婚姻とは、押し売りできるものなのですか?
硝煙の匂いが、無残に荒れ果てた演習場にゆったりと漂っていた。
見守る数千の生徒と教官たちは、針一本落ちても聞こえるほどの凍てつく沈黙に沈んでいた。
いまだ象牙の塔を出ていない生徒たちにとって、先ほどの一方的な殺戮劇は、講義や手合わせという枠組みをあまりにも逸脱しすぎていた――あれは、辺境の死線で泥水を啜り、修羅場を潜り抜けてきた真の精鋭のみが振るい得る純然たる暴力そのものであった。
しかし、バロック様式の演習場の中央に佇むマリーズの胸中は、ただひたすらに理不尽な苛立ちと呆れで満ちていた。
いったい何だってんだ? そもそも最初、大立ち回りを演じて並み居る男子生徒どもを片っ端から血祭りに上げたのは、あの観客席にいる清純無垢なフェイ先輩をお持ち帰りして嫁にするためじゃなかったのか?
それがどうして、目の前に突然現れた血気盛んな護衛騎士が、浮気現場に乗り込んできた本妻のような面構えで立ちはだかっているのだ。
「あのう……騎士様?」
マリーズはバロック風ドレスの腰元にちょんと両手を当て、小さく首を傾げた。そのライラック色の双眸には露骨な疑念と警戒が宿り、鈴を転がすような声音が観客席の半分にまで明瞭に響き渡った。
「わざわざ剣を抜いてまで降りてこられたということは……まさか貴方、フェイ先輩に惚れていて、私の嫁を横取りしにでも来られたのかしら?」
――ぶっ、ゲホッ!
フリードの彫りの深い端正な顔が激しく引きつり、あわや自分の唾液でむせそうになって、気まずそうに何度も咳き込んだ。
彼の内心の咆哮はもはや狂乱の域に達していた。
(全校生徒の目が揃いも揃って、俺が誰のために降りてきたのかを理解している! 観客席の全員が、公爵家の面子が貴女の足蹴にされて雑巾同然になっていると察しているというのに! どうして当の元凶たる貴女だけが、そんな無垢な顔でトボけていられるんだッ?!)
「……伯爵令嬢、言葉を慎んでいただきたい!」
フリードは腰の佩剣を強く握り締め、鉄の意志で表情を律しながら声を張った。
「私がフェイ殿に懸想など抱いておらぬことなど明白! 私はただ……伯爵令嬢のあまりに不誠実かつ、三心二意極まる薄情な振る舞いを、これ以上看過できぬだけにございます!」
これはまた、随分と大仰な濡れ衣を着せてくれたものだ。
マリーズは秀麗な眉をピクリと跳ね上げ、内心で冷笑を漏らした。
笑わせるな、と。かつてのあの臆病な小倉鼠が、あの高嶺の花を何年間も追いかけ回して、指先一つ触れられずに終わったのは周知の事実だ。
それを今、鈴木八重という中身が引き継いで方針転換した途端、「不誠実な浮気者」呼ばわりとは片腹痛い。
まさかこの異世界では、報われなかった片思いの相手のために一生操を立てて生きねばならぬ法律でもあるというのか?
何より、現代社会という食うか食われるかの修羅場を生き抜いてきた世慣れた魂にとって、前近代的な封建貴族の煩わしい格式など知ったことではない。
かつて鈴木八重として生きていた頃の常識に照らし合わせるならば、今の自分は「歴戦の武勲を誇る伯爵家の末娘」という肩書を背負っているのだ。
精々が学校内での色恋沙汰による子供の喧嘩、仮に上層部に話が上がったところで、実家の脳筋どもが頭の一つでも下げて「子供のしたことですから」と有耶無耶にするだけの話ではないか。
そこまで思考を巡らせた瞬間、マリーズの奥底に眠る「オッサン」特有の悪辣な悪戯心が、雑草のように勢いよく芽を吹いた。
全場が息を詰めて見守る中、身の丈一メートル五十にも満たない灰髪の少女は、おもむろに小さな顔を天へと向けた。
両手の平をぽってりとした愛らしい唇の前に添えてメガホンの形を作ると、清らかで甘美でありながら、演習場の隅々にまで届く朗々たる大声で、最上段に垂れ幕を掲げる深紫の貴賓席へ向かって何の躊躇もなく叫び散らしたのだ。
「イリノー――! そういうことなら、いっそアンタも私の嫁になっちゃいなさいよーッ?!」
――ズガァン!
その無邪気極まりない一言は、青天の霹靂となって演習場に炸裂した。居並ぶ全貴族子弟の首筋の毛が、一斉に逆立つ!
狂っている! 正気の沙汰ではない!
下等魔物の一睨みで失禁しかけていたはずのあの落ちこぼれハムスターが、いったい何の毒茸を食らえば、帝国三大門閥の筆頭にして純血の威厳と死の影を背負う公爵令嬢相手に、ここまで破廉恥極まるナンパ紛いの挑発を公衆の面前で叩きつけられるというのか?!
誰もが次の瞬間、公爵家の私兵部隊が起動し、マリーズが一瞬で灰燼と化す光景を覚悟した。だが――信じがたい異変が起きた。
貴賓席の奥。黒曜石の如き黒髪と、凝固した血潮を思わせる深紅の瞳を持つイリノー・フォン・ホーエンツォレルン。その万年氷壁のように強固だった能面が、ほんの僅かに、極めて微細に綻んだのだ。
紅を引いた唇の端が微かに持ち上がり、まるで精巧なフランス人形の顔に無理やり指で刻みつけたかのような、極めて淡い、だが確かな笑みが浮かぶ。
そして、その唇から零れ落ちた凛とした静かな宣告は、核の雷光の如く全校生徒の理性を粉々に吹き飛ばした。
「――貴女のヴァレンシュタイン家の爵位では、我がホーエンツォレルンへ嫁いでいただくことになりますわ。公爵家の本邸は規律が厳格ですから、慣れるまでには少々時間がかかるかもしれませんけれど」
涼やかで、優雅で、どこか安堵を孕んだ慈愛の声音。
――カラン。
どこかの生徒の手から魔導杖が滑り落ち、石畳に甲高い音を立てた。演習場全体が数秒間、思考停止の真空地帯へと叩き落とされる。
全員が顎が外れんばかりに口を開け放ち、胸の中でただ一つの、絶望的かつ荒唐無稽な叫びを反芻していた。
勝った……?! あの無能の伯爵令嬢が……またしても『勝った』というのかッ?!
学内を二分する二大陣営の象徴たる至高の女神たち――平民の光たる『白と蒼』の精霊使いフェイ、そして貴族の頂点に君臨する『黒と紅』の女帝イリノー。
その双璧を、僅か一メートル五十の灰髪のハムスターが、同一の演習場において、同じ日のうちに揃って陥落させたというのか?!
実のところ、この帝国魔法学院は複雑に入り組んでいるように見えて、実態は冷徹な「二大陣営」と、涙を誘うほどに矮小な「第三の陣営」によって構成されていた。
一方は、尊大で旧弊な貴族陣営。もう一方は、結束して身を守る平民特待生陣営。
そして第三の陣営――その総構成員数は、哀れなことにボロアパートの一室に寄り添うマリーズと、獣人の下僕であるドウバオの「二名のみ」。道端の野良犬ですら見向きもしない、完全なる不可触のぼっち集団である。
だが皮肉なことに、この三つの陣営にはそれぞれ、天仙の如き美貌を誇る極上の女神が存在していた。
貴族には犯しがたいイリノー、平民には聖母の如きフェイ。
そして第三の……実のところ、少なからぬ貴族の子息や平民の秀才たちが夜毎の夢の中で、あの「無能ハムスター」と嘲笑されていたマリーズこそを、最も手折り、己の腕の中で泣かせたい禁断の花として渇望していたのだ。
武勲輝く伯爵家の末娘でありながら、己を守る術を何一つ持たぬか弱き器。触れれば壊れそうな小柄な体躯と、初雪のように透き通る白肌。
虐げられれば隅のほうで一人、瞳を潤ませて震えるばかりで、貴族特有の高慢さなど微塵もない。
平民が娶れば一足飛びに階級の深淵を飛び越えられ、貴族が娶れば手駒として武閥の莫大な後ろ盾を丸呑みできる。それも、妻からの抵抗など一切気にする必要がないのだから。
それゆえ学院内には、彼女に濁った欲望の目を向ける豺狼の如き輩が掃いて捨てるほど存在していた。しかし彼らがなし得たのは、実戦訓練の規定の範囲内で嫌がらせをし、嘲笑を浴びせる程度が関の山。
それ以上の決定的な一線を越えた者は、過去に一人たりとも存在しなかった。
なぜなら、帝都の貴族高官たちは皆、我が子を入学させる際に激しい平手打ちを食らわせ、絶対に破ってはならぬ鉄の掟を叩き込んでいたからだ。
『学院の中で小突き回す程度なら好きにしろ。だが、万が一にでもヴァレンシュタイン家のあの娘の髪の毛一本に傷をつけようものなら、親の手で貴様の生皮を剥いで最前線の肉壁に送ると思え!』
生徒たちの目に映っていたのは「魔核の砕けた無能」という上辺だけであり、その背後にある家系がどれほど凶悪な魔境であるかを、彼らは露ほども知らなかったのだ。
ヴァレンシュタイン家が代々の血みどろの武勲によって賜ったものは、マリーズに湯水の如く宛がわれる「軍事予算」だけではない。帝国の正史の深奥に、一門は実に『十二枚の至高免罪金牌』を奉戴していた。
それは国家反逆、果ては弑逆という一族皆殺しに値する大逆罪を犯そうとも、金牌を一枚差し出せば、皇帝すらも苦虫を噛み潰して無条件で放免せねばならぬという絶対の超法規的特権!
父母、そして二人の兄と三人の姉が、地獄の極境魔潮において数十万の古代魔物の首級を積み上げて勝ち取った暴力の結晶。帝国の建国四大公爵家が束になってかかろうとも、その十二枚の金牌の質量には遠く及ばない。
かつて幼き日のマリーズに良からぬ企みを抱き、手を出そうとした名門の跡取り息子たちは例外なく、帝都の薄暗い路地裏で戦場帰りの兄姉たちに麻袋を被せられ、全身の骨を粉々に粉砕されて転がされていたのだ。
その血に飢えた狂戦士たちが、愛妹に対して冷淡に振る舞っていた理由もまた、噴飯ものの喜劇に過ぎなかった。
生まれつき魔核が破損していたマリーズを前に、両親は己の狂暴な血筋を呪って号泣した。
兄姉たちは、母胎の中で自分たちが魔力を過剰に奪い取ってしまったせいで妹が不具になったのだと骨の髄まで自責の念に囚われた。
その罪悪感と偏執的なまでの溺愛ゆえに、彼らは妹の平穏な余生を買い取るためだけに最も過酷な死線へ狂ったように身を投じ、免罪金牌と莫大な軍費をかき集め続けた。
幼いマリーズが瞳を潤ませ、兄や姉の胸に飛び込もうとするたび、戦場から戻ったばかりの狂人たちは魔獣の猛毒を孕んだ腐血にまみれ、古代呪詛の瘴気を全身から発していた。
その猛毒が脆い妹を侵さぬよう、彼らは奥歯を噛み締め、能面のように強張った表情で、幼子の小さな体を冷たく突き放すしかなかったのだ。
だが、その窒息しそうなほどに不器用な親愛の情は、純粋で劣等感にまみれた小倉鼠の目には、「無能な出来損ないだから、優秀な家族に触れることすら嫌悪されている」という拭い難いトラウマとして刷り込まれてしまった。
さらに滑稽なことに、今まさに貴賓席で涼やかな視線を投げかけているイリノー自身もまた、人には言えぬ血の涙を呑むような恐怖を味わったばかりであった。
僅か半月前のことである。
大軍のただ中で古代竜を素手で引き裂くほどの怪力を誇るマリーズの父親が、二メートルを超える血塗れの断頭巨刃を肩に担ぎ、ホーエンツォレルン公爵家の大会議室の扉を蹴破って現れたのだ。
あの伯爵閣下は挨拶すら抜きに、公爵の首筋から僅か三寸の黒曜石の床へ、轟音と共に巨刃を深々と突き立て、雷鳴のような悪声で嗤ってみせた。
『うちの可愛い宝物が、学校でアンタんとこの娘のケツを追いかけ回してると聞いてな。公爵だか何だか知らねえが、万が一にでも求婚を断られて布団の中で泣き腫らすようなことがありゃあ――ホーエンツォレルン、明日から帝国の四大公爵は、綺麗さっぱり「三大公爵」に減ると思え。分かったな?』
ホーエンツォレルン公爵は高価な毛皮を冷汗でぐっしょりと濡らし、悲鳴一つ上げることすらできなかった。
かつて帝国最強を自負していた第一聖騎士が、演習の場でこのヴァレンシュタイン伯爵に泥水へ顔を押し付けられ、まるで出来の悪い孫のようにボコボコにされた惨劇は、今なお帝国軍部の最高機密なのだ。
そして三女であるイリノーもまた、青ざめた実父から頭を押さえつけられて厳命されていた。
『ヴァレンシュタインの娘が再び口を開いたなら、身ぐるみ剥がれて嫁げと言われようとも、満面の笑みで婚姻届にサインしろ!』
ところが運の悪いことに、ここ数日、学院内ではマリーズが「心変わり」し、イリノーを捨てて平民特待生のフェイを熱烈に口説き回っているという噂が爆発的に広まっていた。
この数日間、イリノーが自室でどれほどの精神安定剤を煽り、どれほどの冷汗に浸りながら夜を明かしたことか。
あの理性をかなぐり捨てた娘煩悩の殺人鬼伯爵が、「うちの子を振って傷物に仕立て上げた」と勘違いし、明日の朝一番に大ナタを担いで公爵邸を皆殺しにしに殴り込んでくるのではないかと、生きた心地がしなかったのだ。
万策尽きたかに思われたその死局において――。
演習場の中央で突然覚醒した灰髪の少女が、何を狂ったか数千人の前で、自ら「私の嫁になれ」と叫び散らしてくれたのだ!
この瞬間、白磁の仮面の下で、イリノーの狂乱していた心臓はようやく定位置へと収まり、内心で深々と胸を撫で下ろしていた。
(嫁ぐ? 冗談でしょう、実家が更地にされないで済むのなら、二人の女で一人の夫を……いえ、二人の女で一人の妻に侍ることになろうと、何の不足がありましょうか!)
ただ一人、演習場のど真ん中に取り残されたマリーズだけが、完璧な思考停止に陥っていた。
彼女は大きなライラック色の瞳をぱちくりと瞬かせ、頭上の貴賓席で信じがたいほど従順に、あまつさえ「嫁入り後の生活指導」まで慈しみ深く提示してきた公爵令嬢を凝視した。現代人としての緻密なロジックが、一瞬でオーバーヒートを起こす。
(……は? 待て、今こいつ何て言った?)
違う、絶対に台本が狂っている。
私はただ、嘲弄の意味を込めて冗談めかした軽口を叩いただけではないのか? 帝国有数の名門公爵家の高慢ちきな令嬢ともあろう者が、そこは顔を真っ赤にして扇子を投げつけ、「無礼者を切り捨てよ!」と騎士に命じるのが王道のお約束ではないのか?!
その、新居の居住ガイドラインまでその場で草案作成しかねない妙に甲斐甲斐しい態度は、いったい何事なのだ?!
この壮大なボタンの掛け違いを理解できていないのは、身体の主である鈴木八重だけではなかった。
おそらく、肉体を放り出して今頃は帝国各地のグルメ街で幽霊となって買い食いを満喫している本物の小倉鼠のマリーズですら、自分が勝手気ままに投げ出した短い空白の間に、外の世界でどれほど荒唐無稽な天変地異が巻き起こり、事態がここまでシュールに崩壊したかなど夢にも思っていないだろう。
結局のところ、これはあまりにも極端な情報の断絶がもたらした喜劇であった。
元のマリーズの純朴で劣等感に塗れた小さな脳裏にあった人生の台本は、涙を誘うほどに哀れなものであった。
魔核が砕け、家族に疎まれた出来損ないの末娘。数年間憧れの先輩を追い続け、一度の視線すら得られなかった道化。成績は万年最下位、毎週のように演習場へ呼び出されては上級生たちのサンドバッグにされる哀れな生贄。
だが、あの少女が知る由もなかった真実は――高貴を気取る先輩たちが演習場という密室で鬱憤を晴らしていたのは、ひとたび結界の外へ出れば、悪意を僅かに覗かせただけで帝都の路地裏でマリーズの兄姉たちに麻袋を被せられ、親の顔も判らぬほど叩きのめされていたからに過ぎない。
何度かそれを繰り返されれば、彼らの側に怨嗟が溜まるのもまた当然の理であった。
そして彼女が絶望して諦めたこの数日の間に、あの黒髪血眸のイリノーが、ヴァレンシュタインの狂犬伯爵にどれほど恐ろしい脅迫を受け、夜な夜な枕を濡らしていたかなど……あの臆病な倉鼠が知るはずもなかった。
元の主すら知らぬ事実を、ポッと出で転生してきて「この冷徹な異世界で何とか平穏に生き延びよう」と目論んでいたスタジオ経営者・鈴木八重が察知できる道理など、どこを探してもありはしなかったのだ。
歯車は、完全に狂っていた。
場内の静寂はいまだに尾を引いていた。頭上のイリノーが一切の逡巡もなく荒唐無稽な求婚を快諾したのを見届け、マリーズは視線をゆっくりと下ろし、五歩先に立つフリードを無表情に見据えた。
しかし、その男の顔を視界に収めた瞬間、何とも形容しがたい奇妙な違和感が彼女の胸を衝いた。
先ほどまで殺気立ち、罪人を成敗せんとする忠義の騎士然としていた男の口元が、今は微かに弛緩し、その無骨な相貌に隠しようのない……「安堵」の色が浮かんでいたのだ。
その表情はまるで、手のかかる放蕩息子の更生を目の当たりにし、(ああ、伯爵令嬢……ようやく分別を取り戻し、我らに生き残る道をお恵みくださったのですね)と涙ぐみながら天を仰ぐ老執事そのものであった。
マリーズの目元が、ピクピクと激しく痙攣した。
何だ、そのツラは?
施し? 同情? それとも「貴女がそこまで乞うならば、我が公爵家の至宝をくれてやりましょう」という上から目線の傲慢か?
このマリーズを……否、鈴木八重を誰だと思っている!
前世において、骨肉相食む利権の渦巻く業界で揉まれ、幾重もの修羅場を潜り抜けて単身スタジオを切り盛りしてきた女社長だぞ!
人の世の冷暖と刃の嵐を味わい尽くし、その魂の骨身に刻み込まれているのは、何者にも頭を垂れぬ不屈の矜持と、気ままに我が道を行く野性のみだ!
いくら今が一メートル五十にも満たない豪奢なドレスを着せられた幼い器であろうと、誰人たりとも、上から目線の憐憫や施しで己の人生の主導権を握らせる気など毛頭ない!
「手前がそこまで望むならくれてやる」とばかりに構えられて、はいそうですかと尻尾を振るタマか! 押し付けられようとすればするほど、その皿ごと蹴り飛ばしてやりたくなるのが私の性分なんだよ!
「――はァ」
居並ぶ者たちが呆然と見守る中、マリーズは冷笑を漏らすと、ドレスの裾を優雅に持ち上げ、払う塵すらない布地を払ってみせた。
そして、陶器のように完璧な小顔を再び跳ね上げ、貴賓席の麗人めがけて、これ以上なく我が儘に、容赦のない澄んだ声で叩きつけた。
「気が変わりましたわ! イリノー! 私、やっぱりアンタなんてもう欲しくありませんことよ!」
誰が貴様ら公爵家の押し付け養子なんぞになってやるものか、消え失せろ!
――カッ!
その言葉は雷霆の如く、最上段の貴賓席を直撃した。
帳の陰で、先ほどまで胸を撫で下ろしていたイリノーの白磁の美貌から、瞬く間に血の気が引いていく!
深紅の双眸が見開かれ、膝の上で優雅に組まれていた細い指先が、骨の髄を凍らせる底知れぬ恐怖によって、ギリギリと軋むほどに硬く結ばれた。爪が白く変色する。
(い、要らない……?! 数千人の衆人環視の中で、今さら要らないと仰ったの……?!)
イリノーの背中を、一瞬にして冷汗が滝のように流れ落ちた。賭けにすらならない。ホーエンツォレルンの一門のすべてを賭けても、この破滅的な結末だけは背負い切れない!
帝国の権力の天秤において、ヴァレンシュタイン家は唯一無二の異形であった。彼らが幾星霜の死山血河の果てに得たものは、皇帝殺しすら不問に付す『十二枚の免罪金牌』なのだ!
対するホーエンツォレルンはどうか? 四大開国公爵の筆頭として栄耀栄華を極めていようと、帝国の法典を便所紙代わりに破り捨てられる特権など持ち合わせてはいない!
それが何を意味するか?
もしも今日、マリーズが「再び公爵家に恥をかかされ拒絶された」と思い込んだなら、あの娘狂いの殺人鬼伯爵は明日の朝一番に血塗れの巨大ナタを引っ提げて、公爵邸を門ごと粉砕し一族を皆殺しに叩き潰しに来る!
公爵家がどれほど底力を尽くして自衛しようと、帝国法という枷を嵌められた状態で、合法的な治外法権を握る神殺しの殺戮者集団を相手にせねばならないのだ!
これはもはや、生徒同士の痴情のもつれなどではない。
制御不能の猛スピードで、ホーエンツォレルン家という大樹が物理的に地上から抹消される破滅の深淵へ向かって転がり落ちているのだ!
演習場の中央において、フリードもまた、導火線に火のついた火薬樽の爆発を痛烈に悟っていた。
幼少よりイリノーに侍ってきた親衛として、彼は誰よりも理解していた。万が一にもこの灰髪の小爆弾が怒りを孕んだままこの場を去れば、主を待ち受けるのは、あの狂乱伯爵の振り下ろす断頭の一撃であると!
行かせるわけにはいかない! 何としてでも、この事態を「若気の至りの痴話喧嘩」という枠組みの中に押し込めねばならない!
――キィィィンッ!
フリードは肺腑の空気を吐き出し、腰に帯びた上位精霊の加護宿る重剣を一息に引き抜くと、青筋の浮いた両腕で前方の玄武岩の敷石へと力任せに突き立てた!
火花が爆ぜ、石の飛沫が四散する!
青年騎士はゆっくりと顔を上げた。その冷静沈着だった瞳には今や、袋小路に追い詰められた手負いの野獣の如き凄愴な気迫と焦燥がギラギラと渦巻いていた。
「……伯爵令嬢!」
フリードは奥歯を噛み砕かんばかりに軋らせ、言葉の刃を絞り出した。
「他人の真摯なる想いを弄ぶなど、名門貴族の風上にも置けぬ所業にございます!」
彼は低く唸りを上げる剣柄を抑え、マリーズを射抜かんばかりに睨み据えた。過剰な激情によって、その声はしゃがれて震えていた。
「そこまで仰せであるならば、不肖このフリード、僭越ながら貴女に正式な決闘を申し込む! 万が一にも私が半歩の勝ちを拾いましたならば……先ほどの言葉を違えず、どうか大人しくイリノー様の求婚をお受け入れいただきたい!」
そこまで言い募ると、フリードの胸板が激しく上下し、その眼光に捨て身の覚悟が宿った。
「もしもこの私が貴女の軍門に降ったならば……二言はございません。貴女は堂々と胸を張って、この演習場を歩み去られるがよい!」
対峙するマリーズは、整った眉を片方だけ持ち上げ、底知れぬ怪訝の色をその瞳に走らせた。
(……いや、何だその詭弁は?)
自分が勝てば、約束通りイリノーと結婚しろ。
自分が負けたとしても、マリーズが「そのまま出て行っていい」だけで、「イリノーが婚約を諦める」とは一言も言っていない。
つまりこの男、何が何でもあの公爵令嬢を私の懐にねじり込む気満々ではないか!
腕を組み、血走った目でどこか悲壮な懇願すら滲ませる護衛騎士を胡乱げに見つめ、次いで最上段で息すら止めて固まっている黒髪の麗人を仰ぎ見る。マリーズの頭の中の常識は、二度目の完全沈黙を強いられていた。
……待て、待て待て。
いったいどこで進行表を読み違えた?
つい数分前まで、この連中は私を「目障りな出来損ないの害虫」として蔑み、八つ裂きにでもしそうな顔をしていなかったか?
それが少し身を引いた途端、この色恋の攻防関係は……どうして最高峰の公爵令嬢とその親衛隊が、刃を突きつけて泣き落とし紛いに「頼むから正妻になってくれ」と縋り付いてくる構図にすり替わっているんだッ?!




