愛は自由なる想い、罪悪を埋める代償にあらず
白薔薇の冷涼にして気品ある芳香が、昼夜を問わず温室の隅々にまで立ち込めていた。
静養と療養に充てられた日々の中、マリーズは滅多に外へ出ることこそなかったものの、外界の奇怪極まる風聞の数々は、ドウバオが外へ食糧を調達しに出た際に聞き及んできた情報や、オーレリアが時折冷笑混じりに口にする断片的な言葉を通じて、喧騒から切り離されたこの花房へと絶え間なく流れ込んできていた。
その中で最も人々の背筋を凍りつかせていたのは、他ならぬあの平民特待生、フェイ・クラインにまつわる異変であった。
伝え聞くところによれば、あの少女の精神状態はすでに狂気と暴走の臨界点にまで達しており、その全身から放たれる陰鬱な殺気と刺々しさは、学院の尊大極まる老練の教授や宮廷教官たちですら、決して軽々しく関わり合おうとはせぬほどの恐るべき領域に達しているという。
それもそのはず、帝都魔法学院というこの骨まで貪り食う泥沼において、生徒たちの瞳は誰もが禿鷹のように抜け目なく光っていた。
大陸全土の頂点たる権貴が集うこの学院において、足場を固めるための根本とは、決して純粋な学問の修得などではなく、血みどろの「派閥への帰属」に他ならない。
巨木の後ろ盾を得てこそ資源の分配にあずかることができ、確固たる庇護を求めてこそ階級の軋轢に押し潰される犠牲とならずに済むのだ。
そして一度いずれかの陣営に与したならば、残された道はただ一つ、他の派閥を泥濘へと蹴落とし、粉々に叩き潰すことだけであった。
そして今や、マリーズの背後には帝国全土で誰一人として刃向かうことのできぬ絶対の武門、ヴァレンシュタイン家が控えており、彼女自身の意志こそが天秤を揺るがす最も重い分銅となっていた。
貴族と平民の生徒たちの瞳から見れば、この争奪戦の趨勢はすでに火を見るより明らかであった。
正妻の座を射止める可能性が最も高いのは、疑うべくもなく二大公爵家の令嬢たちである。
片や、今や影の形に添うがごとく寄り添い、マリーズを一分の隙もなく己の羽翼の下に囲い込む内政の筆頭――ヴァロワ家のオーレリア。
そしてもう片方は、帝国の通商の命脈を握り、今やあらゆる矜持をかなぐり捨てて猛追を仕掛けているホーエンツォレルン家の三女――イリノー。
かつてマリーズがどれほど冷絶な拒絶を叩きつけたとしても、学院の半数以上の生徒は、依然としてイリノーに起死回生の勝機があると頑なに信じ込んでいた。
理由は他でもない。かつてこの身体の元の主であった「リリ」がイリノーに求愛していた日々の様相があまりに凄まじく、あまりに卑屈で無様であったからに過ぎない。
全校生徒から物笑いの種として公然と侮辱され、冷水を浴びせかけられようとも決して手放そうとしなかったあの狂おしい盲従。
それはかつて彼女へ無数の耳障りな嘲弄をもたらしたが、今この瞬間においては、イリノーの手中に残された最も揺るぎなき切り札となっていたのだ。
イリノーはマリーズが過去の情愛を完全に断ち切ったなどとは信じておらず、傍観する貴族たちもまた同様であった。
彼らの目には、あの身分の低い小娘が追うことに疲れ果て、深く傷つき、極度の失意の果てに、一時的な休息と慰めを求めてオーレリアの柔らかな懐へと逃げ込んだだけに映っていたのである。
何より、眼の肥えた者であれば誰もが気づいていた――マリーズがオーレリアへ向ける態度は、同郷の者と相見えた時のような親しみやすさであり、悪友同士がふざけ合うような距離感すら保たれている。
底知れぬ執着と病的な独占欲を露わにしているのは、端からオーレリアが一方的に囚われているからに過ぎないのだと。
かくして、学院の政治地図は瞬く間に二分された。内政と司法を象徴する「オーレリア派」と、帝国の通商を牛耳る「イリノー派」である。
では、かつて全校生徒から不可侵の平民の女神と持て囃されていたフェイはどうなったのか。
彼女はすでに二大公爵令嬢の手によって盤上から完全に弾き出されていた。それどころか、学院の平民生徒と特権階級の双方が悪意を叩きつける格好の標的となり、誰もが石を投げつける負け犬の境遇へと零落していたのだ。
だが、この世で最も皮肉な不条理とは――
フェイ・クラインという少女は、最初から最後まで、マリーズに対して一欠片の少女らしい「恋情」など抱いていなかったという点にあった。
胸の高鳴りも、頬を染める羞恥も、魂の共鳴を夢見るような浪漫の幻想すらも、そこには何一つ存在しなかった。
フェイが今日この破滅的な袋小路にまで追い詰められたのは、偏に彼女がこの人物へ軽率に関わってしまったからに他ならない。
瀕死の重創を負った無二の親友、ティーナを救い出さんとする一心から、彼女は己の美貌を餌とすることすら厭わず、マリーズの孤独と同情につけ込み、精霊王すら入手叶わぬ命の至宝「万年人参」を騙し取った。
そしてその直後、自らが仕掛けたあの荒唐無稽極まりない関係修復の愚行によって、マリーズを二週間もの人事不省の昏睡へと叩き落としてしまったのだ。
フェイの脳裏には、かつて長廊において、マリーズが冷笑を浮かべながら突きつけてきた無理難題が、今なお焼き付いて離れない。
――「なら、私の嫁にでもなるか?」
マリーズ(八重)の価値観において、それは心に邪な企みを隠した美女を怯ませ、手を引かせるための、軽薄な皮肉と冷酷な拒絶の言葉に過ぎなかった。
しかし、フェイの骨の髄まで染み付いた観念において、それは山のごとく重い「身売り契約」そのものであったのだ。
フェイの目には、マリーズが求めているのは己へ全心全霊で傅き、日々の身の回りを世話し、その奇異な気性を甘受する終身の伴侶に映っていた。
己の命を救われ、相手から途方もない恩恵を貪り食い、あまつさえその恩人を半死半生の境遇へと追い詰めた以上、この世界の鉄の掟に従うならば、己の生涯そのものを対価として弁済せねばならない。
すでに罪人へ身を堕とした以上、彼女は目を固く閉ざし、この暗澹たる不条理の道を最後まで突き進むしかなかったのである。
だが、現実が剥き出しにした悪意は、彼女の想像を遥かに超えて冷酷無惨であった。
二大公爵令嬢の機嫌を窺うため、生徒たちが一斉にフェイへの露骨な孤立化と排斥へ傾いた時、この誇り高き天の寵児の精神的な防壁は完全に崩壊した。
かつて歩む先々で賛美と追従、畏怖の眼差しを浴びていた彼女が、生まれて初めて骨身に染みる「学院の陰湿な虐げ」の洗礼を受けたのだ。
教科書を隠され、私物入れには汚らわしいインクをぶち撒けられ、すれ違いざまに投げつけられる耳を劈く冷笑と嘲弄……。
屈辱に耐えかねて唇を噛み締め、血を滲ませるたび、フェイの脳裏に浮かび上がったのは、かつてあの小柄で孤独だったマリーズが、たった一人でこれら全てを耐え忍んでいた背中であった。
マリーズが過去に幾度となく味わわされてきた生き地獄。
因果応報。これこそが、かつて冷ややかに傍観していた己が背負うべき業罰なのだと。
自責の念とやり場のない屈辱は、やがて破滅的な凶暴性へと転化していった。
その後の数え切れぬ模擬戦の最中、悪意に満ちた包囲と挑発に晒されたフェイは、感情の決壊を起こすたび、通常の召喚階梯をかなぐり捨てて精霊王を戦場へと降臨させた。
暴虐なる神威の余波は、制止を試みた学院の教官たちをその場で血を吐かせ、重創を負わせて薙ぎ倒すほどであった。
そして最も危うかったのは、訓練場の中央において、周囲からの絶え間なき嘲弄と排斥に理性を完全に吹き飛ばされたフェイが、己の全魔力を根こそぎ絞り尽くし、「火炎の精霊王」と「嵐の精霊王」を同時に召喚し放った瞬間であった。
灼熱の劫火と大地を裂く暴風は瞬く間に交じり合い、天を衝く巨大な滅びの火炎竜巻と化して、数万畝に及ぶ帝都魔法学院の広大な要塞都市を丸ごと焦熱の地獄へと引きずり込んだのだ!
あの瞬間、数百人に及ぶ大魔導師級の教官たちが一様に顔色を失い、死力を尽くして結界を張り巡らせてようやく、二大精霊王の気まぐれな神威から校舎群を辛うじて防ぎ止めた。
全学が灰燼に帰す寸前、猛威を振るう暴風の中で虚空の細い影へ向けて悲痛な絶叫を響かせたのは、オーレリアの機転であった。
「おやめなさいフェイ! その余波が広がれば、温室にいるマリーズもろとも灰燼に帰してしまいますわよ!」
その叫びこそが、唯一の制動弁となった。
「マリーズを傷つける」という言葉が耳朶を打ったその刹那、狂乱の内にあった精霊使はあたかも魂を抜き取られたかのごとく契約を強制破棄し、降り注ぐ火の雨の中を力尽きて無様に墜落していったのである。
フェイは生まれながらにして、誰もが嫉妬を覚えるほどに順風満帆な少女であった。
息を呑むほど清麗な美貌を持ち、比類なき魔法の天賦に恵まれ、どこへ行こうとも無数の星々に傅かれる天の寵児。高傲にして孤高を尊ぶ精霊王たちですら、彼女を我が子のように慈しみ、無上の甘やかしを注いでいた。
彼女の人生における唯一の挫折といえば、あの凶悪なる遺跡の迷宮において、計り知れぬ実力を秘めた人型魔物と不意に遭遇したことだけであった。
敵の神速と凶刃はあまりに苛烈を極め、召喚師である彼女に高位の精霊を喚び出す詠唱の暇すら与えず、絶対の死地へと追い詰めたのだ。
その戦いにおいて、親友のティーナが彼女の身代わりに心臓を貫く一撃を受け止め、仮死の淵へと沈んだ。それこそが、フェイが生涯で初めて味わった無力という名の絶望であった。
そして今、マリーズから得た万年人参の霊効により、ティーナはついに息を吹き返した。フェイの胸を圧し潰していた重石は、本来であれば綺麗に消え去るはずであったのだ。
しかし……彼女の魂は、己の内なる倫理の断罪を越えることができなかった。
彼女は、己の卑劣極まる所業を許すことができなかったのだ。
長年虐げられてきたマリーズの孤独につけ込み、己のこの冷たく美しい面輪を武器にして拙劣な色仕掛けを弄し、相手の芯にある不器用な優しさと同情を食い物にして、大陸全土を探そうとも二つと見つからぬ神薬を騙し取った。
あまつさえ目的を果たした直後、己の浅薄極まる行動によって、あの少女をあわや墓穴へと叩き落としかけたのだから。
彼女はマリーズを愛してなどいない。「人を愛する」という感情の味すら、その生涯で知ったことなどないのだ。
されど、毒蛇のごとく昼夜を問わず心臓を貪り喰らう罪悪感と負い目は、狂気じみた歪んだ願望へとその形を変えていた。
――マリーズを守り抜かねばならぬ。
精霊使としての全権能を使い果たそうとも、人間側の全帝国を敵に回そうとも、あの今にも壊れそうな小柄な少女を南方の森林へと連れ去り、古の精霊王族が統べる聖域の奥深くへと永遠に囲い込み、生涯を捧げて風雨を遮り、死に至るまで傅き通すのだと!
これこそが、フェイの貧しい認識の中において、己の重罪を洗い清めることのできる唯一の「代償」であった。
彼女には、マリーズが時折呟く「心の通い合い」や「魂の伴侶」といった甘美な浪漫の響きなど、何一つ理解できなかった。
フェイが育った古びた貧民の集落において、俗世の婚姻とは元よりそのような華美な空談を交わすものではなかったからだ。
彼女の両親もまた、双方の親族と近隣の世話人の仲立ちによって、互いに一度頷き合っただけに過ぎない。祝言を挙げるその時まで、互いの素顔すらろくに知らぬまま、神前へ祈りを捧げ、粗末な帳を下ろし、手探りのまま生涯を添い遂げたのだ。
日々の糧を求め、子を成し、互いに敬意を払い、共に重荷を背負い合う――そこに何処の虚妄なる情愛があろうか。
夫婦とは、本来そのようなものではないのか。
あの者が誰かの温もりを求めているのならば、あの小柄な少女が世界に見捨てられる孤独を恐れているのならば、このフェイ・クラインには、その枕許に生涯寄り添い続け、永劫の安寧を与え、死に至るまで二度と孤独の味を噛み締めさせぬだけの、絶対の自信と覚悟がある。
フェイの硬直した重苦しい古典の価値観において、誓約とは身売り証文に他ならず、命の借りは己の肉身を以て贖うべきものであった。
精霊使とは、この地上において最も「契約」を重んじ、何よりもそれを畏怖する一族である。
その一呼吸、その一節の詠唱、果ては諸界の精霊王たちと結ぶ絆に至るまで、例外なく魂の契約という古の誓約の上に成り立っている。
フェイの凝り固まった世界において、天の下に無償の施しなど絶対に存在せず、理外の神物を手に入れたならば、その背後には必ずや身代を傾けるほどの対価が刻まれているはずなのだ。
しかし、研ぎ澄まされた鈍刀のごとくフェイの霊魂を日夜引き裂いていたのは、親友のティーナを救い出した後に突きつけられた、戦慄すべき一つの事実であった。
各大貴族が血の雨を降らせて奪い合い、精霊王すら捜しあぐねていたあの万年の霊薬を差し出した時、マリーズは最初から最後まで、紙一枚の契約書はおろか、口頭の血誓すら立てることを彼女へ求めなかったのだ。
枷もなく、脅迫もなく、己を牽制するための布石すら何一つ残さなかった。
あの小柄な少女は、ただ無造作に、あるいは煩わしさを振り払うかのような平然たる態度で、天命を覆す至宝を、赤の他人である「裏切り者」の手へと放り投げて寄越したのである。
それはどれほどまでに透き通り、愚かしいほどに純粋な優しさであったことか。
だがそれゆえに、山岳のごとくのしかかる罪悪感と自責の念は、二度と癒えぬ焼き印となってフェイの誇り高き胸の芯を焼き焦がし、夜な夜な彼女の魂を貪り喰らい続けていた。
「……どうしてこんな、手のつけられない事態になっちまったんだか」
ドウバオが寝台の傍らに伏し、黒く長い尾を揺らしながら外界の荒唐無稽な騒動とフェイの自滅じみた暴走を一つ一つ語り聞かせた後、枕に身を沈めていたマリーズは耐えかねたように瞳を閉じ、白く細い掌を微熱を帯びた額へと押し当てて、力のない長いため息を漏らした。
かつて長廊において、あの「なら、私の嫁にでもなるか?」という途方もない言葉を冷笑と共に投げつけたのは、決して卑しい欲望からではなく、フェイの美貌に目を奪われたからでも断じてない。
事の発端は、進退窮まったフェイが口走った、あの己を卑しめる誓いの言葉にあったのだ。
――「私にできることなら、どのような条件でも受け入れます」
マリーズは、魂の底からこの言葉を忌み嫌っていた。
前世において現代の日本の東京という巨大な泥沼を生き抜いてきた鈴木八重は、何らかの目的のために、誓約書の上へ自ら進んで「白紙の小切手」を差し出す愚かな者たちを余りに多く目にしてきた。
当人たちは退路を断つ決死の覚悟を示したつもりでいるのだろうが、法と倫理のタガが外れた暗がりにおいて、人間の悪意と底知れぬ下劣さが、いかに想像を絶する残酷さへと歪み果てるかを知らないのだ。
前世の報道を賑わせた、胸の悪くなるおぞましい闇の数々を八重は決して忘れてはいない。
権力と資本を手中に収めた特権階級の者たちが、その絶大な力に物を言わせ、「いかなる代償も払う」と口にした若い娘たちを言葉巧みに地下室へと誘い込み、自由を奪って玩弄物として弄び尽くした数々の惨劇。
人間が一度でも畏敬の念を失えば、地上にはたちまち地獄の蓋が開くのだ。
ゆえに、あの長廊において、世間知らずなこの美貌の少女が生死を握る強者を前にして、「どのような条件でも」などという白紙の誓いを軽々しく口にした瞬間、八重の内に眠る現代の社会人としての危機意識が一気に跳ね上がったのである。
あの無茶苦茶な条件を突きつけたのは、天の寵児として増長する少女へ手痛い牽制を喰らわせるためであった。
侮辱に近い過酷な要求を突きつけることで、世間の恐ろしさを知らぬ籠の鳥を恐れさせ、己の人生を賭け金にした白紙の約束など二度と誰の前でも口にしてはならぬのだと、骨身に刻み込ませるための手酷い教訓であったはずなのだ。
だがマリーズの誤算は、この異世界の住人の思考回路が、これほどまでに奇怪で偏執的な領域に達していようとは夢にも思わなかったことであった。
フェイは怯むどころか真に受け、「すでにマリーズへと買い取られた品」として己を厳密に位置づけ、この破滅的な独り善がりと執拗な付き纏いを始めてしまったのだ。
さらに厄介なことに、マリーズはその後、フェイのことは伴侶として望んでいないのだと幾度も明確に拒絶し、公然と境界線を引いてみせた。
しかしフェイは、袋小路に迷い込んだ亡者のごとく、頑なに彼女を解放しようとはしなかった。
「……これが、持てる者の盲点ってやつなのかね」
マリーズは苦々しく呟いた。
あまりに順風満帆すぎた過去の歳月が、フェイという存在を、決して折れることのない切っ先ばかりの細剣へと仕立て上げてしまったのだ。
この少女は幼少の頃より無数の賛美と追従、畏敬の念に包まれて育ってきた。類稀なる美貌に恵まれ、魔法の天賦は並ぶ者なく、傲慢な精霊王たちですら彼女を掌中の珠として溺愛した。
その歳月の中で築かれた認知の世界において、周囲の人間とは誰もが彼女へ取り入り、彼女を求め、その歓心を買おうとする存在でしかなかったのだ。
彼女には「拒絶される」という概念そのものが理解できない。
あるいはもっと残酷な言い方をするならば――フェイの認識において、この世界の何者にも、「彼女を拒む権利」など最初から存在しないのだ。
彼女の周囲の環境は、その骨の髄に至るまである一つの確信を擦り込んできた。フェイ・クラインという存在こそが、この大陸において最も完璧で、最も無上の贈り物であると。
だからこそ、己を担保として誰かの手へ差し出す決断を下した時、相手は無上の光栄と歓喜に震えるのが当然であり、天から賜った恩恵を路傍の石のごとく投げ捨てる人間など、存在するはずがないと思い込んでいるのだ。
それは決してフェイ個人の尊大さのみに起因するものではなく、この倫理観の未発達な不条理の異世界が、彼女をそう歪めてしまったに他ならなかった。
美貌を論ずれば帝都に並び立つ者はなく、背景を論ずれば南方エルフ王国の意志を背負っている。彼女には確かに、万民を見下ろすだけの資格があった。
しかしそれゆえに、彼女は美しき檻の中で飼い慣らされた神獣のごとく、真の「人間」というものを何一つ知らなかったのだ。
細雨は変わらず、バロック調の温室のガラス穹頂を叩き続けていた。
マリーズは柔らかな錦の枕に身を沈め、雨水に滲む複雑な幾何学模様を見上げながら、そのライラック色の瞳にやるせない憂いを浮かべた。
……どうやら、身体の自由が利くようになり次第、あの頑なな精霊使を目の前に引っ張り出し、あらゆる欺瞞をかなぐり捨てて膝を突き合わせる必要があるようだ。
オーレリアの口から、この世界の底辺における婚姻制度が、未だに「親の命、媒酌人の言に従い、顔すら知らぬまま曖昧に生涯を共にする」という原初の契約段階に留まっているのだと聞かされた時、マリーズはフェイの抱える重苦しく歪んだ価値観の根源を完全に悟った。
フェイの頭の中において、夫婦とは冷徹な職務の履行に他ならない。貴女が命の薬をくれたのだから、私は生涯の付き添いを差し出す。
貴女が孤独を恐れるのならば、私は彫像のように傍らに侍り、決して寂しさを味わわせない。それこそが、この世の円満というものなのだと。
「……だけどさ、そんなの、愛でもなんでもないだろうに」
マリーズは己の微かに冷えた手の甲をさすりながら、低く独りごちた。
彼女は、鈴木八重なのだ。
満員電車の通勤地獄と息の詰まる激務に苛まれながらも、人権と自由意志の灯火が隅々まで行き届いた、あの現代の地球社会において確かに三十年を生きてきた人間なのだ。
現代文明の世界において、男女の間にどれほど対立やすれ違い、市井の諍いがあろうとも、真に手を取り合って婚姻の門をくぐる者たちは、その胸の奥にひとすじの優しい一線を固く守り抜いている。
それは、互いに独立した個として敬い合い、思い遣り合うことの上に成り立つ深い絆だ。
彼らは対等な人間であって、互いの借りを埋め合わせる奴隷ではない。
日々の暮らしを営むために共に小さな家を掃き清め、明日の糧を得るために風雨の吹き荒れる早朝の電車へと肩を並べて駆け込んでいく。
仕事を終えて帰宅した妻は、外で神経をすり減らし頭を下げてきた夫の疲弊を慮り、玄関に温かな橙色の灯りを残して湯気の立つ家庭料理を整え、「お疲れ様」と微笑みかける。
たとえ会社で上司に酷使され、泥のように倒れ込みたい夫であっても、深夜に不意の雨が降り出し、買い出しに出た妻が駅で立ち往生していると聞けば、迷わず傘を掴み取り、身を切るような寒風の中を小走りで駅へと駆け出していくのだ。雨の帳の中、寒さに震えるその姿を見つけ出すために。
契約の縛りもなく、暴力による強要もなく、どちらの払った犠牲が重いかなどと天秤にかける者もいない。
その不器用で温かな行いの数々は、他でもない……。
ただただ、この冷酷な人の世において、目の前にいるその人を心から、純粋に愛しているからこそ紡ぎ出されるものなのだ。
あなたの弱さを守りたいと願い、あなたが私の疲労を労ってくれる。
これこそが、鈴木八重が生涯の魂を賭してでも守り抜き、追い求めたいと願う温もりであった。
対してフェイがその手中に握り締めているものは、罪悪感と道徳の枷、そして施しという名の冷え切った借用書に過ぎない。
この二つの世界の間に横たわっているのは、魔法や科学の優劣などではない。幾千年もの血の滲むような歩みを経て、人類がようやくその瓦礫の中から咲かせた……「自由と真実の愛」という名の、燦然たる花園の隔たりであった。




