美少女に転生して生き延びる依頼、死んでまで働けってことですか?
広大な学園中央訓練場には、焼け焦げた土埃と鼻をつく生々しい血の臭いが充満していた。
魔法によって無残に耕され、砕け散った青石の地面。その上に、本来であれば誰もが見上げるほど背が高く筋骨隆々とした美貌の四年生――あの天才魔法剣士の先輩が、まるで陸に打ち上げられた魚のように泥塗れになって激しく痙攣していた。
彼の胸を覆っていたはずの、高階位の防御術式が刻印された剛鋼の胸甲は無残にも陥没し、引き裂かれ、中央部には息を呑むほど恐ろしい風穴が穿たれていた。
軋むような肋骨の破砕音とともに、途切れ途切れのか細い喘ぎが漏れる。吐く息ばかりで、吸う息はもはや風前の灯火だった。
そんな男の目の前に、ひとりの少女が佇んでいた。背丈は一メートル五十にも満たない、あまりにも華奢な体躯。
朝霧のように淡い燐光を帯びたアッシュプラチナの長い髪を無造作に揺らし、透き通るような白い肌を持つ彼女の顔立ちは、本来であれば磁器人形のように庇護欲をそそる可憐なもののはずだった。
普段ならいつも涙を潤ませ、誰とも視線を合わせることすら怯えていたそのライラック色の瞳。しかし今、そこには万年溶けることのない氷のような死寂と冷徹さが宿り、一片の感情の揺らぎすら見出せなかった。
そして、そのか弱い少女の手には、この剣と魔法の世界にはおよそ似つかわしくない冷間圧延鋼の金属バットが無造作に握りしめられていた。
バットの先端はわずかにへこみ、粘り気のある半透明の微光を放つ液体がわずかにこびりついて、傾きかけた夕陽の下で冷酷かつ危険な鈍い光を放っている。
彼女の名は、マリーズ・フォン・ヴァレンシュタイン。
魔法の才能の優劣こそがすべてを決めるこの帝国学園において、彼女は全校生徒の誰もが知る二年生の「出来損ない」だった。
ヴァレンシュタインといえば、代々帝国の国境地帯を死守してきた鉄血と武勲に彩られた伯爵家の名門である。
その血脈に連なる者は例外なく、戦場を縦横無尽に駆ける屈強な騎士か、あるいは天災を操る大魔導士ばかりであった。ただ一人、マリーズを除いては。彼女が覚醒させたのは、平民ですら見向きもしない荒唐無稽な異能――「物質変換」などというものだった。
誰もが体内の魔力回路を通じて天地のエレメントを紡ぎ出すこの時代において、マリーズの肉体には標準的な魔力を蓄積する器が一切存在しなかった。
彼女にできることといえば、唾液の中に微量に含まれる超高密度の魔力を口腔内で「成形」し、まるで危険を察知した小動物のように、柔らかく驚異的な伸縮性を持つ両頬の頬袋にその造形物を一時的に蓄え、必要な時に指先でそれを取り出すことだけだった。
そのあまりにも滑稽極まりない生理現象に加え、小柄で愛くるしい容姿、そして何より怯懦で内向的な性格が災いし、彼女は瞬く間に学園全体の物笑いの種となった。
誰もが彼女の背後で嘲笑を込めて「ハムスター」と呼んだ。初めは他愛のない揶揄いに過ぎなかったその渾名は、いつしか「無力で、無能で、生理的な嫌悪感すら催す存在」という蔑称へと成り果てていた。
そして、先ほど地に伏した四年生の先輩――学園中から類まれなる天才と持て囃されていた魔法剣士は、まさにその身勝手な傲慢さを剥き出しにし、この伯爵令嬢の最後に残された矜持を公衆の面前で無残に引き裂こうとしたのだ。
だが、哀れな彼には永遠に知る由もなかった。目の前に立つ存在が、少し声を荒らげられただけで肩を竦めて泣きじゃくっていたあの受気包などでは、もはや断じてないということを。
この精巧な少女の肉体の奥底には、地球から流れ着いた異郷の魂――鈴木八重が根を下ろしていた。
転生する前の八重は、コスプレ用の造形小道具や特撮用重装甲の製作を手がける個人工房のオーナーだった。
物心ついた頃から児童養護施設で育ち、日々の飢えを凌ぐためだけに社会の最底辺を泥塗れになって這い回ってきた男である。
荒んだ路地裏で生き延びるための護身として、彼は骨の髄まで叩き込まれるような実戦本位の硬派な体術を身につけていた。
二十二歳を迎えたある日、仕立ての良い高価なスーツに身を包んだ威厳ある夫婦が突然現れ、自分がまさかの「真偽の御曹司」という三文芝居のような劇の当事者であることを告げられるまでは。
世に溢れるありふれた俗話の筋書き通り、豪門の兄弟姉妹たちはとっくに、優雅で如才なく育った「偽の御曹司」の方を愛していた。
八重の許嫁だったはずの良家の令嬢ですら、その熱い眼差しを偽の弟だけに注ぎ続けていた。だが、八重自身は骨肉の権力争いなどには微塵の興味も湧かなかったし、誰かを妬むことすらなかった。
両親は感情の面では養子を露骨に偏愛していたものの、物質的な支援においては決して吝嗇ではなく、彼が独立するための潤沢な創業資金を惜しみなく与えてくれたからだ。
その資金を元手に、八重はずっと夢見ていた模型と重工業系プロップの工房を立ち上げた。どん底を味わい尽くしてきた彼にとって、布地と金属とシリコン型枠、そして機械油の匂いに満ちたあの作業場を持てたことこそが、何物にも代えがたい至上の幸福だったのだ。
しかし、その穏やかな日常はある深夜、唐突かつ無残に打ち砕かれた。刃物を手にした数名の覆面強盗が工房へと乱入したのだ。
日頃から体を極限まで鍛え上げ、生半可な格好ではなかった八重は素手で何人かをねじ伏せたものの、凶刃の前にあえなく斃れ、冷たい血の海へと沈んでいった。
急速に薄れゆく意識が底なしの暗淵へと堕ちていく最後の瞬間、工房の重い鉄扉が凄まじい勢いで蹴破られた。
血飛沫を浴びながら強盗たちを組み伏せに飛び込んできたのは、二度と交わることはないと思い込んでいた、あの偽の御曹司の弟だった。
そして八重が完全に光を失う直前、普段は非の打ち所がないほど優雅で冷静沈着だったはずの青年が、泥と血で汚れるのも厭わずに高価なスーツのまま膝をつき、八重の体を強く抱きしめながら引き裂かれるような声で号泣していたのだ。
「兄さん! どうして……どうして今なんだよ! もう少しで、全部片付いて一緒に暮らせるはずだったのに……死ぬな! 頼むから死なないでくれッ!」
その途切れた悲痛な絶叫こそが、八重が現世で耳にした最後の残響となった。
再び意識を取り戻した時、彼は純粋な魂の残滓となって、純白の白玉石で組み上げられた壮麗な神殿の虚空に漂っていた。
そこで彼は、同じく魂だけの姿となったマリーズに出会った。
少女の美しさは胸を締めつけるほどだったが、同時に、触れればたちまち砕け散ってしまいそうな薄氷のように儚かった。彼女は八重に語った。
自分は決して、家族を恨んでいるわけではないのだと。冷淡で余所余所しい態度を取り続ける両親や兄たちではあったが、少なくとも衣食住に困るような惨めな扱いは一度として受けてこなかった。
それに何より、彼女の胸の奥には、神仏のように眩く気高く、学園中の誰もが傅く太陽のような存在――公爵家の令嬢である先輩への、秘められた憧憬が息づいていた。
だが、日常となった嘲笑、絶望的な落第寸前の成績、そして頭上から重く圧し掛かる「名門の汚点」という十字架。それらが積み重なり、遂に彼女という脆い器を完全に粉砕してしまった。
もう家族が自分を見るたびに失望して視線を逸らす姿を見たくなかった。憧れの人と同じ空間にいることすら恥ずかしく思えるほど惨めな自分の影に、耐えられなくなってしまったのだ。
運命を覆したい一心で、生まれてからずっと臆病だった少女は誰にも告げず、古代の禁忌魔法が封印された禁足地へと密かに侵入し、魔力を爆発的に増幅させる手段を追い求めた。
しかし、奇跡など起きるはずもなかった。稚拙な魔力操作は無残な暴走を引き起こし、その反動があっけなく彼女の命を奪い去った。
生の終焉において、マリーズの心にあったのは運命への呪詛ではなく、ただ生きることへの尽きせぬ未練と無念さだけだった。
彼女は涙を流しながら小さな両手を合わせ、目の前に佇む毅然とした瞳を持つ異界の魂に、どうか自分の冷たくなった骸へと戻り、その命を繋いでほしいと哀願したのだ。
『お願いです……どうか私の代わりに、この世界で生きてください』
記憶の奔流が収束する。
訓練場を吹き抜ける風が、マリーズの乱れたアッシュグレーの長髪をふわりと撫で上げた。彼女は、今しがた自身の膨らんだ頬から取り出したばかりの、超高濃度の魔力唾液が一瞬にして硬化・結晶化して成形された高炭素クロムモリブデン鋼合金製のバットを見下ろした。
「魔法剣士だか何だか知らねえが、足裁きの重心すらまともに取れてねえじゃねえか」
マリーズは微かに唾を吐き捨てると、血の付着したバットを雑に肩へと担ぎ直した。その口調は、まるで基準を満たさなかった出来損ないの小道具を冷ややかに品評する職人のように平坦だった。
彼女は完全に感情を削ぎ落とした無表情のまま背を向け、背後で昏倒したままの天才剣士へと駆け寄る医療班の怒号を、まるで他人事のように聞き流した。
この世界の連中は、彼女の頬袋など精々小さな玩具を吐き出す程度の役立たずな器官だと侮り切っている。
だが、八重だけは正確に理解していた。底の抜けたガラクタの瓶と蔑まれたこの肉体に、時代を遥か超越した地球の物理公差、金属配合比率、そして現代重火器の設計図面が組み合わさった時――。
全校から踏みにじられてきたこの臆病なハムスターが、一体どれほど理不尽な天災へと変貌を遂げるのかを。
ふと指先の力を抜くと、マリーズの手の中にあったはずの金属バットは地面に落ちることなく、中空で無数の細やかな淡い燐光となって解けていった。
その光の粒子は、夏の夜に儚く燃え尽きる蛍火のように頼りなく、風に拐われて音もなく消滅していった。
これこそが、「マリーズが本来持っていた魔力」のすべてだった。
微弱で、脆く、瞬きの間に霧散してしまう儚い力。だが、鈴木八重の価値観において、この世に真の意味で無駄な素材など存在しなかった。
あるのはただ、素材の特性を引き出せない無能な職人だけだ。あの少女の代わりに生き抜くと誓った以上、たとえ手渡されたのが規格外の不良品であったとしても、自らの手で最も鋭利で致命的な凶器へと研ぎ澄まさねばならない。
この「テラ」と呼ばれる文明において、「魔力」とは森羅万象を統べる絶対的な礎であった。
それは人間社会の動脈そのものを貫いている。貴族の魔導士が放つ戦術級の破壊魔法から、平民の厨房で湯を沸かす点火石に至るまで。
帝都のレールの上を疾駆する魔導列車から、夜の帳が下りる街路を照らし出す蓄能結晶に至るまで。現代社会において水や電気、石油が担っていたあらゆる生活の営みが、ここでは等しく魔力への搾取へと置き換えられていた。
そして、個人の限界を決める到達点などというものは、この世に生を受けたその瞬間に、心臓の傍らに位置する「魔核」の形状によって残酷にも刻印されてしまう。
生まれながらにして傷一つなく滑らかな魔核を持ち、帝国の支柱として天変地異すら引き起こす大魔導士になるべく宿命づけられた者もいれば、マリーズのように、生まれつき亀裂だらけで閉塞し、まるで千の穴が開いた素焼きの壺のように、どれほどのエネルギーを注ぎ込もうとも瞬時に漏れ出してしまう出来損ないもいた。
もし彼女が、辺境のどこにでもあるような農村や平民街の娘として生まれていたのなら、陶器のように繊細で美しい顔立ちと穏やかな気立ての良さだけで、数多の求婚者に囲まれながら平穏な一生を全うできたはずだった。
しかし運命は残酷にも、彼女をヴァレンシュタイン――武勲と鉄血のみを是とする名門伯爵家の直系として生まれ落ちさせた。
血統の純度と魔力の多寡を誰もが虫眼鏡で値踏みし合う帝国貴族社会において、魔力を凝縮させることすら叶わない彼女の存在は、呼吸をすることそのものが拭い去れない原罪だったのだ。
だが、この世界の人間たちは「魔核」というあまりにも狭隘な枷に囚われすぎていた。
地球という異世界から渡り、無数のファンタジー作品や武侠の世界観を浴びるように貪ってきた魂として、鈴木八重は誰よりも明晰に理解していた。
自己完結したちっぽけな「個人の魔力」の上には、さらに広大無辺な原始の偉力が横たわっているということを。
それこそが、「マナ」だった。
一見すれば酷似した超自然の力に見えながら、その根本原理は決定的な断絶を孕んでいる。
「魔力」とは閉じた内循環であり、個体が魔核を酷使して無理やりに絞り出す有限の私有物に過ぎない。対して「マナ」とは、大地を巡り、山河を潤し、大気の大風となって吹き荒れ、息吹と万物の生滅の狭間に遍く満ちている自然の潮汐そのものである。
魔核が壊れている? 上等じゃないか。学園の指導教官たちから死刑宣告を突きつけられたこの虚弱な肉体は、そもそも魔力を溜め込むための水瓶などになる必要はなかったのだ。
マナの法則下において、一切の抵抗を持たないこの空虚な器は、天地の力をそのまま通すためのこの上なく完璧な導管――肉体を万象の懸け橋とし、世界の全エネルギーを我が物として借り受けるための超伝導体だった。
この天地が枯渇せぬ限り、彼女の引き出すマナは無尽蔵であり、尽きることがない。
そして神話の深淵に埋もれていたこの絶対の真理こそが、マリーズが生涯の最後に命を投げ打って禁足地へと分け入り、粉骨砕身の代償として奪い取ってきた至高の遺産だったのだ。
そこまで思考を巡らせ、八重は内心でやれやれと深い溜め息を零した。
思えば、なんとも人を食った話である。あの神殿で魂の契約を交わした直後、長年背負わされ続けてきた家名の重圧から解放された貴族の少女は、あろうことかその場で手のひらサイズの、半透明な灰白色の幽霊ハムスターへと姿を変えてしまったのだから。
小倉鼠は丸々とした短い尻尾をご機嫌に振り、ちまっとした前足で器用に頬をこすると、八重の周囲を軽やかに二度ほど旋回してみせた。
『それじゃあ……お兄さん、私の体、よろしく頼んだよ! 私、今まで学園とお屋敷の外なんて出たことなくて、毎日毎日、家訓の暗記とお説教ばっかりだったから……これでやっと、本当に自由になれたんだもん!』
そんな、呆れるほどあっけらかんとして、けれど途方もない解放感に満ちた別れの言葉を残し、その小さな光のハムスターは心地よい一陣のそよ風となって神殿の外へと軽やかに飛び去り、世界中の名所旧跡を巡る気ままな旅へと意気揚々と出立していったのだ。
「……やれやれ。随分と気楽な去り際じゃないか」
マリーズ――否、鈴木八重は、まだわずかに何かが詰まっているかのような感触が残る、柔らかく微かに膨らんだ自身の頬へとそっと触れた。そのライラック色の瞳に、ごく淡い冷笑の弧が浮かぶ。
一生を怯えの中に閉ざされていた本来の主が、自らの意思で自由へと駆け出していったのだ。
ならば、この欺瞞と偏見に塗れきった学園に残り、彼女の頭を踏み躙り続けてきた連中を一匹残らず叩き潰して掃除するという反吐の出るような泥仕事くらい――兄貴分を引き受けた社畜として、きっちり片付けてやるのが筋というものだろう。
訓練場の出口に穿たれた巨大な石造りのアーチ。その足元には、夕暮れの斜陽が長く濃密な影を落としていた。
その薄暗がりの中に、すらりと背が高くしなやかな体躯を持つ人影が、両腕を固く胸の前で組んだまま、冷たい石壁に背を預けて立っていた。
夕陽の残光を浴びてしっとりと濡れたように艶めく、均整の取れた小麦色の健康的な肌。学園の制服越しですら隠しきれない、まるで獲物を狙う雌豹のように張り詰めた、爆発的な膂力を秘めた筋肉の曲線。
マリーズのルームメイトだった。
そして、この血も涙もない傲慢な学園において――否、おそらくは元のマリーズにとってこの冷酷な世界のすべてにおいて、唯一彼女へと温かな手を差し伸べてくれていた存在。
「……アンタ、何者だ?」
低く掠れたその声には、野獣が間合いの内に獲物を捉えた時特有の、危険な震えが孕まれていた。
金褐色の獣瞳が鋭利なスリット状に細まり、その視線は切っ先のように、あまりにも泰然自若としすぎている少女の華奢な輪郭をミリ単位で削ぎ落とすように射抜いていた。
「どうして……アンタがリリーの身体を使って戦ってやがる?」
剥き出しの警戒と肌を刺すような重苦しい殺気を正面から浴びせられながらも、マリーズはかつてのように首を竦めて竦み上がることもなく、ただその陶器人形のように端麗な顔をわずかに持ち上げた。
そして、まるで実験台の構造を冷静に検分するかのような底冷えのする眼差しで、眼前の女子生徒を静かに観察した。
日光を万遍なく浴びた引き締まった小麦色の肌。左肩の鎖骨から斜めに走る、深く白い古傷の痕。頭頂部でわずかに垂れ下がりながらも、呼気一つ拾うたびにピクピクと神経質に微動を繰り返す犬科の獣耳。
そして、制服のスカートの後ろから無造作に垂れ下がり、微かに揺れている黒く太い毛並みの豊かな尾。
間違いなく、生まれながらにして五感が極限まで研ぎ澄まされた上位の獣人種だった。
「私が誰かなんて、そんなに重要なことか?」
マリーズの唇から言葉が滑り出た。本来の柔らかく舌足らずな少女の声帯から響いたのは、しかし、酸いも甘いも噛み分けた大人の社畜特有の、世の理を悟りきったような倦怠と無機質さだった。
彼女は小首を傾げた。そのライラック色の瞳には動揺の欠片すらなく、光を呑み込む深淵のような静寂だけが横たわっていた。
「私はマリーズ・フォン・ヴァレンシュタインだよ。……幕が上がっていようと、降りていようとな」
「幕がどうとか」というその言い回しを耳にした瞬間、獣人女子の双眸が激しく揺らぎ、その金褐色の瞳の奥に昏い陰影が急速に立ち込めた。
あまりにも意味深で、そしてあまりにも冷徹な響きだった。
彼女の脳裏に、先刻の演習場で繰り広げられた悍ましい光景が鮮烈に蘇る。
あの決闘が正式に開始される直前、普段なら他人に挨拶することすら声をつまらせていたあの臆病なハムスター少女は、あろうことか審判席の教官へと振り返り、常軌を逸した愚問を投げかけたのだ。
『あの……確認したいんですが。この練習場の古代魔法結界って、致命傷と判定された瞬間に強制的に生命が保護されるから、絶対に死人は出ない仕様なんですよね?』
それは、この学園に籍を置く者であれば誰一人として疑うことのない、あまりにも自明な基礎知識だった。
その瞬間、観覧席を埋め尽くしていた貴族の生徒たちからは嘲弄と爆笑の嵐が巻き起こった。誰もが口を極めて嘲笑ったのだ。
ヴァレンシュタイン家の恥晒しが、四年生の誇る天才剣士に骨の髄まで叩き折られる恐怖に耐えかねて、自分が五体満足で生き残れるかどうかを必死に確認して見苦しく足掻いているのだと。
だが、今となって思い返せば背筋に氷を突き立てられたような悪寒が走る。
彼女は、自分自身の安全を確かめていたのでは断じてなかった。
これから自分が振るう暴力の加減を測っていたのだ。目の前の相手をどこまで情け容赦なく破壊し、叩き潰して構わないのかという限界値を、あらかじめ冷徹に試算していたに過ぎなかったのだ。
そして、開戦の銅鑼が鳴り響いた刹那――全方位から浴びせられていた嘲笑は、文字通り生徒たちの喉元で永遠に凍りついた。
詠唱の破片すらなかった。魔法陣の展開も、高位魔導士特有の魔力の奔流の予兆すら何一つ感知されなかった。
それにもかかわらず、十数メートルも彼方にぽつねんと立っていたはずの小柄な少女の姿が、次の瞬間、全観客の視界から「完全に消失」したのだ。
残像などという生易しいものではない。空間そのものを力ずくで折り畳んだかのような絶対の超速。
この世界の戦闘理論は、あまりにも「魔核」の存在に依存しすぎていた。魔導士であろうと魔法剣士であろうと、敵の体内に巡る魔力の流動軌跡を網膜で捉え、次の一手を先読みすることに慣れきってしまっている。
だが誰一人として想像すらしていなかった。目の前の少女が繰り出したあの戦慄すべき踏み込みと間合いの蹂躙が、自前の魔力など一滴たりとも介在させずに成立していたなどとは。
それこそが、鈴木八重の魂の深奥に刻み込まれていた東洋古流の殺人技――八極門が誇る歩法、「活歩」の真髄。
少女の爪先が青石の床を僅かに撫でるように滑った刹那、彼女の矮小な肉体を導線として、演習場の地下を脈打つ広大な大地マナが一挙に貫通したのだ。
踏み締めた石畳が音もなく微塵に粉砕され、天地の共鳴によって生み出された純粋な物理的運動エネルギーが、四十キロにも満たない羽毛のように軽い肉体を、一瞬にして音の壁を突き破る超音速の領域へと撃ち出した。
天才魔法剣士の瞳孔が驚愕で見開かれたそのコンマ数秒の刹那には、マリーズはすでに死角である彼の懐深くへと幽鬼のように潜り込んでいた。
沈肩、墜肘、捻腰。
――上步撐捶!
活歩の凄まじい慣性エネルギーに、拳先わずか一寸の空間に極限まで圧縮された大気マナを融合させ、完全なる「寸勁」の衝撃波として相手の鋼鉄の胸当てへと叩き込んだのだ。
それは魔術師の放つ攻撃などでは断じてない。純粋な物理浸透の極地。放たれた勁力は瞬時に魔力障壁を素通りし、分厚い胸甲を透過して、鋼板と肋骨をまとめて一息に粉砕し、背中側へと突き抜けるおぞましい空洞を穿ち抜いたのだ。
魔法などではない。それは人体を極限の工作精度を持つ機械へと仕立て上げ、最も野蛮かつ機能的な効率をもって標的を挽肉へと変える、異世界の格闘技術そのものだった。
回廊のアーチを冷たい風が吹き抜け、マリーズの乱れたアッシュグレーの長髪をざらりと揺らした。
長身の獣人女子は、自身の唇を血が滲むほど強く噛み締め、体の両脇に下ろした両拳を無意識のうちに白くなるほど握りしめていた。
目の前の華奢な器の中に、一体どれほどおぞましい怪物が潜り込んでしまったのか、彼女には見当もつかない。けれど、野生の直感だけが確信を持って告げていた。
かつて自分の胸の中に顔を埋めて震え、学園中の理不尽に怯えながら泣き濡れていたあの小さなハムスターは、もう取り返しのつかない過去の彼方で完全に死に絶えたのだと。
そして今そこに立っているのは、この世界の傲慢をその手で跡形もなく引き裂き、粉々に踏みにじる準備を整えた――正体不明の冷徹な侵略者に他ならないのだと。




