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今日もハムスター少女として生きていく  作者: 酣睡


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代償は、貴女が私の花嫁になることよ

朝日が高さ数十メートルにも及ぶドーム状のステンドグラスを透過し、学院の中央大回廊を色鮮やかで眩い金色の光斑へと切り裂いていく。


ここは「階級と純血」の概念を極限まで具現化した、バロック様式の巨大なる宮殿であった。


視界の届く限り、息を呑むほどに緻密を極めた金箔の浮彫と、優美な渦を巻く唐草文様の壁龕ニッチが連なっている。


回廊全体には一点の曇りもない高価なカッラーラ産白大理石が敷き詰められ、波一つない氷面のように滑らかに磨き上げられては、行き交う生徒たちの贅を尽くした金糸刺繍の制服を鮮明に映し出していた。


両脇に整然と立ち並ぶコリント式の円柱は天を突くほどに高く、その柱頭に刻まれた多種多様な古の神々や天使の彫像は、自らを高貴と信じて疑わない若き子弟たちを冷ややかに見下ろしている。


大気中には最高級の竜涎香結晶を焚き染めた甘美な薫香が漂い、朝清の空気が本来帯びているはずの瑞々しい草木の香りを跡形もなく掻き消していた。


時はまさに朝の講義が始まる直前。吹き抜けの回廊のあちこちでは、三々五々に群がる貴族の生徒たちの姿が見受けられた。


少年たちは腰に純銀の柄を戴く儀礼用の佩剣を佩き、マントを気怠げに肩へと羽織っている。


一方の令嬢たちはレースの扇で口元を隠し、咲き誇る白薔薇が飾られた彫刻入りのティーテーブルの傍らで忍び笑いを交わし合っていた。


ボーンチャイナの陶器と銀のティースプーンが時折立てる微かで涼やかな接触音は、取り繕った優雅な挨拶とともに、一見すると完璧に見える上流階級の社交網を編み上げていた。


この学院は、まるで黄金と香料によって塗り固められた巨大な温室であり、権力、富、そして血統を、目を眩ませるほどの美学へと昇華させた箱庭であった。


だが、その華美なる外皮の真下で渦巻いているのは、猛毒を宿す蛇の如く冷え切った品定めの視線である。


朝光の中で交錯するそれらの何気ない眼差しは、あたかも冷酷な物差しの如く、通り過ぎる者たちの家柄、魔力の純度、そして権力の天秤における残存価値を絶え間なく計測し続けていた。


息が詰まるほどに優雅で静謐なその朝、回廊の薄暗い角から、極めて微かでありながら、一切の迷いなく刻まれる均整の取れた足音が静かに響いてきた。


高々としたバロックの長廊を歩みながら、マリーズは急ぐ風もなく落ち着いた歩幅を刻み、まるで現場を視察する老練な設計士のように、周囲の入り組んだ装飾へ無言の視線を走らせていた。


金鍍金の施された壁龕、荷重を支える構造部に刻まれた渦巻きスクロール、そしてコリント式柱頭の偏執的なまでに左右対称な神々の彫刻――それら一切の輪郭と構造美は、彼女がかつて地球で学んだ古典バロック建築と驚くほどの相似を見せていた。


どうやら如何なる次元においても、知性ある生物が贅を尽くし、権威を誇示し、不可侵の神聖さを演出しようとする際、その美学の根底にある設計思想というものは自ずと同じ終着点へ行き着くらしい。


マリーズが心の中でこれらの浮彫の金型反転にかかるコストを皮算用し、一人密かに面白がっていた、その時だった。


まるで山間の雪解け水のように澄み渡り、微かな共鳴すら帯びた少女の美声が、朝の涼気を切り裂いて彼女の耳元へと滑り込んできた。


「おはようございます、マリーズさん」


マリーズは静かに歩みを止め、声の主へと視線を持ち上げた。


だが、正面から歩み寄ってきたその姿と視線が衝突した刹那、平生から神経が図太く、幾多の波瀾を潜り抜けてきたはずの彼女の思考すら、稀に見る完全な沈黙をコンマ数秒間引き起こした。


あまりにも、美しすぎた。


現れた少女は、微かに波打つ霜白色の長髪を揺らしていた。その髪の毛はまるで質量を持たないかのように軽やかで、朝陽を浴びて透き通るような氷青の燐光を纏っている。


未加工の極上アクアマリンを思わせる双眸はどこまでも澄み渡り、俗世の塵に穢されていない端麗な顔立ちは、全身から幽玄なまでの透明感を放っていた。


かつて特殊造形や無骨な現場ばかりを渡り歩いてきた身にとって、人間の審美眼の頂点に完璧に鎮座するこの手の超絶美貌がもたらす視覚の衝撃は、凄まじいものがあった。


結果として、マリーズはその精巧な磁器人形のような愛らしい貌を晒したまま、ライラック色の瞳を静かに見開き、その場にふと佇んでしまったのだ。


「……マリーズさん?」


眼前の小柄な少女が立ち尽くしているのを見て、かの名高き精霊使いの先輩の瞳に微かな戸惑いが走った。


もっとも、人通りのある回廊で前置きもなく唐突に声をかけてしまった己の不作法が、日頃から孤立している後輩を困惑させてしまったのだろうと、彼女はすぐに得心したようだった。


フェイは薄い唇をわずかに引き結び、非の打ち所のない所作でスカートの裾を正すと、しなやかでありながら均等の取れた肢体を微かに伸ばし、折り目正しい学生礼を優雅に執ってみせた。


「不躾に突然お引き止めしてしまって、ごめんなさい。私、三年生のフェイ・クラインと申します。自然精霊術を専攻していますの」


涼やかで柔らかなその声音は、頭から冷水を浴びせられたかのように、マリーズの意識を強烈に現実へと引き戻した。


フェイ・クライン。


昨晩、ドウバオの口から語られた、才色兼備にして平民の出でありながら、全校生徒から「初恋の象徴」と崇められているという天才精霊使い。


確かに美しい。世の誰もが憧れを抱く造形そのものだ。

だが――三十年にわたり現実の苦汁を嘗め尽くし、幾多の欺瞞を退けてきた経験を持つマリーズの理性は、瞬時に静かな警戒の警報を鳴り響かせた。


世の酸いも甘いも噛み分けてきた彼女は、ある明快な理を知悉していた。


この世に理由のない好意など存在しない。これまで接点の一欠片すらなかった美しき才媛が、満面に笑みを浮かべて向こうからすり寄ってきた時、その裏には必ず相応の計算と企図が隠されているものだ。


ましてや、この身体は昨日、学園の看板であった四年級の剣士を医務室送りへ叩き落としたばかりなのだ。その翌朝に、平民の女神がわざわざ腰を低くしてご機嫌伺いにやって来るなどと。


何か裏がある。間違いなく。


面倒を避けることを最優先とするマリーズは、社交辞令の欠片すら口にすることなく、足裏を滑らせて極めて自然に横へとステップを踏むと、そのまま「スッ」とドウバオの背の高い屈強な体躯の背後へと身を潜めた。


身長一メートル五十にも満たないこの小柄な体躯を最大限に利用し、完全に身を隠すと、ドウバオの腰元から灰亜麻色のふわふわとした頭を半分だけ覗かせ、ライラック色の瞳から「余計な真似をなさらないで」と言わんばかりの冷淡な警戒の眼差しを向けてみせる。


この流れるような、あろうことか侯爵令嬢を壁として平然と使いこなす小動物染みた防衛態勢に、対峙していたフェイは思わず言葉を失った。


絵画のように整った眉根がわずかに顰められ、その端麗な面輪に苦笑混じりの困惑が滲み出る。


どうやら昨晩の門前払いは気まぐれなどではなく、この爪弾き者たちの警戒心の殻は、想像を絶するほどに頑丈らしい。


フェイは小さく息を吐き出すと、両手を腹の前で慎ましやかに重ね、わずかに腰を落として声音に隠しようのない真摯さと焦燥を滲ませた。


「こんな風に突然声をかければ、警戒されてしまうのも無理はありません……。けれど信じてください、決して悪気があるわけではないのです。私はただ……昨日あなたが演習場で見せた、あの体術について教えていただきたいのです」


フェイは深く息を吸い込み、海藍色の瞳でドウバオの背後に隠れる少女を真っ直ぐ見据えると、声を忍ばせた。


「大気中の風の精霊と大地の精霊が、昨日私に教えてくれました。あなたが先輩の胸甲を撃ち抜いたあの一撃……体内の魔力回路を一切起動させていなかったと。あれは純粋な『体術』なのでしょう?」


その言葉に、ドウバオの黒耳がピクリと跳ね、隠れていたマリーズの眼光もわずかに深みを増した。


「私たちのように、精霊との同調と遠隔術式に依存した術士にとって、前衛の戦士に懐深くへ踏み込まれれば待っているのは無残な惨敗のみです」


フェイの吐露は極めて率直であり、それゆえに天才特有の執念と打算が透けて見えていた。


「もちろん、接近を阻むための拒絶の防壁くらいは心得ています。けれど、あの瞬発的な踏み込みの前には、時間稼ぎにすらなり得ない。だから……私はあなたの修練法を知りたいのです」


フェイの理屈において、世界の道理とは常に明快であるはずだった。


生まれつき魔核に欠陥を抱え、十数年間にわたって全校から「無能」と蔑まれてきたマリーズにすら、血肉の身一つであれほど規格外の爆発力を練り上げることができたのだ。


ならば、天賦の才に恵まれた己に、あの技術を体得できない道理などないはずだった。


「お断りいたしますわ」


半秒の躊躇すらなく、高柄な獣人の背後から放たれたその声音は、落ち着き払いながらも絶対の拒絶を孕んでいた。あたかも薄氷を切り裂く刃の如く、回廊に漂っていた穏やかな朝の空気を一瞬で遮断する。


フェイの唇に張り付いていた柔らかな微笑みが、完全に凍りついた。


アクアマリンの瞳が見開かれ、彼女の思考は真っ白な空白へと突き落とされる。


怯えて逃げ腰になるか、気後れして言い淀むか、あるいは激昂されるか――フェイの頭の中にあった無数のシミュレーションの中に、「路傍の小石を払うように、眉一つ動かさず切り捨てる」という選択肢など露ほども存在しなかった。


あまりにも潔く、冷徹なまでに静かな拒絶。


「ま、待ってください! そんなに急いで突っぱねないで! じ、条件ならいくらでも話し合えますから!」


身を乗り出すことすら億劫だと言わんばかりの灰亜麻色の影を前に、生まれて初めて受ける屈辱的な扱いに、フェイの声音は隠しきれない動揺に震えていた。


「報酬なら何だって工面いたします! 高位の魔法素材でも、講義録でも、あなたの年間の学費をすべて賄えるだけの金貨だって……あなたが望むものなら、私、何とかしてみせますから!」


全校から崇拝される才媛のこの取り乱し様は、これまで経験したことのない世界の反逆に対する狼狽そのものであった。


これまでの人生において、長蛇の列をなして擦り寄ってくる同輩や貴族の子弟たちを、柔らかな微笑みとともに丁重かつ完璧に断り続けてきたのは、常に彼女の方だったのだ。「フェイ・クライン」の関心を得ることこそが至上の名誉であると、誰もが信じて疑わなかった。


だがマリーズの瞳に映る彼女は、甘い香りを振りまいてすり寄ってくる、信管の引き抜かれた爆発物以外の何物でもなかった。


これまでの歳月の中で、マリーズはこの手の有象無象を嫌というほど観察してきたのだ。


自らの容姿が優れていることを「自覚していない」美女など、この世に一人として存在しない。


彼女らは幼少の頃から周囲の羨望と諂い、そして甘やかしの中で育ち、天与の容色を無意識のうちに絶対の武器として研ぎ澄ませてきているのだ。


それどころか、その無敵の優位性をテコのように使い、人間関係の中で莫大な利益と特権を涼しい顔で引き出し、他者を掌握する感覚をどこかで当然と受け止めている手合いすら珍しくない。


そしてフェイが狼狽したわずかコンマ数秒の間に、マリーズの深淵のようなライラック色の双眸は、その微細な表情の綻びから彼女の精神構造を完璧に見抜いていた。


フェイは知っているのだ。己の美貌が他者にとっていかに抗い難い誘惑であるかを。そして、その無害な「初恋の顔」を突破口にして相手の警戒を融解させる術を、熟知している。


ただ不幸だったのは、彼女が選んだ相手が最悪だったことだ。


その目の前に立っているのは、三十年もの間、泥濘を這いながら生き抜き、精神を冷徹な鋼鉄のように鍛え上げてきた百戦錬磨の魂なのだから。


マリーズにとって、防護の役にも立たない上辺の美しさなど、そこらに転がっている出来の悪い石膏像と何ら変わりはしない。


色仕掛けで私の技を安々と手に入れようなど、到底受け入れられるものではなかった。


「待って! なら、あなたは何をお望みですの!? 私に出せるもので、あなたが欲しいものなら……何だって差し上げますから!」


切迫した悲鳴のような叫びが、豪奢で広大な大理石の回廊に木霊した。


その言葉が落ちた瞬間、ドウバオの背後に潜んでいたマリーズの淡紫の瞳の奥底に、極めて静かで危険な暗い光が灯った。


駆け引きであれ真剣勝負であれ、「望むものなら何でも差し出す」などという白紙の手形を自ら晒す行為は、己の頸動脈を相手の抜き身の刃の前に晒すのと同義だ。


結局のところ、このお嬢さんは温室の中で守られてきた世間知らずに過ぎない。過去の成功体験に溺れ、人の底知れぬ強欲がいかに残酷なものかを想像すらできていないのだ。


そこまで大口を叩くというのなら、現実の重みというものをその身に教えて差し上げるのも一興だろう。


衆人環視の中、マリーズは静かに歩みを進めた。


彼女は大柄な獣人の陰からゆったりと足を踏み出し、制服の裾を優雅に揺らしながら、自らの領域を治める者の如き静かな威容で歩み寄る。


フェイは無意識に息を呑み、言葉を継ごうとしたが、頭一つ分以上も小柄なはずの少女は、すでに間合いの内側へと音もなく滑り込んでいた。


マリーズは昨日、秘銀の胸甲を易々と圧砕したあの白く細い右手を無造作に持ち上げると、極めて自然に、絶対の優位から相手を縛るような冷徹な気品を伴って――その氷のように冷たい指先で、フェイの滑らかで無傷な美しい顎を、そっと挟み上げた。


二人の距離は、吐息が触れ合うほどの至近にまで詰まる。


マリーズはわずかに顎を引かせ、剃刀の如き鋭利なライラックの双眸でフェイの完璧な面輪を冷然と見据えると、感情の揺らぎを一切交えない、だが回廊の隅々まで染み渡る澄んだ声音を、静かに落とした。


「……なら、貴女自身を差し出してくださる? 私の花嫁になってくださるというのなら、考えて差し上げてもよろしくてよ」


世界の全音が、その瞬間に死滅した。


次の刹那、バロック様式の中庭回廊は、無音の衝撃が炸裂したかの如き恐慌に包まれた。成り行きを見守っていた貴族や平民の生徒たちから、喉を詰まらせたような凄まじい息を呑む声が一斉に噴出する。


「な、何ですって……!?」


そして誰あろう、真後ろにいたドウバオが最大の直撃を食らっていた。


彼女は全身をビクンと震わせ、だらりと垂れていたはずの黒い尻尾の毛を――「ボフッ!」と音を立てて根元から完全に逆立たせ、極太の毛玉クッションへと爆発させた。


その金褐色の獣瞳は、零れ落ちそうなほどに見開かれている。


顎を捉えられたフェイの可憐な顔面からは、潮が引くように血の気が失せていた。


夢にも思わなかったのだ。この陰気で無力と見做されてきたはずの後輩の口から、これほどまでに世の常識を踏みにじる、常軌を逸した要求が突きつけられるなどとは。


「わ、私……っ」


フェイの胸元が激しく上下し、アクアマリンの瞳に激しい動揺が吹き荒れる。拒絶の言葉は喉元まで出かかっていた。


だが、昨日の演習場で全てを粉砕したあの絶対的な力、そして幾度となく野外実習で戦士型の魔物に追い詰められ、死の淵を覗き込んだ際の恐怖が、目に見えぬ腕となって彼女の身体を縛り上げていた。


術士の宿命を覆す力を手にするためなら、自らの誇りも、自由も、そして一人の乙女としての未来すらも差し出すべきなのか。


その代償の重さは、彼女の許容量を遥かに超えていた。


かつて手の届かぬ才媛として君臨していた少女が、自らのたった一言の揺さぶりによって瞳を激しく震わせ、やがて屈辱と無力感に唇を噛みながら項垂れていく様を冷ややかに見届け、マリーズの口元に微かな冷笑が刻まれた。


精神の防壁、完全突破。


彼女は静かに指を離すと、触れていたことすら無意味だったとばかりに手を引っ込め、その端麗な顔立ちには最早一瞥もくれなかった。


「貴女自身、誰よりもよく分かっていらっしゃるのでしょう? その『美貌』が、あらゆる扉を無条件で開く無敵の武器だということを」


マリーズは背を向け、立ち尽くす精霊使いに背後から、氷の理を淡々と告げるような冷淡さで言葉を落とした。


「けれど、よく覚えておきなさい。本物の飢えた悪鬼を前にして、『何でも差し出す』だなんて軽々しい安請け合いをしては駄目よ。その傲慢な自惚れの代償として、骨の髄まで綺麗に奪い尽くされてしまいますわ」


言い終えると、マリーズはそこに一秒とて留まることなく、回廊の奥にある教室へと静かに歩み去っていった。


暇を持て余した生徒たちの前で、見世物として消費される趣味など毛頭ない。


この世界に馴染んでまだ二十四時間も経っていないというのに、学年首席を医務室送りにし、今度は全校の憧れの的を衆人環視の中で手玉に取るとは――。


平穏無事に日々を過ごしたいだけの身にとって、事態はどう控えめに見ても、制御不能の方向へ向かって静かに加速を始めていた。

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