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今日もハムスター少女として生きていく  作者: 酣睡


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屈辱に縋る愛など、死しても願い下げだ

細雨煙る早春の空気は、肌を刺すような底冷えを孕んでいる。だが、その薄ら寒き霧の深淵には、万物が息を吹き返そうとする凛とした息吹が、密やかに、確かに蠢いていた。


未だ冬の苦難の名残は去りきらぬものの、奇跡と呼ぶべき生命力が、凍てついた土の底で静かに芽吹き始めている——そんな季節の狭間であった。


マリーズは、訓練場の濡れそぼった冷たい黒石の床に、ただ静かに腰を下ろしていた。その華奢な胸には、己の身の丈ほどもある無骨で重厚な騎士の長剣が抱かれている。


大和の血を引く魂として、八重は無論、日本刀が秘める一瞬の生死を分かつ凄絶な美学を知悉している。


だが、重厚な甲冑が幅を利かせ、幾重もの魔法障壁が張り巡らされたこの異世界において、薄刃の太刀による斬撃は、高密度の装甲を前にしてはいささか分が悪い。


それゆえに彼女は、重量感のあるポメル——柄頭の配重球を備えた両手長剣をこそ好んだ。


全身の骨筋と重力を完全に一体化させ、立ちはだかる障壁を物理の質量ごと粉砕するその重厚な破壊感こそが、すべての虚妄を切り裂く真の殺伐たる道だと信じていたからだ。


冷ややかな雨糸が、手入れの行き届いた、上等な絹糸のごとく艶めく灰色の長髪を滑り落ち、薄手の衣服をぐっしょりと濡らしていく。


だがマリーズは、病み上がりの、内臓にいまだ痛ましい古傷を残す己の肉体など露ほども頓着せず、泥水が広がりゆく広場の真ん中で、ただ静かにその精霊使いの少女の訪れを待っていた。


ほんの数分前、彼女はドウバオに言伝を頼んだばかりだった——マリーズは中央訓練場にてフェイを待つ、正式な一対一の決闘を申し込む、と。


これは、鈴木八重がこの身代わりの器を引き継いで生き直して以来、初めて自ら他者へ叩きつけた挑戦状であった。


前世において世の酸いも甘いも噛み分け、何よりも面倒事を忌み嫌っていたはずの社畜の魂が、退路をすべて断ち切り、正真正銘、本気で戦い抜こうと決意した瞬間でもあった。


この時、数万畝を誇る学院の中央、数十万人を呑み込む壮大な円形観覧席には、噂を聞きつけた学生や教官たちがすでに雪崩れ込み、暗がりに潜む幾人かの宮廷の密偵までもが息を潜めてこの場を見つめていた。


誰もが眉をひどく顰め、その瞳には隠しようもない懸念と、不条理への戸惑いが浮かんでいる。


たとえ過去の一ヶ月間、この幼き少女が神速の居合いと鬼気迫る身のこなしで、幾度となく見る者を呆然とさせる戦果を挙げてきたとしても——本物の職業者の眼から見れば、それらは所詮「児戯の類」に過ぎなかった。


この世界の戦力体系には、決して越えることのできぬ絶対的な天塹が存在する。


——すなわち、「霊装」である。


これまでのマリーズの戦い方は、あまりに苛烈で、あまりに拙速だった。一息の間に肉弾の至近距離へと肉薄し、敵が術式を構築し終える前に勝敗を決してきた。


だが今や、この狂気じみた令嬢の近接における間合いの恐ろしさは全校の知るところとなり、もはや誰も奇襲の隙など与えはしない。


そして、正統な騎士や魔術師がひとたび「霊装」を完全解放すれば、そこに展開される防御結界、魔力増幅、そして世界の法則の具現は、常態の比ではない。


百倍、千倍、果ては頂点に立つ強者ともなれば、数万倍もの隔絶した力となって現出するのだ。


天の寵児たるフェイ・クラインは、精霊の聖域へと直通する至高の霊装をその身に宿し、動く天災そのものへと化すことができる。


だが、マリーズはどうだ。


彼女は帝都にその悪名を轟かせる「無能」の伯爵令嬢なのだ。


霊装の凝縮など夢のまた夢。この少女の剣技がいかに奇怪で獰猛であろうとも、周囲の目には明白だった——彼女の体内には、正統な騎士が持つべき「闘気」の欠片すら存在せず、その肉体の防御力は陶器のごとく脆い。


ならば魔術師としての道を歩んでいるのかと言えば、入学してから今日に至るまで、初歩の火球術の一つすら灯したことすらない。


魔獣が日常のごとく民を踏みにじり、辺境の戦火が絶えぬこの過酷な世界において、純粋な破壊力の上限こそが、一人の人間が尊厳を勝ち得る唯一の物差しである。


マリーズを脆弱だと侮る者こそもはやいなかったが、それでも今の彼女は、息の詰まるような宙吊りの異端として見なされていた。


神兵を握りながらも甲冑と魔力を持たぬ命知らずの博徒。どの職業体系にも分類できぬ、中途半端な「無能の伯爵令嬢」の域を出ていないのだと。


完全武装を果たし、霊装をその身に纏う精霊使いを前にして、この挑戦は衆目の目に、ただ破滅へと突き進む悲壮な独り芝居としか映らなかった。


雨煙は濃さを増し、白亜の大理石の観覧席は死の静寂に包まれる。


マリーズが静かに瞑目し、その呼吸が天地を奔流する湿り気あるマナとまさに溶け合おうとしたその刹那——待ちわびたその人影が、音もなく中央訓練場へと足を踏み入れた。


「……マリーズさん。」


その呼び声は極めて微かで、されど氷晶が砕け散るがごとく透き通り、早春の連綿たる細雨を切り裂いて演練場全域へと響き渡った。


観覧席の万の観衆は、その姿を捉えた瞬間、一斉に息を呑んだ。


それは尋常の戦士が纏う鋼鉄の甲冑にあらず、正統なる魔術師の重々しき法衣でもない。


空霊にして、あまりに聖潔ゆえにどこか不吉な気配すら漂わせる純白のドレス——精霊王族が自らの真名を以て鍛え上げたる「霊装」であった。


いかなる神秘の精霊蚕の糸で織り上げられたのか、そのドレスは朝霧のごとく軽やかで薄く、雨煙の中にあっても濡れそぼることなく、水銀を流したような光の皮膜を湛えて雨粒をことごとく弾き飛ばしている。


生地の表面には、古き精霊の祝祷のルーンが幾重にも織り込まれ、何より見る者の目を奪うのは、ドレスの両脇と胸元に咲き誇る、生けるがごとき白金の花々であった。


それらは刺繍にあらず、無数の精霊たちの本源たる魔力が結晶化して生じた奇跡の顕現。フェイの吐息に合わせて朧げで温かな微光を放ち、薄暗い雨空の下に夢幻の光暈を描き出している。


そして、その細く引き締まった腰の両側からは、幾十枚もの薄羽が層を成して垂れ下がっていた。


蝉の羽にも似た半透明のその翼は、縁に氷藍と浅葱金の微光を揺らめかせ、すらりと伸びた両脚に寄り添うようにして風にそよいでいる。


それは単なる美しき装飾にとどまらず、あらゆる元素の精霊王たちの力が具現化したエネルギーの結晶——魔法帝都学院を瞬時に壊滅せしめるほどの魔力貯蔵庫であり、同時にフェイに大空を自在に御する至高の特権をもたらす翼であった。


歩みを進めるたび、深くスリットの入ったスカートの裾が、微風と薄羽の狭間でかすかに揺らめく。


その白く、すらりと伸びた眩い両脚が、純白と半透明の翼の合間から露わとなり、息を呑むほどの清冷な色香を放つ。張り詰めた空気に呑まれていた観覧席の生徒たちは、喉を渇かせ、思わず胸を高鳴らせていた。


その足元には、天然の水晶から削り出されたようなハイヒール。


湿り気を帯びた黒石の床を踏みしめるたび、踵の落ちる先から淡い青の魔力の波紋が静かに広がり、泥水を退けては燐光の粒となって消え去っていく。塵芥の一つすら、彼女を汚すことは叶わない。


彼女はそうして、現世のものとは思えぬ神聖なる光華を纏い、降りしきる冷雨を衝いて、泥水の中に佇むマリーズの前へと、一歩、また一歩と歩み寄った。


その類まれなる美貌には血の気がなく、己のすべてを焼き尽くさんとするほどの悲壮と、偏執的なまでの頑なさが張り付いている。


マリーズは、緩やかに両の目を開いた。


薄暗い雨雲の下、その本来ならば柔らかなライラック色の瞳の中央に、いつの間にか、血のように鮮烈な紅い光点が凝結していた。


それは火元素の熱にあらず、高階魔導の輝きでもない。いかなる生命の息吹をも完全に削ぎ落とした、永劫の深淵を思わせる死の紅斑。


その紅が眼前の一切を捉えた瞬間、そこには怒りも殺気もなく、ただ魂を生きたまま黄泉の底へと引き摺り下ろすような、凍てつく凝視だけが存在した。


いまや霊装を完全解放し、精霊王たちの神聖なる威能をその身に滾らせているはずのフェイですら、その双眸と視線が交錯した刹那、生物の根源に刻まれた最古の防衛本能が、氷の楔となって彼女の神経を容赦なく貫いた。


ぱちり、と。


フェイの手首で魔力の光暈が乱れ、微かな軋みを立てる。精霊王族の加護に守られた天の寵児が、その両膝を、どうしようもなく小刻みに震わせていた。


「……あなたのその感情は、あまりに歪ですわ」


マリーズは泥水の中に座したまま、長剣を抜き放ちさえしない。薄く紅を差した唇から漏れ出た声はひどく平坦で、どこか掠れた倦怠すら滲んでいた。


だが、その言葉が落ちた瞬間、目に見えぬ冷鉄の鈍刃が奔るがごとく、広大な演練場の全域を何の遮りもなく貫通した。


白亜の大理石の観覧席では、傲慢なる貴族の嫡子も、血風を潜り抜けてきた歴戦の駐屯騎士も、例外なく背筋に冷水を浴びせられたような戦慄を覚えていた。


冷汗が無言のうちに襟元を濡らし、喉が詰まり、狂乱する心臓が窒息を訴える——だが何よりも不気味なのは、誰もが杖や剣の柄を必死に握り締めながらも、この破滅的な恐怖の出所を何一つ理解できずにいることだった。


「……な、何だ、この術式は……!?」


「魔力回路の励起が一切感知できん! 大気を引き裂く闘気の震えすら皆無だというのに……こんなことがあり得るのか!?」


観覧席の最前列に陣取る、辺境の魔獣殲滅戦を生き抜いた数名の帝国の老練なる教官たちが、顔色を変えて探知結界を放つ。


だが、返ってくるマナの反応は完全なる虚無であった。


彼らの知覚において、泥水の中のマリーズは、息も絶え絶えな、力なき病弱の少女に過ぎない。


しかし彼らの肉体と直感は、頭蓋の奥底で「今すぐこの化け物から逃げろ」と、最大級の警鐘をけたたましく乱打していた。


理解できるはずもなかった。


いま、その華奢な肉体から密やかに漏れ出しているもの——それはこの世界の理によって紡がれた力などではなく、純粋なる「鬼気」なのだから。


鈴木八重という魂は、最初からこの世界において「生きて」などいなかった。


前世の日本で過労の果てに力尽き果てた魂は、とうの昔に三途の川の境界を越え、現世を彷徨う怨霊、悪鬼と化していた。


たまたまハムスターのリリが絶望の淵で古代の罠を作動させ、息絶えようとする肉体を投げ出したことで、八重はその本来相容れぬ器の中へと迷い込んだに過ぎない。


彼は生者の皮を被った異形の鬼であり、その骨の髄に染み付いた陰森たる凶刃の気配は、何一つ消え去ってはいなかったのだ。


超常の力が満ち溢れるこの異世界において、人々の抱く「死」への認識は、極めて単純明快であった。


命ある者が死ねば、魂は大半が地脈へと還り、残された執念や暴虐の骸は魔獣へと変異するか、あるいは闇の魔力に侵されて痛覚なき動く死者となる。


この世界の強者たちにとってみれば、たとえ無数の魔潮や白骨の軍勢に囲まれようとも、魔力を帯びた剣を抜き、神聖なる術式を紡ぎさえすれば、それを鎮圧し、浄化するための明確な理と手段が存在した。


魔物は恐ろしい。だがそれは、「既知の脅威」であった。

だが、地球の人々が抱く「鬼」という概念は、まったく異なる位相にある。


それは数千年の文明の歴史において、人が形なきもの、理の通ぜぬもの、人智の及ばぬ不可名状の存在と対峙した際に抱いた、最も根源的な絶望の結晶。


理不尽なる因果であり、正気を侵食する呪いであり、抗いようのない死の淵に立つ生者が捧げた究極の畏怖。


幾千もの世代にわたる生者たちの、血を吐くような恐怖の祈りによって育まれた黄泉の「鬼」の力は、神々の法則すら解析できぬ純粋なるパラドックスとして完成されていた。


未知なるものこそが、最も恐ろしい。


その異界の黄泉の死気が、ライラック色の瞳の中央、血の紅点を媒介として虚空を切り裂いた時、フェイが誇る至高の精霊使いとしての格位は、底知れぬ死の深淵を前にして、風前の灯火のごとく頼りなく揺らいでいた。


「……今日こそ、あなたのその歪んだ感情を、くだらない足枷ごと……」


長剣の柄に置かれたマリーズの指先が、微かな音を立てて鳴る。


「……まとめて断ち切って見せますわ」


陰鬱な春の雨は、なおも演練場へと静かに降り注いでいた。


マリーズが薄く閉ざした知覚の深淵は、蜘蛛の巣のように外の世界へと果てしなく伸びていた。


彼女にはっきりと解っていた。己の魂の奥底に蟠るものは、前世で死して鬼となった凶悪な気配にとどまらない。


かつて東瀛の列島で幾千年も語り継がれてきた古の怪談、妖異の相、さらには高天原と黄泉国の神話に刻まれた荒唐無稽なる神威までもが、この借り物の身体と密やかに共鳴している。


鬼、妖怪、そして神仏の力までもが、いまや彼女の指先に届く場所にあるのだ。


だが、それは無償の恩寵などでは断じてない。


この肉体は所詮、病弱な少女「リリ」の生身の器に過ぎず、薄氷のごとく脆い。常理を逸脱した怪異の神通を過剰に行使すれば、その身体は内側から崩壊の一途を辿るだろう。


速戦即決を強いられた死線であった。


「……歪んでいる? 私には貴女の言っていることが、まるで理解できません……っ」


フェイは美しい眉を痛ましげに寄せ、その清冷なる美貌を隠しようのない悲哀で歪ませていた。彼女には本気で理解できなかった。


これほど間近にいながら、心だけが気の遠くなるほど遠い場所にいる灰色の髪の少女が、一体何を望んでいるのかを。


そしてマリーズの真意を掴めぬ限り、この重苦しい人情の負債を、彼女は永遠に清算することができないのだ。

精霊使いとは、この世で最も過酷な職業である。


高位精霊との契約は、ひとえに魂の波長の純粋な共鳴によってのみ成り立つ。精霊は穢れを極限まで嫌い、背負いきれぬ因果を畏れる。


果たされぬ約束、返す当てのない巨大な恩義は、やがて魂の澱となって沈殿し、精霊使いと精霊の「同調率」を急速に蝕んでゆく。


しかも、交わされた約束に明確な約定がない場合、その誓約の内容は、相手が最後に口にした「具体的な要求」へと自動的にすり替わってしまうのだ。


たとえば、マリーズが口にした「私に心にもない情など向けるな」という言葉は、何をもって虚情とするかの境界が曖昧ゆえに具体性を欠く。


だが、「マリーズの花嫁になる」という条件は極めて明瞭だ。ゆえに秘薬を受け取った際の言葉は無効化され、フェイの魂には「マリーズの伴侶となる」という契約が自動的に刻み込まれてしまった。


このところ、フェイがなりふり構わず名誉を捨ててまでマリーズを追いすがってきたのは、ティナの命を救われたという大恩が、ダモクレスの剣のごとくその頭上に吊るされ続けているからに他ならなかった。


いまの彼女は「必死に埋め合わせをし、全身全霊で贖罪する」という熱狂的な執念によって、精霊王との契約の均衡を辛うじて保っているに過ぎない。


だが、これ以上引き延ばせばどうなるか。罪悪感が取り返しのつかない影となって根を張れば、彼女はこの世界に立つための精霊術そのものを完全に喪失しかねないのだ。


彼女には賭けなどできなかった。エルフの全同胞の未来を背負う彼女に、立ち止まる猶予などない。


「私の両親だって、顔も知らぬまま婚姻を結んだのです!」


フェイの声がかすかに震え、その身を包む白金の魔力が不穏に揺らぎ、春の薄い大気の中に風暴のさざ波を広げてゆく。


「事前の情愛など何一つありませんでした。けれど数十年の歳月を経て、ふたりは互いを敬い、支え合い、今も深く愛し合っています。その温もりのすべてを、私に注いでくれました! 私には分かりません……貴女の言う真実の心とやらがなければ、人は添い遂げることすら許されないというのですか!?」


彼女は完全に追い詰められていた。恐怖と焦燥という二つの見えざる手が、この天の寵児の喉元を締め上げていた。


泥水の中、マリーズは怒ることもなく、嘲笑うことすらしなかった。


ただ静かに、冷たく湿った黒石の床から身を起こす。


ごん、と鈍い地鳴りを立てて、重厚な長剣が彼女の前の泥土へと真っ直ぐに突き立てられた。


早春の冷たい雨が、手入れの行き届いた灰色の髪を一筋、また一筋と伝い落ち、乱れた衣服を濡らし、泥水の中に立つ彼女をひどく痛ましく、頼りなく、零落した姿に見せていた。


対するフェイは、まばゆい光華を放つ霊装を纏い、ドレスの魔力の花々を静かに咲かせ、渦巻く魔力の障壁によって雨粒の一滴すら寄せ付けず、地上に降り立った神祇のごとく神聖で気高い。


一方は泥濘の汚れに塗れ、一方は現世の美の極致。


だが、静かに落とされたマリーズの瞳には、どこか高みから見下ろすような、透徹した憐憫が宿っていた。


「フェイ」


マリーズの声は極めて穏やかで、棘のような皮肉は微塵もなく、ただ魂の真芯を射抜くような問いかけであった。


「あなたの想像の中で、もしも私たちが本当に番いとなったとして……あなたが望む婚姻の暮らしとは、一体どのような形をしておりますの?」


その温かな問いに、張り詰めていたフェイは息を呑んだ。


マリーズが何を求めているのか、彼女にも薄々は分かっていた。これまでの拒絶の端々で、マリーズは「真実の愛」を望んでいるのだと匂わせていた。


だが、その真実の愛なるものが何なのか、彼女には参照すべき具体的な指標が何一つなかった。


彼女の思考はとっくにパニックと自責の泥沼に呑み込まれ、自らの世界観を超える哲学に思いを馳せる余裕など、どこにも残されていなかったのだ。


彼女はただ「解放」されたかった。最も完璧で、誰にも文句のつけようのない対価を差し出すことで、マリーズへの負債を綺麗さっぱり清算したかったのだ。


「貴女の身の回りの世話を、何一つ不自由のないよう尽くします!」


フェイは目元を赤く腫らし、己の持てる手札のすべてを曝け出すように、切迫した声で叫んだ。


「命の限り誠心誠意お仕えし、生涯、貴女ただ一人をお慕いし、決して裏切りません! 財宝であれ、地位であれ、私が奪い取れるものであれば何であろうと望むものを叶えましょう! それどころか……」


彼女は青ざめた下唇を血が滲むほど噛み締め、屈辱と悲壮をその瞳に交錯させながら、自らが考え得る最大の誠意を口にした。


「……もしも血筋を残したいと、貴女の御子が欲しいと仰るのなら、帝都の大聖堂には女性同士であっても子を授かる秘術がございます。私のこの腹で、貴女の御子を産み落としましょう! すべての苦痛も養育も、この身ひとつで引き受けます! これで……これでもまだ、何一つ満ち足りないというのですか!?」


泣き声の混じったその悲痛な叫びが、広大な訓練場に木霊する。


観覧席の身分の低い従者たちは呆然と口を開けていた。


幾柱もの精霊王に愛された至高の精霊使いがこれほどの条件を提示するなど、己の誇りを粉々に砕いて相手の足元に差し出すに等しく、この世界においてこれ以上の施しなど存在しないはずだった。


だが、雨の中に立つマリーズの心臓は、氷の手で握り潰されたかのような、吐き気を催すほどの窒息感に締め付けられていた。


これが何だというのだ。


身の回りの世話? 盲従? 自らの胎をただの繁殖の器として差し出すこと?


そんなものが妻であるはずがない。これは道徳という金粉を塗りたくられただけの、自ら首に絞首縄をかける奴隷の姿そのものではないか。


女性の尊厳を家畜や契約の道具として消費する、この歪み、遅れた世界の理が、天災の力を振るうはずの天の寵児に、これほど当たり前の顔をして、あまつさえ誇らしげに自らを貶める言葉を吐かせているのだ。


「……では」


マリーズの長い睫毛がかすかに震えた。その身を包んでいた凶暴な鬼気は、揺らぐ彼女の心のままに静かに引いてゆき、もはやフェイを圧迫することはなかった。その声は、残酷なまでに優しかった。


「あなた自身は? あなたはその関係から、私から……一体何を得たいと思っておりますの?」


「私が、得たいもの……?」


フェイは完全に言葉を失った。


ぽかんと小さく唇を開き、その整った美貌に、幼子のような無防備な空白を浮かべる。


やがて、彼女は追い詰められたように早口で言い返した。


「私に望むものなどありません! 貴女にお仕えし、満足していただければ、それで十分ではありませんか……っ!」


その貧しい知見の底から、彼女は幼い頃から見聞きし、故郷の長兄や長老たちに称賛されてきた「伝統的な美徳」をがむしゃらに掻き集めてぶちまけた。


欲張らず、出しゃばらず、慎ましく家を守り、子を成し、庭を塵一つなく磨き上げ、己の一生の労苦を捧げて伴侶の安寧を支えること。


彼女の母もそうして生きてきた。記憶の中の故郷の叔母たちも、皆そうやって影のように、誰にも看取られぬまま一生をすり減らしていった。


誰もがそうして生きてきたのではないのか。なぜこの灰色の髪の少女は、まるで死人を見るような、底知れぬ悲哀の目を自分に向けるのか。


「……だからこそ、申し上げたのですわ」


マリーズは力なく、うなだれた。


冷たい雨水が彼女の顎を伝い、足元の泥水へと落ちて、無力なさざ波を散らす。


前世の自由と平等を尊ぶ社会において、八重は無数の魂が愛の名の下に支え合い、風雨の中で互いを温め合う美しい光景を見てきた。


そして今、数万年もの封建の契約が放つ腐臭が、一人の無垢で頑なな少女の手によって「至上の誠意」として捧げられている現実に、マリーズは魂の底から、押し留めようのない無力感と底冷えを覚えていた。


「……フェイ。あなた、本当に何一つ分かっておりませんのね」

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