまりに愛らしく、繊細で、前世のオタク男が胸の奥で憧れ続けていた純粋な美そのものだった。
その上、魂の深奥に宿る「一霊四魂」とマナの巡り、さらには頬袋から知覚した品々を魔力で取り出せるという、理を外れた異能まで備わっている。
この世界で生きていくのなら、かつて夢見たどんな日々よりも穏やかで、満ち足りた暮らしを手にすることだって難しくないはずだった。
スキンケアの概念すら浸透していないこの世界なら、地球の知識をほんの少し持ち出すだけで、莫大な富を築くことだって容易い。
……けれど、自分のような迷い人が、この罪なき少女の身体をいつまでも我が物顔で乗っ取ったままでいて良いのだろうか。たとえ、彼女の方から身代わりを乞うようにして、自らをこの地に引きずり込んだのだとしても。
胸の奥を締め付ける名状しがたい疚しさに、マリーズは静かに寝返りを打った。細い腕を額の上に預け、焦点の定まらない瞳で、冷たい石天井の染みをじっと見上げる。
愛とは何なのか、彼女には分からなかった。
前世の三十年、誰かから真っ直ぐに愛され、選ばれるような温もりを、一度として知らずに生きてきたのだから。
覚えているのは、若気の至りで不器用に想いを寄せ、冷淡に撥ねつけられ、ただの都合のいい便利屋として利用された末に、何の未練もなく切り捨てられた、あの骨身に沁みる惨めさだけだ。
天秤に載せられ、損得勘定の数字として品定めされる屈辱。
そして今宵、焚き火の傍らで微笑んでいたフェイとイリノーの瞳の奥にも、かつて知ったあの息苦しい打算が、確かに揺らめいていた。
類まれなる才を誇る精霊術師であれ、怜悧な公爵令嬢であれ。彼女たちが差し出してきた温かな水や豪奢なショールの裏側には、己の利害を秤にかけた冷徹な計算と渇望が張り付いている。
それに引き換え、何の裏表もなく、魂の芯まで無邪気なあの愛らしいアホ犬のドウバオだけが――その動物的な本能のままに差し出してくれる純真な情愛だけが、この冷たい世界で唯一、マリーズの傷口に沁み渡る優しい鎮痛剤だった。
揺れる思いのなか、マリーズは腕を下ろし、首を傾げて隣の寝台へと視線を向けた。
狭い通路を挟んだ向かいのベッドで、ドウバオは眠っていなかった。濁りのない金褐色の瞳が、淡い燭光に照らされながら、瞬きも忘れたようにじっとこちらを見つめている。
「……私の顔に、何か付いているかしら?」
あまりに真っ直ぐな眼差しを向けられ、どこか気恥ずかしくなったマリーズは、指先で己の頬をそっと撫でた。先ほど顔を洗った際、水滴でも拭き残してしまったのだろうかと気にしながら。
「お兄ちゃん、すっごく苦しそうだったから。」
枕に顎を埋めたまま、ドウバオはぽつりと呟いた。その声には何の飾り気もなく、ただ澄み切っていた。
「昔のリリと、おんなじ顔してた。」
その言葉は、何の前触れもなくマリーズの心の最も柔らかい場所を深く刺し貫き、胸の奥底から言いようのない切なさが込み上げた。
ドウバオに心の内を見透かされたことが嫌だったわけではない。締め付けられるように胸を痛めたのは、「リリ」というその名だった。
鈴木八重としての意識ならば、三十年の孤独など疾の昔に飼い慣らしていた。誰にも期待せず、暗がりの中で独り息を潜める生き方など、とうに諦めとともに受け入れていたはずだった。
けれど――まだ二十歳になったばかりの、本来なら陽だまりの中で無邪気に笑っていたはずのあの小さな少女が、自分と同じような絶望と息苦しさを抱えていたのだと思うと、胸が千切れるほどに痛むのだ。
人とは、本当に不可解で矛盾に満ちた生き物だ。
自分自身の身に降りかかる理不尽なら、歯を食いしばって呑み下すことができる。それなのに、大切にしたい誰かが同じ痛みに苦しんでいたと知った途端、その平静はいとも容易く崩れ去ってしまうのだから。
「……ただね。」
マリーズは天井を見つめたまま、今にも夜風に解けてしまいそうな柔らかな声で、小さく息を零した。
「純粋な想いっていうのは、本当に奇跡のようなものだなって思って。あなたがリリに、そして私に向けてくれるような……見返りなんて何一つ求めない真っ直ぐな温もりなんて、私、生まれてから一度も触れたことがなかったから。」
その呟きが落ちた瞬間、向かいのベッドから、シーツのこすれる微かな音が立った。
ドウバオは静かに起き上がると、自分の大きな枕をぎゅっと両腕で抱え込み、冷たい石床を素足でペタペタと踏みしめながら、迷うことなくマリーズのベッドへと歩み寄ってきた。
そしてマリーズが瞬きをする間に、このしなやかな獣人の少女は、当然のように掛け布団の端をめくると、狭いシングルベッドの中へと体を滑り込ませてきたのだ。
「あ、あの……ドウバオ……? そ、そんなにくっついたら……っ」
圧倒的な熱量が、一瞬にしてマリーズの華奢な身体を包み込んだ。
獣人の平熱は、生まれつき人間よりも少しだけ高い。旅の疲れと、微かに残る獣特有の温かな匂いを纏って密着され、他人との距離感に慣れていなかったマリーズは思わず息を呑み、戸惑いながら壁際へと小さく身を引いた。
けれど、ドウバオは離れようとしなかった。
枕の端にちょこんと顎を乗せ、普段から少し垂れ気味の耳をぺたりと伏せて、金褐色の瞳を隠しようのない切なさと愛おしさで潤ませている。
「お兄ちゃん……昔は、お友達が一人もいなかったの?」
子供のように無垢で、真っ直ぐな問いかけ。だからこそ、マリーズが幾重にも張り巡らせていた心の防壁を、何のためらいもなくすり抜けて胸を打つ。
「……ええ、いなかったわよ。」
マリーズは自嘲気味に口元を綻ばせ、諦めたように力を抜くと、寄り添ってくる温もりをそのまま受け入れた。
「私は昔、とても賑やかな場所にいたの。『インターネット』っていうものがあってね。どれほど遠く離れていても、指先一つで言葉も声も、一瞬で誰にでも届いてしまうような世界だったわ。」
彼女は静かに目を細めた。その眼差しは、遠い記憶の彼方を彷徨っている。
「誰もがいつでも繋がれるはずの世界で……私は毎日、何百人もの取引先と言葉を交わして、愛想笑いを浮かべて、書類の確認をしていた。だけど死ぬその日まで……私の本当の心を聴いてくれる人なんて、誰一人としていなかった。」
情報が氾濫する世界に浮かぶ、名もなき孤島。
鈴木八重という魂は、幼い頃から誰の記憶にも深く刻まれることのなかった、透明な存在だった。静けさの中で孤独と馴染み、風景の染みのように目立たず生きることばかりを選んできた。
冷徹に回り続けるあの社会の中で、自分のような存在は決して珍しいものではなく、誰に知られることもなく淘汰されていく命がたくさんあることを、よく知っていた。
けれど、誰からも顧みられない日々に慣れきっていたからといって、誰かに大切にされたいと願う心を、完全に殺し切ることなんてできなかったのだ。
狭い寝台の上で、微かに湿った髪と、柔らかく温かな獣の毛並みが触れ合う。
ドウバオは布団の中でそっと手を伸ばし、タコの残るその武骨な手のひらで、マリーズの冷え切った手の甲を、包み込むようにそっと重ねた。
「アタシは、リリのお友達だよ。……そして、お兄ちゃんのお友達でもあるんだよ。」
布団の温もりの中で、ドウバオの瞳は揺るぎない光を宿していた。
獣人の真っ直ぐな直感は、どんな魔導具よりも澄んでいる。彼女には肌で分かっていたのだ。この遥かなる異郷からやってきた優しいお兄ちゃんが、どれほど苦く孤独に満ちた過去を歩んできたのかを。
そして彼女は知っていた。普段は静かに微笑んでいるこの魂が、その胸の奥深くに、ずっと大切にリリの面影を抱きしめていることを。
そうでなければ、争いを嫌い、ただ息を潜めて生き延びることだけを望んでいた異郷の人が、どうして危険を顧みず、あんなにも激しく凛々しい姿を見せられたというのだろう。
あれは強さを誇示するためなどではなかった。かつて同じように泥の中で踏みにじられていた魂が、己の誇りをかけて、最後まで立ち上がることの叶わなかったあの気弱な少女のために、命がけで抗ってみせた証だったのだ。
その不器用で、けれど胸を打つ温もりを、ドウバオは誰よりも分かっていた。かつてリリが生きていた頃、この純真なわんこもまた、同じように牙を剥き出しにして、幾度となくリリを守ろうと前に立ち塞がっていたのだから。
「……私が、あなたの大切なリリと、魂の匂いが似ているから……そう言ってくれるのかしら?」
マリーズの声が、微かに震えていた。
前世の三十年、ずっと胸の底に押し込めていた涙が溢れそうになったのか、それとも、この小さな身体が優しさに触れて揺らいでいるからなのか。
熱く鋭い塊が猛烈な勢いで目頭へと突き上げ、氷のように閉ざしていたはずの瞳の奥を柔らかく滲ませていく。
鈴木八重だった頃の自分は、痛みに声を漏らすことすらないように、心を冷たい頑石へと鍛え上げていたはずだった。
それなのに今、この小さな身体の中で、あの学園の冷たい視線からリリを守るためなら、誰よりも残虐で凶暴な修羅の姿を晒してもいいと願っている――。
何年間も蔑まれ、小さな隅っこで笑い者にされてきたあの愛らしいリリの無念を、力ずくで晴らしてあげたいと叫んでいるのだ。
自分自身が傷つき、粉々に砕かれた経験があるからこそ。同じように暗闇の深淵で震えていた魂を見つめたとき、その痛烈な共鳴が、魂を狂わんばかりに焼き焦がしてしまう。
「うん。最初はね、本当にお兄ちゃんの匂いがリリにそっくりだったからだよ。……でもね、今はもう、アタシはお兄ちゃんのことが大好きなの。」
ドウバオは言葉を止め、薄暗がりの中でその澄んだ瞳を瞬かせた。そして、ふと思い出したかのように、ぽつりと小さな声で尋ねた。
「お兄ちゃんは……ドウバオのこと、嫌いになったりしない?」
その思いがけない問いかけに、マリーズは小さく目を見張り、この純朴な少女の愛らしさに言葉を失った。けれどドウバオは、答えを待つまでもなく知っていた。
マリーズの手から伝わってくる温もりと愛おしさが、何より確かな答えだったから。
「ここの人たちってね、みんな獣人のことが大嫌いなんだよ。」
ドウバオは枕に顔を埋め、まるで遠い出来事を話すように、平坦な声で言った。
「獣人は頭が悪くて、身体から消えない獣臭がするって陰口を叩くの。貴族様たちはいつもわざと意地悪なことを言って、アタシたちを怒らせようとするんだ。それでね、アタシたちが我慢できなくなって拳を振り上げると、高いところから指を差して笑うの。『ほら見ろ、獣人なんて所詮は野蛮で獰猛な獣じゃないか』って。」
静まり返った部屋に落ちるその淡々とした言葉に、マリーズの胸はぎゅっと締め付けられた。
どこに行っても、変わらない理不尽。
地球というあの文明の世界でも、自由や平等を声高に叫ぶ数多の場所で、このような陰湿な排除と、見下すような傲慢と、理不尽に追い詰めてから道徳の優位に立とうとする汚泥のような手口を……彼女は前世の三十年で、嫌というほど見せつけられてきたのだから。
「だからね、ドウバオには分かるんだよ。お兄ちゃんの世界にも、きっとこういう悲しいことがたくさんあったんだろうなって。」
ドウバオはふっと顔を上げると、マリーズへ向けて、太陽のような満面の笑顔を咲かせた。
その笑みは、人間の貴族令嬢が見せる控えめで計算された微笑みとはまるで違っていた。
口を大きく横へと開き、鋭く可愛らしい八重歯を覗かせた、無防備で、あまりに燦然とした笑み。
まるでこの少女が、冷遇と唾棄の泥沼の中を泥だらけになって生き延びてきたのではなく、溢れんばかりの愛と祝福に満ちた揺り籠の中で育てられてきたかのような、まばゆい笑顔だった。
「でも、ドウバオは知ってるよ。……お兄ちゃんは、そんな辛い世界で生きてきたのに、リリのために怒って、リリを守ろうとしてくれる……すっごく優しいお兄ちゃんに育ったんだもん。」
胸の奥に張り巡らされていた最後の冷たい殻が、渾身の一撃によって完全に粉砕された。
マリーズはもう、大人のふりを続けることができなかった。
細く震える両腕を伸ばし、前のめりになって、差別や悪意の中でも真っ直ぐに咲く野の花のように純白な魂を失わずにいたその獣人の少女を、腕の中に力任せにぎゅっと抱きしめた。
腕を回す。薄い寝間着越しに、ドウバオの滾るような熱い体温が胸板へと直接染み渡っていく。
現代社会の社畜として独り言ちていた己の浅ましい孤独など……目の前で尊厳を奪われ、下等生物と罵られ続けてきたこの獣人の少女や、学園の冷淡な視線の中で無能の烙印を押され、誰にも知られずに溺れ死んでいったあの小さなハムスターのようなリリが背負ってきた苦痛と絶望に比べれば、あまりに軽薄でちっぽけなものではなかったか。
「……ごめんなさいね……っ」
灼熱の雫が音もなく溢れ出し、ドウバオの肩口の柔らかな毛を濡らした。
それはマリーズの肺腑の底から絞り出された、嗚咽寸前の掠れた祈りだった。
胸の内に渦巻く酸鼻と自責を、どう言葉に紡げばいいのか分からなかった。彼女はただ、己の無力さを呪っていた。
異界の記憶と未知の武術をその身に宿していながら、時間を巻き戻してあの哀れな少女を救うこともできず、ドウバオの首に巻きつけられたこの世界の残酷な鎖を一撃で断ち切ることも叶わない、己の矮小さに打ちのめされていた。
その無力感の鋭い痛みは、息をすることすら忘れさせるほどに重い。
けれど、この冷たく見知らぬ二人部屋の中で、同じように魂に亀裂を抱えた二つの命は、互いの体温を分け合うことで、ようやくこの過酷な異界における唯一の波止場を見つけ出していた。
世の大半の成人男性にとって、涙を流すということは、それだけで生涯の勇気を使い果たすほどに困難な行為だ。
あの地球という冷酷な檻の中で、大人の男は生まれながらにして「泣く」という権利を奪い去られている。
涙を流すことは弱さの象徴であり、無能の証であり、過酷な生活への敗北宣言に他ならない。
胸の内が重圧によって灰になるまで擦り切れようと、真夜中の激痛に魂が裂けそうになろうと、彼らは無人の車内や鍵をかけたトイレの個室に身を隠し、光を恐れる罪人のように、溢れ出るすべての嗚咽を胃の底へと無理やりに呑み下すことしか許されないのだ。
けれど今、この小さな少女の肉体の内側で、彼女はもはや、歯を食いしばって理不尽を背負い続けるべき「鈴木八重」である必要はなかった。
三十年間、魂の奥底で死守し続けてきた強固な防潮堤が、ドウバオの無防備で純真な抱擁の熱によって、今、音を立てて完全に崩壊した。
ドウバオはマリーズの腕の中に身を預けたまま、静かに抱きしめ返していた。
彼女にははっきりと伝わっていたのだ。己の胸に押し付けられたその華奢な身体が、激しく、痛ましいまでに震えているのを。
それは肉体的な寒さなどではなく、三十年分の行き場を失った孤独の残滓が、異郷の魂を内側から引き裂かんと暴れ狂っている証だった。
数多の裏切りと冷酷な損得勘定を見届けてきたからこそ、八重はこの世界の美しさを信じることを頑なに拒絶してきた。
打算のない純愛など望むべくもなく、本心を他人に預けることすら恐れていた。だからこそ、軽薄な道化の仮面を被り、人を食ったような軽口と皮肉で周囲をあしらい続けることで、傷つきやすく脆い本性をその奥へと厳重に封印していたのだ。
それは深手を負った野獣が、折れかけた牙を剥き出しにして、自らの最後の急所を必死に守ろうとする哀れな足掻きに他ならなかった。
だが今、獣人の少女の温かな首筋に顔を埋めたマリーズは、もう無敵の大人を演じる必要などどこにもなかった。
熱い涙の奔流が堰を切って溢れ出し、大粒の雫となって粗末なシーツの上へと叩きつけられていく。
世界の理を超え、異国へと流離ってきた疲れ果てた魂は――あまりに長い、途方もない年月を経て、ようやく心から傷ついた子供のように、何一つ繕うことなく声を上げて泣きじゃくっていた。




