無二の友の決意と、夜更けの訪問者
温かな湯の滴が、演習場でこびりついた生臭い血の臭いとべたつく汗を綺麗さっぱりと洗い流していく。
マリーズは肌触りの柔らかな、仕立ての簡素なゆったりとしたネグリジェを身に纏い、湯気の立ち込める浴室から足を踏み出した。蒸気で温められたその紙のように青白かったはずの頬には、極めて淡い紅潮が差している。
彼女はそのまま自身に割り当てられた寮のベッドの端に腰を下ろすと、枕元から指先ほどの大きさの、橙赤色の微光を灯す温熱の魔法結晶を手に取った。
指の腹で結晶の表面に刻まれた導流紋様をそっと擦ると、ふわりと温かく安定した乾いた熱風が吹き出し、湿り気を帯びたアッシュグレーの長髪を入念に乾かしていく。
この肉体本来の魂は紛れもない深窓の令嬢であったが、今やこの器を操っているのは、かつて社会の現実をその身一つで生き抜き、幾多の修羅場を潜り抜けてきた大人の魂だ。
道理から言えば、このような性別の捻じれた生身の肉体に対峙すれば、常人ならば多少の気まずさや倫理的な罪悪感を抱くのが普通だろう。
だが、かつて鈴木八重であった彼女にとって、神殿においてあの小娘と「代わりにしっかり生き抜く」と約束を交わした以上、過度な感傷や恥じらいなど生き延びる上での障害にすらなり得なかった。
瞳を開いたその瞬間から、彼女はこの皮袋を全身全霊で受け入れるよう自らに課していたのだ。入浴など日々の定期的な機体メンテナンスに過ぎず、食事など活動エネルギーの補給に過ぎない。
「マリーズ・フォン・ヴァレンシュタイン」として骨の髄まで息づき、思考することこそが、あの委託に対する最も純粋な誠意であった。
今、この温もりを感じさせながらも手狭な二人部屋の学生寮において、引き締まった小麦色の肌を持つ獣人の少女が、ただならぬ面持ちで向かいのベッドの上に胡坐をかき、見慣れた姿でありながら中身が完全に別人と化したルームメイトを、金褐色の獣瞳で瞬き一つせずにじっと見据えていた。
マリーズは無意味な隠し立てを一切しなかった。禁足地での反動、神殿での魂の約定、そしてこの肉体が如何にして主を変えるに至ったのか――その一部始終を、目の前にいる「ドウバオ」という名の少女へ淡々と打ち明けたのだ。
もっとも、その奇々怪々たる真相にドウバオが極度の衝撃を受けていた裏で、先ほど彼女の本名を耳にしたマリーズの内心でも、なかなかに大きな地殻変動が起きていたのだが。
ドウバオ・ケンペス。
彼女とて夢にも思わなかったのだ。目の前にいるこの鋭利な気迫を放ち、長身でしなやか、胸元に歴戦の傷跡を刻んだ屈強な獣人女子の名が、かつての世界でよく見かける丸々と太った愛玩犬の愛称と奇妙な符合を見せているなどとは。
さらに輪をかけて不条理なのは、ドウバオの生家が正真正銘の「侯爵家」という超名門である点だった。
帝国の厳格なる爵位序列において、侯爵の座は伯爵家であるヴァレンシュタインを明確に凌駕している。
形式的な身分の上では、今まさに太く毛深い黒尾を所在なさげに揺らしている少女の方が、マリーズなどよりも遥かに高貴な存在なのだ。
だが、その身に荒野の血脈を色濃く宿す獣人の貴族であるがゆえか、彼女の立ち振る舞いには帝都の古びた人間貴族たちが漂わせる慇懃無礼な欺瞞や選民思想など微塵も見当たらなかった。
出来損ないの烙印を振り払わんとして命を賭し、あえなく散っていった無二の親友の無残な現実に、ドウバオの双眸は一時うっすらと赤く染まり、垂れた獣耳を力なく項垂れさせ、鉛を呑み込んだかのように重苦しい沈黙に沈んでいた。
だが、真のマリーズが今や半透明な小さな幽霊ハムスターの姿となって、極めて気ままに世界中を巡る自由な旅へと意気揚々と飛び出していったのだと聞かされると、ドウバオの張り詰めていた胸の痛みは奇跡のように半分ほど和らいだのだった。
悲痛であることには違いない。だが少なくとも、あの城館の冷え切った掟の中に一生幽閉されていた哀れな少女が、ようやく夢にまで見た果てしない天地へと解き放たれたのだ。たとえその代償が、二度と相見えぬ別れであったとしても。
「……ところでアンタ、この先ずっとリリーの身体を使って生きていく気なのかい?」
異世界から来たという年長者の数奇にして過酷な生い立ちを聞き届けた後、ドウバオは先の敵意をすっかり引っ込め、太い尻尾の先を不安げにコツコツと床に打ち付けながら、その成熟しどこか枯れた風情を漂わせる異界の魂へ、隠しきれない好奇の視線を向けていた。
理論上、マリーズの肉体が生かされ維持されている限り、もしも将来あの放浪のハムスターが遊び疲れて帰ってきたとしても、古代の秘法を紐解けば身体を本来の持ち主へ還す術は見つかるかもしれない。
そしてそれこそが、マリーズの思い描く最も理想的な終着点でもあった。
もっとも、深窓の令嬢を演じ切るなどという繊細な真似について、プロのような自負があるわけではない。
ただ、自らの血統の尊大さを笠に着て、魔核の優劣や魔力の多寡で人間を品定めするあの傲慢な輩の面構えには、以前の世界の特権階級と同様に反吐が出るほど嫌気が差していただけだ。
向こうでは資本と血筋で人間をすり潰し、異世界では魔法の才能を階級の免罪符にして憚らない。
本質は何一つ変わらない、ただの掃除すべきゴミ溜めに過ぎない。
もしもこの世界の根底にある論理が「力こそが正義であり、実力こそが尊厳を規定する」というものであるならば、それは彼女の最も得意とする土俵そのものだった。
実戦の駆け引きを骨の髄まで叩き込んできた身として、最も理不尽で凶暴な拳理と、規格外の重火器の具現化をもって、帝国中の度肝を抜く鮮烈な戦果をこの肉体に刻み込んであげることなど、造作もないことだった。
「あの小さなハムスターが外を気の済むまで旅して、いつか身体を返してほしくなったら、いつでもお返しするわ」
マリーズは手にしていた発熱結晶の魔力を切り、極めて落ち着いた柔らかな口調で告げた。
「なにせ私は今、輪廻の列に並ぶ資格すら奪われてしまいましたもの。あの気ままなお嬢さんに、来世へ転生する権利を力ずくで横取りされてしまったのですからね」
その響きには、理不尽な急患を押し付けられた年長者の静かな苦笑が滲んでいたが、同時に紛れもない本音でもあった。
引き受けると約束した以上、魂に染み付いた職人の意地が、粗製乱造の半端な結末を許すはずもなかった。
輪廻の輪から外れてしまった事態にはため息をつくほかないが、見方を変えれば――面倒な手続きもなしに、若く美しい上に無尽蔵のマナを操る特異体質の貴族令嬢の肉体を丸ごと手に入れたのだ。
ある意味では、これ以上なく贅沢な「無痛転生」と言えなくもなかった。
マリーズはこれからの青写真を頭の中で組み立てながら、両手の指先を器用に、そして流れるように後頭部へと滑らせた。
かつて舞台用ウィッグや特殊造形の現場で、数え切れないほどの複雑なヘアスタイルを形作ってきた経験を持つ彼女にとって、自らの髪を梳き整えることなど何でもない作業だった。
指先が軽やかに髪束をすくい上げ、撚り合わせることわずか数十秒。あの柔らかく波打つアッシュグレーの長髪は、極めて洗練された美しさを保ちながら二本の緻密なフレンチブレードへと編み込まれ、うなじの線に沿って優美に折り重ねられて纏め上げられると、最後は一本の木製ヘアピンによって無駄なく完璧に留められた。
貴族の令嬢たる典雅な気品を完璧に湛えながら、激しい肉弾戦や瞬時の首の回旋を一切妨げない、驚くほど機能的で凛々しいアップスタイルが、息を吐くように仕上がったのだ。
向かいのベッドにいたドウバオは目を丸くして輝かせ、その黒い獣耳をピクンと跳ね上げた。
これほどまでに複雑でありながら、微塵の野暮ったさも感じさせない洗練された編み込みの技術など、彼女は生まれてこの方見たことがなかった。
湯上がりの儚げだった少女の輪郭は、一瞬にして冷徹なまでの気品を纏った武家の名花へと塗り替えられていた。
ドウバオは思わず自身の野性味あふれる短髪へ手を伸ばし、これこそが異世界の文明が成せる業なのかと、胸の内で密かに舌を巻いた。
だが、束の間の感嘆が過ぎ去ると、ドウバオの表情には再び重苦しい陰りが戻り、その眉間には拭い去れぬ深い懸念が刻まれた。
「……それで、具体的にはどうやってこの状況を打開するつもりなんだい? リリーがこの学園で置かれてる立場は、アンタが考えてるよりずっと酷いんだ。無数の目が彼女を見張ってて、いつだって噛み砕いて引き裂こうと狙ってる」
この帝国最高学府の生態系は、純粋な貴族の社交界などよりも遥かに歪み、病んでいた。
学園内には帝国の名だたる名門貴族の直系が集う一方で、帝国の開明さを喧伝する欺瞞の象徴として、卓越した才能を持つ平民の魔導士たちも数多く特待生として招かれていた。
そんな環境下において、平民の生徒たちは上位貴族からの冷笑と侮蔑に晒され続けていた。だが、彼らは後ろ盾も実力も強大な本物の天才たちに牙を剥く勇気など持ち合わせていない。
ゆえに、挫折した自尊心と歪みきった鬱屈のすべてを、マリーズのような「伯爵家の看板だけを背負った、何の力も持たない」落ちこぼれの令嬢へと一挙に叩きつけていたのだ――貴族の血筋を踏みにじることで、己の浅ましい優越感を満たすために。
そしてもう一方、純血を誇る高慢な貴族たちに至っては、マリーズを上流階級の泥を塗る恥部と見做し、彼女が受ける仕打ちを冷淡に見殺しにするばかりか、裏から手を回して排斥を煽り立てることで、自らの潔白を証明しようとしていた。
上からも下からも敵視され、孤立無援。
それこそが、マリーズ・フォン・ヴァレンシュタインが日々窒息しそうになりながら喘いでいた、泥濘の地獄だった。
「平民は劣等感を晴らすためのサンドバッグにし、貴族は己の潔白を保つための生ゴミとして扱う、かしら」
マリーズはゆっくりと立ち上がり、姿見の前まで歩み寄ると、髪を完璧に結い上げ、刃のように冷徹な光を宿した鏡の中の少女の輪郭を静かに見据えた。
彼女は白く細い手首を軽く回して関節を鳴らすと、その薄い唇の端を、骨の髄まで凍りつかせるような極めて微かな笑みの形に歪めた。
「結構なことじゃなくて。職場での陰湿な虐めなど、以前の世界で嫌というほど見飽きていますわ。そこまで弱者を嬲るのがお好きだと仰るのなら……覚悟していただかなくてはね。この病弱でか弱いはずの小倉鼠に、そのご立派な差し歯を一本残らずへし折られる覚悟を」
今置かれた肉体と名を完全に飲み込み、受け入れたマリーズは、深く、しなやかに背筋を伸ばして腕を広げた。
関節から小気味のいい微かな音が鳴り、そのまま羽毛のように柔らかなベッドの寝具へと身を沈め、安らかに瞼を閉じた。
彼女には痛いほど分かっていた。演習場において全校生徒の眼前で、あの持ち上げられていた四年級の天才魔法剣士をなぶり殺しに近い形で地面へと叩き伏せた以上、明朝待ち受けているものが単なる噂話程度で済むはずがないことくらい。
猜疑、詰問、そして尋問めいた排斥と挑発が、血の匂いを嗅ぎつけたハイエナの如く群がってくるに決まっている。
だが、今のマリーズにとって、そうした物理的な暴力の類は何の苦にもならなかった。
来る者を一人ずつ受け流し、二人来れば二枚とも叩き割るだけの、単純な作業に過ぎない。
吹き溜まりの泥水の中で足掻き、幾度も生死の境を潜り抜けてきた身にとって、白日の下に晒された暴力など恐れるに足るものではなかったのだ。
真に頭を痛め、手の打ちようがないと感じているのは、むしろあの絡まり合った鬱陶しい「人間関係」の方だった。
特に、ヴァレンシュタイン家のあのいわゆる「家族」たち。
そこまで思い至ると、マリーズは心の中で、あの無責任極まりない本来の器の持ち主へ苦笑を向けずにはいられなかった。
後始末を丸投げして幽霊となって国境の外へと旅立っていったあの倉鼠娘は、あまりにも身軽に飛び去りすぎて、両親の名前すら、兄弟が何人いて普段どんな口調で話していたのかという引き継ぎすら満足に残していかなかったのだ。
この家庭内の修羅場を、一体どう演じれば綻びを見せずに乗り切れるというのか。
だが考えようによっては、先ほど拾い集めた断片的な記憶の通り、ヴァレンシュタイン家の面々はあの「出来損ないの娘」を完全に無視し、氷のように冷淡に扱ってきたのだ。端から温もりなど一片も存在しなかったのなら、話はむしろ単純極まりない――
社交エネルギーを極限までゼロに絞り込み、「用がなければ接触せず、顔を合わせても生返事で受け流す」という徹底的な冷遇を貫けばいい。死の淵から這い上がってきたばかりの爪弾き者として、それ以上自然な振る舞いもあるまい。
向かいのドウバオは、この深謀遠慮の同居人がどのような思惑を巡らせているのかと耳を澄まし、明日に迫る危機の対処法について一席ぶつ覚悟を固めていた。
だが、彼女が言葉を投げかけるよりも早く、ベッドの上のマリーズの呼吸はすでに驚くほど深く規則的なものへと変わっていた。
数秒の後には、枕元から微かで甘やかな、けれど微塵の乱れもない寝息の音が――心身のすべての警戒を完全に解いた者だけが放つ、深い安眠の律動が聞こえてきたのだ。
ベッドの上で胡坐をかいたままのドウバオは、その黒い犬耳を信じられないといった様子で二度三度と震わせ、呆然と固まってしまった。
もしも昼間のあの超加速の一撃と冷酷な眼差しだけでは確証が持てなかったのだとしても、この「横たわった瞬間に熟睡する」という光景は、この器の中身が完全に別人へとすげ替えられた動かぬ証拠そのものだった。
なにせ、彼女は誰よりも本物のリリーを知り尽くしていたのだから。
あの神経が細く、骨の髄まで自卑と怯懦に苛まれていた貴族の少女は、学園全体からの陰湿な虐めと実家からの冷遇に精神を削られ尽くし、極度の不眠症を患っていた。
毎晩のようにベッドの中で寝返りを打ちながら夜半過ぎまで苦しみ、毛布を固く抱きしめながら声を殺して泣いていたのだ。
今のように、学園を揺るがすような大立ち回りを演じた直後だというのに、三秒の逡巡すら残さず、瞼を閉じただけで完全に意識を手放して眠りこけるなどという図太い真似――。
ドウバオは苦笑混じりに小さく頭を振り、その口元に呆れと、どこか救われたような柔らかさを滲ませた。
天が崩れ落ちようともまずは睡眠を優先するようなこの鉄面皮のふてぶてしさは、あの繊細で臆病だった親友のものであるはずがなかった。
ドウバオが机の上の燐光結晶を消し、自身も寝具を引き寄せて横になろうとしたその刹那、あまりにも微かで、けれどひどく慎重に計算されたノックの音が、夜の静寂を切り裂いて不意に響き渡った。
扉を叩く微かな振動が伝わった瞬間、ドウバオの黒い獣耳が無意識のうちに跳ね上がり、その眉根が深く寄せられた。
不可解であり、あまりにも異質だった。
階級の断絶が城壁よりも険しくそびえ立つこの帝国学園において、生徒たちの群れの境界線は残酷なまでに明確だ。貴族は貴族だけで徒党を組み、平民は平民同士で固まって身を寄せ合う。
かつてはこの校舎にも他の獣人の生徒が少なからず在籍していた。
だが、生来気性が荒く誇りを傷つけられることを何より嫌う獣人の若者たちは、貴族の生徒たちの執拗な挑発と張り巡らされた罠に嵌められ、度重なる乱闘騒ぎの末に例外なく放逐されていった。
結果として、侯爵家の看板を背負うドウバオただ一人が、この学園に取り残されることとなったのだ。
全校から爪弾きにされた「野蛮な獣人」と、実家から見捨てられた「出来損ないの貴族」。回廊の最果てに位置するこの二人部屋の寝室は、とっくの昔に学園の誰もが視界から消し去った流刑地と化していた。
彼女たちは学園の影に潜む、透明な亡霊のような存在だった。
ドウバオ自身が獣人貴族としての極めて強靭な近接戦闘能力を維持し、下卑た企みを持つ者どもに一線を越えさせないだけの威圧感を放っていなければ、彼女とてとっくの昔に無数の陰謀によって学園を叩き出されていただろう。
そんな、昼間ですら誰もが遠巻きにして通り過ぎる部屋を、この深夜にわざわざ訪ねてくる者などいるはずがなかった。
ドウバオの金褐色の瞳に鋭い警戒の光が走り、足音を立てずに素足で床を踏みしめると、ドアノブへ手をかけ、ほんの僅かに隙間を開けた。
廊下の薄暗い壁掛け魔導灯の光の中、視界に飛び込んできたのは、予想していたような復讐に燃える風紀隊の姿などではなかった。
そこに佇んでいたのは、すらりと背が高く、見事なプロポーションを誇る美しい少女だった。
ドウバオにとって、見知らぬ顔では決してない。
学園中にその名を轟かせる三年生の特待生であり、極めて希少かつ強大な「精霊使い」。鼻を天狗にし、血統の優位ばかりを誇示する貴族どもとは異なり、この少女は正真正銘、貧しい平民の出であった。
だが、生まれながらにして自然精霊と深く共鳴する至高の親和性と、常に学年トップに君臨し続ける圧倒的な成績。
それに加え、どこか浮世離れした清廉さを漂わせながらも他者を威圧しない可憐な美貌が相まって、彼女は学園内で絶大な人気を誇り、いつしか男子生徒たちの間で「初恋の象徴」とすら崇められる存在となっていたのだ。
傲慢な貴族の悪癖とは無縁の、光り輝く平民の天才。
「こんな夜更けに突然お邪魔してしまって、本当にごめんなさい……」
扉の向こうの精霊使いは、両手を慎ましやかに胸の前で重ね、非の打ち所のない優雅な礼を執ると、あの澄み切った瞳を持ち上げ、山間の清水のように清らかな声音を零した。
「マリーズさんはいらっしゃるかしら? 今日、演習場で起きたことについて……どうしても解けない疑問があって、彼女に直接教えを乞いたいのですけれど」
その言葉を耳にした瞬間、ドウバオの金褐色の獣瞳は、危険な細いスリットとなって極限まで細められた。
教えを乞う、だと?
全校生徒から崇拝され、高位の教授陣すら手放しで賞賛する天才精霊使いが、わざわざ消灯時間を過ぎた深夜を選び、学園中から忌み嫌われる最果ての掃き溜め部屋まで腰を低くしてやって来て、火花一つ起こせないはずの「出来損ない」に教えを乞うだと?
世の中におめでたい善人が実在するとしても、この骨までしゃぶり尽くすような帝国学園にそんな聖者が紛れ込んでいるはずがない。
複雑な術式の構築において、獣人は確かに人間のような小細工には長けていないかもしれない。
だが、過酷な荒野で猛獣と命のやり取りを重ねてきた血の記憶が、ドウバオの「悪意と探り」を嗅ぎ分ける直感を誰よりも研ぎ澄ましていた。
目の前にいるこの無害を装った美しい小鳥は、昼間のあの「魔力の揺らぎを一切伴わずに高階位の防壁を粉砕した」異様な力の気配を嗅ぎつけ、胸の内の恐怖と好奇心を抑えきれずに、マリーズの秘密を暴き立てるためにやって来たのだ。
「悪いが、あいつは寝てる」
ドウバオは取り付く島も与えなかった。その声の冷徹さは、極北の荒野を吹き荒れる凍土の吹雪そのものだった。
言い終えるが早いか、彼女は社交辞令の皮肉を繕うことすら放棄し、――バタンッ! と凄まじい音を立てて、その万人が憧れる可憐な顔の前に分厚い樫の木の扉を叩きつけ、迷わず内鍵を固く掛けた。
冷たい扉に背中を預け、ドウバオは深く息を吐き出した。胸元に刻まれた古傷が、高鳴る鼓動とともに熱く疼く。
彼女は静かに首を巡らせ、ベッドの上で穏やかな寝息を立て続けるマリーズの横顔をじっと見つめた。
本物の親友は小さなハムスターとなって遠い空へと羽ばたいてしまい、今この器を満たしているのは異郷から来た得体の知れない成熟した魂だとしても――
それでも、あの身体が無傷で呼吸を続けている限り、いつの日か、あの泣き虫で臆病だった少女が還ってくる可能性は残されているのだ。
リリーを守ると、そう誓ったのだ。
白日の下に剥き出しにされた凶刃であろうと、甘やかな香りを纏わせた陰湿な毒であろうと、彼女は誰一人として、ようやく安らぎを得たあの小さな倉鼠の眠りを脅かすことなど決して許さない。




