奥義とは、不意を突くためにありますのよ
演習場を満たす大気は、瞬く間に目に見えぬ真空へと呑み込まれるように吸い尽くされた。
フリードは、マリーズが承諾の言葉を口にする猶予も、拒絶の隙すらも端から与えるつもりなどなかった。
宣戦布告の重苦しい言葉を吐き出した、まさにその瞬間――足下に敷き詰められた黒曜石の敷石が蜘蛛の巣状に砕け散り、宙へと跳ね上がった。
全身から噴き上がる、濃密で実体化せんばかりの蒼い闘気。それは幾千年の眠りから覚めた死火山が地底のマグマを一息に解き放ったかのような暴虐の勢いで、演習場全体を切り刻む極寒の暴風となって吹き荒れた。
山岳が天から落ちてきたかのような、重苦しい血腥い殺気。
それを受け止めたマリーズの、先ほどまで退屈そうに揺れていた薄紫の瞳が、初めて剃刀のように鋭く細められた。
温室で促成栽培され、形ばかりの決闘ごっこに興じる有象無象の生徒たちとは魂の鍛えが違う。眼前に仁王立つこの男は、屍の山を築き、血の海を掻き分けて這い上がってきた本物の殺戮兵器だ。
何より、この演習場の上空には、帝国最高峰の大賢者と大精霊が構築した「絶対救命結界」が常時展開されている。
首を両断されようが心臓を貫かれようが、肉体が限界を迎えた瞬間に光の繭が包み込み、時間を巻き戻すかのように僅か数秒で傷一つない生者として蘇生される。
その絶対の安全弁を知り尽くしているからこそ、フリードの双眸の奥底には「手加減」という選択肢が微塵も存在しなかった。
手心を加える余地など皆無。最短時間で相手を昏倒させ、物理的にその体をへし折る極限の暴力。
この灰髪の令嬢を反撃の隙すら与えずに仮死状態へ叩き落とし、勝者としての既成事実をもって、この狂乱の決闘に強引な幕を引く。
フリードは、先ほどマリーズが見せた常軌を逸した戦技をその目に焼き付けていた。
火を噴く異形の短砲、物理法則をあざ笑うかのように甲冑を砕く体術――あれは到底、帝国で教導される正統派の魔法でも騎士の剣技でもない。
禁断の古文書に封じられていた失われた魔道か、あるいは疎外された幾百の孤独な闇夜の中、少女が己の鮮血と絶望の果てに組み上げた、非人の殺人術であるに違いなかった。
だが、その背景など今や一片の価値もない。今日ここで彼女を屈服させ、イリノー様の手を強引にでも取らせることができなければ――明日の朝にはあの巨大な大ナタを担いだ狂乱の伯爵が公爵邸の門を粉砕し、一族の血統を帝国の歴史から消し去ってしまうのだ。
これは、一門の存亡を懸けた捨て身の死闘であった。
――轟ッ!
凄まじい炸裂音とともに、フリードの巨躯は肉眼では捉えきれぬ蒼い閃光へと変わった。手挟んだ精霊長剣は大気を圧縮し、鼓膜を破かんばかりの衝撃波を周囲へ撒き散らす。
天空を裂いて落ちる雷の如き必滅の刃が、純粋なる神速をもってマリーズの無防備な顔面へと一直線に振り下ろされた。
「ちっ……奇襲ですの? 公爵家直属の筆頭騎士ともあろう御方が、剣を交える最低限の礼節すら飼い犬に食わせてしまわれたのかしら?」
マリーズの胸中に、氷点下の冷徹な苛立ちが湧き上がった。
前世で裏社会の利権争いに揉まれながら生き抜いてきた彼女が最も反吐が出るほど嫌悪していたのは、この手の「表向きは大義を飾り立て、裏では筋も通さずに押し売りを仕掛けてくる」手合いの厚顔無恥さであった。
交錯まで、一瞬にも満たない。口の中で重厚な現代の黒鉄の銃を再構築する時間すら存在しない。
灰髪の少女の、桜色の唇が涼やかに開かれた。
――キィィィン!
鼓膜を突き刺す、澄み切った金属の共鳴音。優美な十字鍔を備え、刀身に初雪のような銀白の冷気を纏った鋼の騎士剣が、濃密な純白のマナを火花のように散らしながら、吐息のような流麗さで少女の口から撃ち出された。
柄が唇を滑り出たその刹那、白く華奢な掌が寸分の狂いもなく虚空でその柄を逆手に掴み取った。
次の瞬間――。
――ガキィィィィィンッ!
鋼と鋼が、皮膚から僅か数ミリの距離で激しい火花を撒き散らしながら噛み合った。
耳を塞ぎたくなるような鉄鳴りが白い衝撃波となって全方位へ弾け飛び、足下に転がっていた甲冑の破片を散弾銃のような勢いで周囲の石壁へ叩きつける。
眼前に激しく散る火花の嵐。それは感情を削ぎ落としたマリーズの深い紫の瞳と、驚愕に血走ったフリードの見開かれた目を残酷に照らし出した。
(この女……長剣一本で、私の渾身の斬撃を真っ向から受け止めたというのか?!)
フリードの両腕に青筋が浮かび上がり、内心で絶叫した。だが、死闘の最中に息を整える隙などあるはずもない。
光は滝となり、刃は逃げ場のない網を編み上げる。
受け流し、横薙ぎ、軌道変化、斬り上げ、そして踏み込みの刺突。
演習場の中央は瞬く間に、剣風と激突する火花が視界を塞ぐ修羅の暴風圏へと変貌した。
フリードは数多の戦場で磨き抜いた達人の剣技を余すところなく解放し、精霊長剣が描く蒼い軌跡で少女の肉体を寸断せんと間合いを塗り潰していく。
対する人形のように可憐な灰髪の少女は、片手で長剣の切先を微かに揺らし、ドレスの裾をふわりと翻しながら、紙一重の神速をもって致命の刃をことごとく弾き、衝撃を地面へと逃がしていた。
だが――太刀筋が重なるにつれ、フリードの背筋を冷たい汗がとめどなく濡らし始めた。
おかしい。あまりにも狂っている。
目の前で涼しい顔をして剣を捌くこの少女は、どう見ても身の丈一メートル五十に満たず、手首など大人の男の指先でひと捻りすれば折れてしまいそうなほどに細く脆い。
だというのに、精霊の加護を宿した長剣が彼女の掲げる刃と激突するたび――剣を通じて己の腕へ、全身の骨格へと跳ね返ってくる衝撃は、到底この世の人間、それも年端もいかぬ少女が発してよい力ではなかった。
それは、聳え立つ山そのものの重みであった。可憐な少女の姿を借り、その体の奥底に途方もない質量を宿した凶獣が暴れ狂っているかのような剛力。
――ガギィンッ!
渾身の体重を乗せた斜め斬りを、マリーズは片手の剣を斜めに掲げただけで受け止めた。
その瞬間、フリードの親指の付け根が裂けて血が噴き出す。右腕の骨全体が限界を超えた軋み声を上げ、佩剣があわや弾き飛ばされそうになった。
(あり得ない……! 私は過酷な試練を越え、本物の竜の血を浴びて洗礼を受けた守護騎士なのだぞ?! 日頃は訓練用の木剣を振るだけで肩で息をしていたはずの無能令嬢が……この理不尽極まりない怪力は、一体どこから湧き出ているのだ!)
そして何よりもフリードの魂を芯から凍えさせたのは、マリーズの纏う絶対の余裕であった。
陶器の人形のように整った少女の顔立ちには、呼吸の乱れ一つ浮かんでいない。額に汗の一滴すら滲んでいなかった。剣を握る所作は出来の悪い不良品を検品するかのように気怠げで無造作。
深淵を湛えた紫の瞳は氷のように冷たく澄み渡り、フリードが次の連撃を繰り出すよりも早く、その筋肉の動きや重心の偏りに至るまでを完全に看破していた。
鍔迫り合いの最中、フリードの研ぎ澄まされた感覚は、決定的な異常を嗅ぎ取った。
それは――この世界の理にすら属していない力であった。
武人が練磨する生命の闘気、魔導士が紡ぎ出す元素魔力、あるいは神聖術や魔物の呪詛に至るまで、あらゆる力には世界が定めた厳格な術式回路と法則が存在する。
だが、マリーズの剣に絡みつき、彼の闘気を冷酷に削り取っている蒼白の光には――元素の共鳴も、魔法陣の形跡も、生命の鼓動すら宿っていなかった。
それは彼が知るいかなる概念をも遥かに超越した、極めて純粋で、極めて原始的でありながら、物質と物理法則を己の意思一つで自在に捻じ曲げる未知の力の塊。
まるで人知の及ばぬ怪異が気まぐれに令嬢のドレスを着込み、道端で拾った粗悪な鉄切れを手にして、虫ケラを相手に剣術ごっこに付き合ってやっているかのようであった。
フリードがその深淵の気配に戦慄したまさにその瞬間――マリーズの整った口元に、冷酷で危険な笑みがふわりと刻まれた。
――キィィィン!
耳障りな金属の擦れる音。
フリードの手中で長剣が突如として鉛のように重くなり、前のめりに引っ張られた――数千人の観客が瞬きを忘れて見つめる中、灰髪の少女は睫毛一つ動かさず、薄いレースの手袋をつけた左手を伸ばし、精霊長剣の切っ先を素手で完璧に掴み取ったのだ。
「なっ……素手で刃を掴んだのか?!」
フリードの心臓が跳ね上がった。咄嗟に手首を捻り、剣を回転させてその華奢な指先を削ぎ落とそうとする。しかし刃を通じて伝わってきたのは、岩の隙間に挟まれたかのような絶対の力。
体内の闘気をどれほど注ぎ込もうとも、少女の細い指先はミリ単位すら揺るがなかった。
これのどこがか弱き令嬢の力だというのか。
フリードの理性が崩壊しかけたその瞬間、さらに常識を粉砕する異形の動きが放たれた。
マリーズの右手に握られていた長剣がふわりと宙へと放り投げられ、回転しながら落ちてくる。少女はその剣へ迷いなく手を伸ばした。
だが、掴んだのは柄ではなかった。切っ先から少し上の、剥き出しの鋼の刀身そのものを素手で力任せに逆手に握り締めたのだ。
素手で刀身を握り、切っ先を足元へ。天を向いた十字鍔と、柄の末端に鎮座する拳大の冷たい金属の重り。
それは、優美な長剣としての姿を捨て、骨を砕き肉を潰すためだけに特化された、最悪の鈍器へと変貌を遂げていた。中世ドイツ剣術における、甲冑を叩き割るための技――殺撃術。
「鉄の缶詰を着込んで威張り散らすのなら、大人しく叩かれなさいな、騎士様」
年長者の嗜虐と老獪な嘲笑を帯びた囁き。次の瞬間、マリーズの細い腰が鋼のバネのようにしなった。
全身を駆け巡る莫大なマナを乗せ、逆手に握られた長剣の鍔と重厚な鉄球が、城門を叩き破る丸太のような質量をもってフリードの肩当てへと容赦なく叩き下ろされた!
――ドグォォォォンッ!
背骨を直接殴りつけられたかのような、重苦しい破砕音が演習場に轟き渡った。
鉄を打つ大槌のように激しい火花とともに、防具に刻まれていた精霊の防護が弾け飛ぶ。最高級の附魔重装甲が、純粋な物理的衝撃とマナの暴力によって、まるで踏み潰された空き缶のように深くへこんで陥没した。
「ぐ、はっ……?!」
肺の空気を一息に絞り出され、フリードの喉元までせり上がった鮮血が面甲の隙間から吹き出す。巨躯は衝撃に耐えきれず、よろめきながら後方へと押し戻され、敷石を何枚も踏み砕いてようやく踏みとどまった。
観客席の生徒たちはもちろん、審判席の教官たちすらも開いた口が塞がらなかった。
柄で……あろうことか、名剣の柄で重装甲を叩き割っただと?!
魔法と洗練された剣技こそが至高とされるこの世界において、騎士の長剣とは華麗に闘気を纏い、装甲の隙間を精密に貫くための得物である。装甲を砕くのは魔法使いや重斧を持つ戦士の役目だ。
名門の令嬢が自らの武器を逆手に握り、鍛冶屋の金槌のように叩きつけるなどという泥臭い実戦技を、誰が想像できただろうか。
「が、はっ……くそッ……この化け物が……!」
肩から鎖骨にかけて走る激痛に顔を歪めながら、フリードは口内に溜まった血を力任せに吐き捨てた。全身の闘気を無理やりに循環させ、近接格闘での不利を悟った彼は、両手で長剣を握り直すと公爵家の護衛に代々伝わる守護風暴の術式を立ち上げようとした。
しかし、血走った視線を前方へと戻した瞬間、彼の瞳孔が極限まで縮み上がった。
――消えた?!
つい半秒前まで目の前に立っていたはずの灰髪の少女の姿が、煙のように視界から完全に消失していた。
空間転移の魔力の歪みもない。風系魔法の突風すら起きていない。
それは、マリーズの前世である鈴木八重が、かつて裏社会の利権争いに巻き込まれ、幾度となく命を狙われた修羅場の中で生き延びるために体得した至高の歩法――八極門の「活歩」。
大地に深く根を張る不動の姿勢や、足を踏み鳴らす動きとは根本的に異なり、この歩法の真髄は柔軟な流動性にこそあった。
四肢に満ちた無尽蔵のマナの加護を受け、マリーズの体の軸は超高速移動の最中にも完全に保たれていた。溜めの動作など一切ない。摩擦を無視して滑るように直角に曲がり、敵が最も意識を払わない死角の底へと音もなく滑り込む。
歴戦の騎士たるフリードの反射神経は流石であった。あの小柄な体から放たれる正拳がどれほど破壊的であるか、彼は骨の髄まで理解していた。
視界から敵が消えた瞬間、彼の直感が弾き出した。敵はこの歩法を使って自分の懐へと一気に踏み込み、山をも砕く必殺の正拳を叩き込みに来る。
八極門の金剛八式が一つ、衝捶――正式名称「上歩撐捶」の強烈な一撃だ!
「させるものかッ!」
電光石火の判断で残る闘気のすべてを絞り出し、フリードは全身の重心を強引に横へと滑らせた。両腕を交差させて急所を固め、獣のような勘で正面からの打撃の軌道から体を投げ出したのだ。
だが――。
打ち砕くような暴風の拳は、どこからも飛んでこなかった。
「……え?」
横へと跳び退いたフリードの頭が真っ白になる。
なぜなら――彼の真後ろ。首をどれほど捻ろうとも絶対に視界に入らない死角の底に、いつの間にか小さな灰髪の影が静かに腰を落としていたからだ。
片膝を地につけ、長剣を逆手に水平に構えたマリーズ。かつて多くの男たちを狂わせたその可憐な小顔には今や――数多の修羅場を潜り抜けた俗物の中年だけが浮かべ得る、底抜けに下品で極悪な嘲笑が張り付いていた。
端から、正々堂々たる正拳など放つ気は更々なかったのだ。主を無理やりにでも押し付けようとする頭の固い騎士を躾けるには、肉体の痛みなどよりも遥かに深く刻まれる「社会的な死」を与えるのが最も効果的である。
狙うべき場所は――重装甲が脚の動きを確保するために唯一剥き出しにしている、お尻の中央の革の継ぎ目。
「奥義・後庭の哀し』」
数千の視線がようやく少女の姿を捉えたまさにその瞬間。マリーズは全身のマナと腰の鋭い回転を長剣に乗せ、柄の末端にある拳大の冷たい金属の塊を、城門を突き破る杭のような勢いで――
ズブリッ!!
一切の躊躇いもなく、凶悪極まる力任せに、フリードのお尻のド真ん中へとねじり込んだ!
完全なる、世界の静止。
数千人を呑み込んだ巨大な演習場が、まるで時間の流れそのものを凍りつかせられたかのような、絶対の静寂へと沈んだ。
「オギャアアアアアアアアアアッ――ブッ、フォォォォォォッッ!!!!!」
それは、人間の喉から出たとは到底信じられない断末魔の絶叫であった。何十頭もの竜に生きたまま引き裂かれたとしても、これほどまでに情けない悲鳴を上げることは不可能だろう。
あの厳格にして冷徹、帝都の令嬢たちの憧れであった青年騎士フリードが。
直撃の瞬間、目を限界まで剥き出しにし、両太ももを隙間なく硬直させ、熱湯の大鍋に放り込まれたエビのように凄まじいエビ反りの姿勢を描いて――柄の推進力によって宙へと半メートルほど跳ね上がったのだ。
「…………」
観客席の貴族たちも、歴戦の教官たちも。令嬢たちも、平民の生徒たちも。
その場にいた全員が、一斉に、無意識のうちに己の内股を固く引き締めて冷や汗を流した。言葉にするのも恐ろしい幻の激痛と悪寒が、尾てい骨から頭のてっぺんへと突き抜けていく。
あまりにも破廉恥。あまりにも……筆舌に尽くしがたい地獄絵図!
天下に名だたる伯爵家の令嬢たる可憐な美少女が。大勢が見守る演習場のド真ん中で……あろうことか長剣の柄を、公爵令嬢の筆頭親衛の……「あんな場所」に全体重をかけて突き立てただと?!
貴族の令嬢たちは悲鳴を呑み込んで両手で顔を覆ったが、指の隙間は好奇心で限界まで広げられていた。
教官たちは正気を疑って何度も眼鏡を拭い直し、平民の生徒たちは喝采を送るべきか目を背けるべきか激しい葛藤に悶絶していた。
そして、最上段の貴賓席。先ほどまで一族の危機に青ざめていたイリノーは――その白い頬を耳の付け根からうなじに至るまで火を噴くような深紅に染め上げ、唇を震わせたまま彫像のように硬直していた。
演習場の中央。長剣の柄は、フリードの最も隠された場所へと深々と埋没していた。マリーズは無慈悲な手つきで真っ赤に染まった長剣を一息に引き抜くと、汚らわしい生ゴミでも見るかのような冷たい目で、敷石の上へと無造作に放り捨てた。
地面の上で両手でお尻を押さえ、白目を剥いて泡を吹き、痙攣を繰り返す巨躯を見下ろしながら。マリーズは、天使のように無垢で、悪魔のように甘い微笑みを浮かべてみせた。
「あらあら、騎士様。忠誠心の割には……下半身のお留守が、ずいぶんと脆くていらっしゃいましたのね?」




