不可解な政治劇と、暗流渦巻く皇位継承
細雨は糸のようにしめやかに、白薔薇の温室に架かるあの精巧にして絢爛たるバロック調のガラス穹頂を、途切れなく極めて優しく叩き続けていた。
チリン、パシャリ。雨粒が弾け散る清涼にして連綿たる音色は、温室の内に満ちる濡れた黒土と咲き乱れる草花の瑞々しく湿り気を帯びた芳香を伴いながら、底知れぬ深淵へと沈淪していた意識の奥底へと、一滴、また一滴と確実に染み渡っていった。
そして、マリーズをあの果てなき暗き微睡みの睡夢から、静かに、優しく呼び覚ましたのである。
彼女は鉛のように重い瞼を、力を振り絞って辛うじて押し上げた。そのライラック色の瞳の中には、昏睡から醒めたばかりの者特有の茫漠とした濁りと、乾ききった困惑がまだ色濃く淀んでいた。
視界に飛び込んできたのは、温室の柔らかな薄暗がりと、ガラス越しに滲む鈍色の光であった。そして、己の身を預ける豪奢な寝台のすぐ傍らには、オーレリアが痛々しいほど危うげに身を寄せていた。
普段の彼女であれば、指先一つの所作に至るまで完璧な貴族の気品を崩すことなど決してなく、纏う豪奢なドレスの襞一つにすら乱れを許さぬあの公爵令嬢が――
今はただ、己の両腕を寝台の縁に無造作に交畳させて枕代わりの支えとし、その精緻を極めた小ぶりな顎を腕の隙間に埋めるようにして、強張り疲弊しきった姿勢のまま深く眠りこけていたのだ。
陽光の輝きをそのまま紡ぎ上げたようなあの燦然たる波打つ金髪は、無防備に乱れて細い肩口へと幾筋もこぼれ落ちており、伏せられたその目元には、極限の心労と憔悴を物語る青黒い隈が、痛々しく張り付いていた。
マリーズは小さく息を呑み、身体を動かそうと試みた。
だがその刹那、視界の端が温室の唯一の出入口に佇む、巨大にして禍々しい影を捉えた。
それは、普段のように毛並みの良い黒い獣耳をぴくぴくと揺らしながら、屈託のない笑みを浮かべて肉を頬張る、あの快活な少女の姿ではなかった。
温室の唯一の扉を完全に塞ぐように蹲っていたのは、逞しく筋骨隆々たる体躯を誇り、全身を夜の帳のごとき漆黒の剛毛に覆われた、犬型の巨大な魔獣であった。
その巨獣は物音一つ立てることなく冷たい扉の前に伏し、あたかも微動だにせぬ黒曜石の門神のごとく、圧倒的な質量をもってそこに鎮座していたのだ。
寝台の上で、シーツと衣服が擦れ合う極めて微細な摩擦音が響いたその瞬間――巨獣の尖った耳が、鋭敏にピクリと跳ね上がった。
次の刹那、その獣は重厚で巨大な頭部を緩慢に巡らせ、金褐色の双眸で以て温室の薄暗がりを一直線に貫き、寝台の上に横たわるマリーズを真正面から射抜いた。
その瞬間、マリーズの心臓はキュッと音を立てて激しく縮み上がった。
それは、深淵の最底辺に巣食う本物の魔獣だけが宿すことのできる眼差しであった。人間的な情緒や甘えの一切を削ぎ落とした、絶対の冷酷、残虐、刃のごとく鋭利極まる殺意の光。
幾千もの死線を潜り抜け、血で血を洗う殺戮の果てに研ぎ澄まされた凶兆と警戒――ひとたび標的と定めた獲物を、命尽きるその瞬間まで絶対に逃さぬ、至死の凝視であった。
だが、己を見つめ返して戸惑うように瞬くマリーズのあのライラック色の瞳を捉えたその刹那――大気をも凍てつかせんばかりであったその凄まじい凶暴性と威圧感は、あたかも初春の陽光に晒された淡雪のごとく、わずか半秒の間に跡形もなく霧散していった。
ブルルッ……バタバタ、バタバタ、バタン、バタン!
巨獣の背後で、まるで太い丸太のような尾が、狂おしいほどに神経質に、そして猛烈な勢いで青石の床板を激しく叩きつけ始めた。重苦しくも狂乱じみた打擲音が、温室の静寂を粉々に砕いていく。
先刻まで地獄の門番のごとき圧倒的な威圧感を放っていたその巨躯は、分厚く重厚な足取りを踏みしめ、二歩三歩と寝台の傍らへ転がり込むように突進してきた。
鋼の装甲すら容易く引き裂く鋭利な爪をこれ以上ないほど慎重に肉球の奥へと引っ込めると、漆黒の毛並みに覆われた巨大な頭を、マリーズの華奢で小さな手の甲へと優しく、壊れ物を扱うように擦り寄せる。
そして喉の深淵からは、感情を抑えきれぬように、まるで愛らしい子犬が母を慕って甘えるかのような、甲高い「キュン、キュン」という歓喜と安堵の鳴き声を漏らし始めたのだ。
「……ん……っ!」
青石の床を連打する尾の鈍い衝撃音と、巨獣が漏らす甘えた咽び泣きに、浅い微睡みの中にあったオーレリアが、弾かれたように跳ね起きた。
オーレリアは勢いよく顔を上げた。乱れ散った金色の後れ毛を直すことすら完全に忘れ、名門貴族の令嬢が何よりも重んじるべき優雅な身だしなみや体裁すら一切顧みることなく、彼女は取り乱したように、マリーズの冷え切った細く小さな手を力任せにギュッと握り締めた。
そのエメラルドの瞳は眼前の少女の顔に狂おしく釘付けとなり、その底には、もはや隠そうともしない剥き出しの恐怖と怯えが激しく渦巻いていた。
「……八重? 八重なのね……?! 意識は戻ったの?! 私のことが、一体誰だか分かりますこと?!」
常に幾重もの謀略を巡らせ、冷徹な支配者として万事を掌握してきたあのオーレリアが、これほどまでに脆く、今にも崩壊しそうなほどの驚愕と狼狽を晒していること。
そして視線を傍らへと落とせば、人間の姿を維持することすら叶わず、やむなく狂暴な魔獣の本相を露わにしたまま必死に擦り寄ってくるドウバオの姿。マリーズの胸の奥底に、底知れぬ不吉な予感が鉛のように重くのしかかった。
言葉にすることのできない鋭敏な第六感が、事態の深刻さは己の想定の枠組みを遥かに超え去っているのだと告げていた。そして突きつけられた現実は、その予感通りにあまりにも無慈悲であった。
オーレリアが震える声音で、途切れ途切れに紡ぎ出す説明に耳を傾けるうち、マリーズの端正で小柄な顔立ちは、みるみるうちに血の気を失い、凍りついていった。
……己は、丸二週間近くもの長きにわたり、完全に人事不省のまま昏睡し続けていたというのか。
この丸々十四日間というもの、彼女の意識は底知れぬ死の海へと深く沈み込み、外界からのいかなる必死の呼びかけにも、注入されたいかなる魔力の刺激に対しても、一切の生体反応を示さなかったのだ。マリーズは無意識のうちに唾を飲み込んだ。
その小さな頭の中にまず真っ先に浮かび上がったのは、あまりにも荒唐無稽で場違いな疑念であった――まさか、あのイチゴジャム塗れの二枚の下着には、フェイとイリノーの手によって、何か古代の凶悪極まる呪詛の類でも編み込まれていたのではないか?
さもなければ、ただ果実のペーストを塗りたくられた下着を目の前に突きつけられた程度の精神的動揺で、己のような百戦錬磨の武芸者が、二週間もの仮死状態へと一方的に叩き落とされるなど、到底道理が通るはずがないではないか。
オーレリアは、この魂の特異な思考回路を誰よりも痛いほどに熟知していた。
焦点を微かに宙へと彷徨わせるそのライラック色の瞳を見つめただけで、八重のどこかズレた頭が、またしても突拍子もない荒唐無稽な妄想の彼方へと逃避を始めていることを、彼女は瞬時に見抜いたのだ。
公爵令嬢は痛ましげに細いため息を一つ零した。そのエメラルドの双眸の奥底には、胸を締め付けられるような慈しみと、深すぎる自責の念が昏く滲んでいた。
「……おかしな邪推は金輪際おやめなさい。あのような悪趣味極まる布切れの呪いなどでは、断じてありませんわ」
オーレリアは小さく息を吐き出しながら、さらに身を乗り出した。
日頃の行き届いた手入れによって滑らかでありながら、連日にわたる不眠不休の看病によって冷え切ってしまった掌を伸ばすと、マリーズの眉間に寄った微かな皺を、極めて優しく解きほぐすように撫で下ろした。
そしてそのまま、微熱を帯びて冷たい頬の輪郭を伝い、痛々しいほどに痩せ細ってしまった顎先へと、慈しむように指先を滑らせていく。
指先に触れる素肌の質感は、まるで力を込めれば一撃で砕け散ってしまう薄氷の陶器のようであり、薄い皮膚の下で微弱に、頼りなく脈打つ儚い拍動が、克明に指腹へと伝わってくる。
オーレリアの瞳の奥に、前世の「桐生蓮」が決して鈴木八重の面前では見せることのなかった、剥き出しの脆さと痛惜の光が揺らめいた。
「八重……あなたのこの肉体は、元よりあまりに脆く儚いものなのよ。この身体の元の主ですら、生前は病に臥せりがちだった、風が吹けば倒れるようなか弱い令嬢に過ぎなかった。それなのに……あなたはこの世界へ転がり込んできてからというもの、演練場へ立つたびに、一体全体どのように戦ってきたとお思いなの?」
マリーズは居心地の悪さに視線を微かに逸らし、その熱を帯びすぎた眼差しから逃れるように、薄く紅い唇を頑なに真一文字に結んだ。
無意識に両の拳を握り締めようとするものの、指先をわずかに動かそうとしただけで、骨の髄まで染み渡るような重苦しい痛怠さと酸痛が、全身の神経を鎖のように縛りつけていることに気づかされる。
その強がるような不器用な横顔を見つめ、オーレリアは自嘲するように口元を歪めた。そして肩口から滑り落ちかけていた衣服を静かに引き上げ、その襟元を整え直しながら、震える声を必死に抑え込んで言葉を重ねた。
「あなたは天才よ、八重……昔から、いつだってそうだった。あなたはこの世界に生きる常人が辿るべき正常な魔力回路をことごとく無視し、前世で培ったあの『気』への超人的な知覚のみを頼りにして、この小柄な女の身体を筒抜けの漏斗のように扱い、大気の中から狂乱の如きマナを際限なく強奪し続けてきたのよ」
ガラス穹頂を叩く微雨の音は今もしめやかに続き、規則正しく響く水滴の余韻が、温室の重苦しい死寂をいっそう際立たせていく。
ドウバオの漆黒の毛並みに覆われた巨大な頭部が、マリーズの手元へとそっと擦り寄せられ、咽喉の奥から微かな喉鳴りを漏らした。
まるで、オーレリアの告げる峻厳な糾弾が寸分の狂いもない真実であると、無言で肯定するかのように。
マリーズはライラック色の瞳を伏せ、タコひとつできていない己の白く細い、華奢極まりない両の手を見つめながら、演練場において大地を両断し、歴戦の猛者たちを撫で斬りにしてきた数々の苛烈な斬撃の感触を、脳裏の中で静かに手繰り寄せていた。
「あれほどの殺人的な高負荷を伴う重剣の連撃や、肉体の限界を無視した瞬身の刺殺術など……未だ発育すら覚束ない女の身体で、受け止め切れるはずがないでしょう」
オーレリアは衣服を整えていた手を引き、今度はマリーズのその小さな手を両の手で大切そうに包み込んだ。自らの体温を一筋ずつ注ぎ込むかのように、壊れ物を扱うような手つきで包み込む。
彼女の声は極めて静かで、穏やかですらあったが、それゆえに無謀な賭けを断罪する審判のような冷たい重みを帯びていた。
「あなたの内臓も、筋肉も、神経の一筋に至るまで……あなたが繰り出し続けたあの狂暴極まる闘法によって、疾うの昔に千々に引き裂かれ、擦り切れ果てていたのよ。今まで倒れずにいられたのは、あなたの理不尽なまでに強靭な意志の力と、大気から無尽蔵に供給されるマナの奔流によって、無理矢理にその場を繋ぎ止められていたからに過ぎない」
公爵令嬢は深く、重く息を吸い込んだ。その美しいエメラルドの瞳に、思い出すだに恐ろしい戦慄の雫を微かに滲ませながら、まるで悪夢を彷徨うかのような低い声で呟く。
「……長廊でのあの下らない茶番など、崩壊の引き金となった些細な切っ掛けに過ぎないわ。あなたを真に打ち倒したのは、この一ヶ月の間に肉体へと積み重なり、濃縮され続けた過負荷の反動が一瞬にして決壊したことよ。あなたの身体は……すでに極限を超え、完全に限界を迎え、強制的に活動を停止したのよ」
オーレリアの痛切にして理路整然たる告解に耳を傾けながら、マリーズは枕へと深く頭を沈め、己の手のひらをじっと見つめ返した。
彼女の認識において、この世界の超常の力には極めて明確な境界線が存在していた。
いわゆる「魔力」とは、人間や知性ある生命が体内の魔核を通じて、己の生命力と精神力を擦り減らしながら精製する自家発電のエネルギーであり、乱用すれば当然ながら肉体は枯渇し、脱力と衰弱をもたらす。
対して「マナ」とは、大気や自然の森羅万象に遍在し、汲めども尽きぬ天地の霊気そのものである。
前世の武術の境地において、天地自然の力を借り受けて技を放つことこそ、己を損なわぬ至高の極意であるはずだった。
外界のエネルギーを右から左へとただ流すだけであるならば、理論上は肉体に過度な負担など掛かるはずがない――そう信じ込んでいたのだ。
だが、マリーズは今になってようやく痛感したのだ。天地を満たす自然のマナとは、決して穏やかで従順な小川などではない。
それは荒れ狂い、触れるもの全てを押し流す暴虐の大河そのものなのだ。そして現在の彼女の肉体は、薄く脆い一握りの白磁の盃に過ぎない。
激流を無理やりにその小さな器へと注ぎ込み、天地を揺るがす神速の一撃を放つたび、その脆い白磁の表面には、肉眼では捉えきれぬ無数の蜘蛛の巣のごとき亀裂が、確実に刻まれ続けていたのだ。
この一ヶ月の間、彼女が誇り、いかなる敵をも一撃で屠ってきたあの絶対の必殺技は……その本質において、断崖絶壁の縁で舞い踊るような、己の命の火を削り続ける過負荷の自殺行為に他ならなかったのだ。
マリーズがライラック色の瞳を伏せ、華奢な指先を所在なさげにシーツの上で丸め、己の無謀を省みる姿を見て、オーレリアはこの人が問題の核心を完全に理解したのだと悟った。
何につけても、この欺瞞と権謀が渦巻く異世界において、誰よりも真摯にこの身体の行く末を案じているのは、紛れもなく鈴木八重その人なのだから。
八重には、この小柄な女の肉体を永遠に我が物にしようという野心など微塵もなかった。
彼女は生死の境界を踏み越えてこの地へと至り、当初からまるで苦行僧のごとき厳格な一線を己に課していたのだ――この過酷な帝国学院において揺るぎなき威信を打ち立て、純粋な武力をもって誰も冒すことのできぬ棘の鎧をこの身に纏わせること。
そして、マリーズを心から愛し、そのすべての欠落と脆さを包み込んでくれる伴侶を見つけ出すこと。
万事の準備が整った暁には、彼女は何の未練もなく身を引き、功成り名を遂げて立ち去る腹積もりであった。かつて果てなき孤独と周囲の冷笑に耐えかね、禁足地へと身を投げて死の罠を作動させ、抜け殻となって世を去った小さなハムスターの魂――リリへと、この丹精込めて鍛え直した身体を無傷のまま返還するために。
八重は、マリーズという器の皮相に一片の執着も抱いてはいなかった。狂乱の如く剣を振るい、命を削って敵を鏖殺してきたのも、すべてはリリの未来に「道を敷く」ための布石に過ぎない。
たとえあの臆病な小動物が戻ってきた折、この苛烈な武芸を完全に行使できずとも……少なくとも、この世界の何者も彼女を踏み躙り嘲笑うことなどできぬように。暗く冷たい片隅で、孤独に震える絶望を二度と味わわせぬように。
ペタン、と。
巨大な黒犬が、冷たい青石の床へと重厚な顎を投げ出し、溜息のような重苦しい喉鳴りを漏らした。
耳をぺたりと垂らし、見る影もなく落ち込んでいるドウバオの姿を見つめ、マリーズの胸の奥にぎゅっと締め付けられるような痛みが広がった。己が倒れ伏したあの瞬間、最も深い苦悩と絶望に苛まれたのは、間違いなくこのドウバオであったはずだ。
この黒髪の獣人少女は、人間社会の巡らす権謀術数や醜悪な腹の探り合いを何よりも不得手としていた。ドウバオにとって、大切な友が眼前から唐突に掻き消えるという引き裂かれるような喪失を味わうのは、すでに二度目なのだ。
リリの魂が完全に霧散したわけではなく、ただ救いを求めて天地を放浪しているに過ぎず、肉体が保たれている限り再会の希望は潰えていないのだと知らされてはいた。
しかし……もし今この身体を統べる鈴木八重が無軌道な過負荷の戦闘によって命を散らし、肉体の生命活動が完全に途絶えてしまったなら。
そしてリリの魂が戻らぬまま終わりを迎えたなら……その時こそ、マリーズという存在は、この世界から永遠に失われてしまうのだ。
ドウバオは、そのような破滅を断じて許容できなかった。彼女は、眼前のオーレリアとは根本から異なっている。
オーレリアの視界にはリリの影など最初から存在しない。あの公爵令嬢が執着しているのは、ただ肉体の奥底に眠る日本からの魂のみであり、身体の真の主の生き死になど歯牙にもかけず、器としか見做していないのだ。
だがドウバオにとって、どれほど周囲から虐げられ孤立しようとも、寮室に戻れば涙を拭い、最後の一欠片の黒パンを差し出して己を温めてくれたあのリリこそが、命を賭しても守るべき無二の親友であった。
されど同時に……ドウバオは、もう一つの抗えぬ情愛に深く囚われていた。
彼女は、あまりに愛おしく思っていたのだ。「日本」なる遥かなる国より来たりし、この大層に強大で、どこまでも優しく、常に己の前に立ちはだかって庇い続けてくれる大兄の魂を。
静まり返った夜半の帳の中で、耳にしたこともない不可思議で心躍る故郷の物語を語り聞かせてくれるその姿を。
白薔薇の温室の炉の前で腕を振るい、未知の調味料と食材を組み合わせて至高の異国の料理を創り出し、慈しむような眼差しで己の口へと運んでくれる、あの温かな手を。
鈴木八重がドウバオに注ぐ情愛は、常人の想像を遥かに超越していた。
八重自身にとっては、前世において激務に追われ、犬を飼うことすら叶わずに過労死した一介の社畜が、目の前の無垢で忠誠心に満ちた大型犬を前にして抑えきれなくなった「愛犬本能」に過ぎなかったとしても。
長きにわたり差別の吹き溜まりで飢えと寒さに震えていた獣人の少女にとって、その無償の庇護と温もりは、千金をもってしても購えぬ魂の救済であったのだ。
「……何はともあれ、今は余計な思索を絶って静養に専念なさい」
オーレリアの凛とした冷ややかな声音が、温室を満たす沈黙を切り裂いた。彼女はマリーズの手を静かに解き、優雅に上体を起こしたが、そのエメラルドの瞳の深淵には氷雪のような冷徹さが凝結していた。
「……これからあなたが直面せねばならない後始末は、身が持たないほどに山積みですもの」
マリーズは小さく眉をひそめ、そのライラック色の瞳に困惑の色を滲ませた。あの茶番はすでに幕を下ろしたはずではないのか。長廊の混乱が、これ以上いかなる厄介事を引き起こすというのか。
「まだ頭が十分に覚醒していらっしゃらないようね、八重」
オーレリアの紅い唇が微かに弧を描いたが、そこには温もりなど微塵もなく、骨身に染みる冷笑と嘲弄の気配のみが宿っていた。
「よくお考えなさい……あの長廊には、何十人もの生徒の目がありましたのよ。あなたがあのおぞましい『神聖なる至宝』とやらを突きつけられた直後に昏倒し、そのまま二週間もの間、死人のように眠り続けたのよ? 全校生徒から雲の上の存在と崇められていたあの二大『女神』が、今どのような精神の破滅に苛まれているか、想像がつかなくて? そして学院の外――この帝都全土が、あなたのその長き微睡みによって、いかに天地の引っくり返るような大騒乱に叩き落とされたか、お分かりにならないこと?」
その宣告は、巨大な鉄槌となってマリーズの甘い見通しを粉々に粉砕した。冷たい汗が、音もなく背筋を伝い落ちていく。
長廊のあの一幕を目撃していた貴族の子弟は、数十人を下らない。
名門ヴァレンシュタイン伯爵家の令嬢が、ホーエンツォレルン家の三女と平民の特待生から怪異な贈り物を手渡された直後、呪殺されたかのごとく仮死状態に陥り、丸十四日間にわたって生死の境を彷徨った――その醜聞と凶報は、まるで帝都を薙ぎ払う黒死病の猛威のごとく、瞬く間に各大貴族の閥族を震撼させていたのだ。
それどころか……領地に控えていた、あの暴虐と武名を轟かすヴァレンシュタイン直系の兄姉たちまでもが、この事態を嗅ぎつけてしまったのだ!
「あなたが倒れて四日目には、あなたのご兄姉たちが血相を変えて学院の正門へと押し寄せてまいりましたわ」
オーレリアはこめかみを細い指先で押さえ、その双眸に珍しく濃い疲労の色を滲ませた。
「あの狂人どもめ……連中の放つ剥き出しの殺気だけで、正門のバロックの石柱にひびが入る寸前でしたのよ。もし私が極秘裏に情報を遮断し、あなたを私の私有温室へと強制的に匿っていなければ……天地を揺るがすあの方々の手によって、この学院はとっくに瓦礫の焦土へと変えられていたことでしょうね」
あの夜の対峙を振り返るだけで、未だに薄氷を踏むがごとき極限の綱渡りであった。
実体ある刃と化した殺気を放ち、帝都の半分を灰燼に帰すことも厭わぬあの弑神の怪物たちを前に、オーレリアはヴァロワ公爵家の司法の権威と威信をすべて賭け金として積み上げ、自らの手で必ずやマリーズを目覚めさせると誓約してみせたのだ。
常軌を逸した身内への過保護に狂うあの修羅たちを完全に押し留めるため、オーレリアは前世の秘密が露見する破滅的な危険を冒してまで、八重が倒れる前に創り置き、氷室に厳重に封印されていた「水信玄餅」を持ち出すことすら余儀なくされた。
黒蜜ときな粉の海に浮かぶ、奇跡の如き透明な水滴を銀盆に載せ、彼女は血に飢えたヴァレンシュタインの継承者たちを前に、一片の動揺も見せず偽りを並べ立てたのだ。「これぞ極東の秘境より伝わりし、この温室の特異な大気の中でこそ霊効を宿す魂魄の霊薬である」と。
戦場に名を馳せるヴァレンシュタインの殺神たちは、公爵令嬢の虚実入り乱れる弁舌に完全に幻惑され、無表情のままその冷涼で甘美な透明の雫を呑み干した。
すると、荒れ狂っていた己の魔力が奇跡的に鎮静するのを肌身で感じ、辛うじて疑念を孕んだ殺気を収め、城外の兵営へと引き揚げてくれたのだ。
だがそれすらも、水面に生じた小波に過ぎなかった。
「真の致命的な嵐は、宮廷の深奥にこそ吹き荒れていますわ」
オーレリアは静かに身をかがめた。そのエメラルドの双眸は底知れぬ深淵の如く昏く沈み、吐き出す言葉の一つ一つが、薄刃のように冷たく研ぎ澄まされていた。
「あなたのその長き眠りが、帝国の頂点に張り巡らされていた薄紙の如き政治の均衡を完全に引き裂いてしまったのよ。皇帝陛下の御身は衰弱の一途を辿り、皇権の動揺はもはや覆しようのない既定路線。そして半月前、宮廷の奥深部より密勅が下されたわ――陛下は今年のうちに、正式に皇太子を冊立される仰せよ」
マリーズの瞳孔が、恐怖に細く引き絞られた。
十六人の皇子。帝都の暗がりに蠢き、獲物を狙って目をギラつかせる十六頭の皇室の豺狼たち。
このような混迷の極みにおいて、死屍累々の骨肉相食む継承権争いを勝ち抜き、至高の玉座を掴み取らんと欲するならば、外部から引き込めるいかなる強大な力であれ、血で血を洗う争奪戦の火種となる。
そして、建国以来いかなる政争にも決して関与してこなかったヴァレンシュタイン家こそが、皇子たちの誰もが喉から手が出るほど欲し、されど最も恐れ慄く至高の果実であったのだ。
ヴァレンシュタイン家が政治に背を向け続ける理由は、あまりに残酷で、あまりに滑稽であった。天はこの一族に、大陸全土を踏み躙る絶対の武力と戦場の嗅覚を授けた。
しかし運命は、すべての恩寵を一門にのみ注ぐほど寛大ではない。
ヴァレンシュタインの者たちは戦況の推移には神がかり的な鋭さを誇るが、いざ政争という名の泥濘に足を踏み入れれば、暗器と舌先が飛び交う権謀術数の罠に嵌まり、煮え湯を飲まされた屈辱の歴史は族譜の頁を埋め尽くすほどであった。
もし帝国全土の文官と貴族たちが、戦場におけるあの一門の破滅的な報復を骨の髄まで恐れていなければ――誰一人として最後の一線を越える勇気を持たなければ――ヴァレンシュタインなど、帝都の百戦錬磨の官僚どもによって、疾うの昔に生きたまま皮を剥がされていたはずなのだ。
「現在、局面は完全に統制を失っていますわ」
オーレリアの指先が、規則正しく冷たいリズムを刻んで寝台の縁を叩いた。
「第二皇子はすでに『功臣の血統を見舞う』という大義名分を掲げ、学院へと三度も公式の親書を送りつけてきています。強引に介入を果たし、この機に乗じてヴァレンシュタイン家へ恩を売る腹づもりなのは明白ですわ」
「そして八重……あなたはこの学院において、あまりに目立ちすぎてしまったのよ」
公爵令嬢の視線が、マリーズの蒼白にして精緻な貌へと冷徹に突き刺さる。そこには無念と、隠しようもない狂おしい情念が綯い交ぜになっていた。
「あなたはあの一撃で、ホーエンツォレルン家のイリノーを、そしてヴァロワ家の正統なる後継者たる私を、同時にこの泥沼の渦中へと引きずり込んだ。さらにはあの平民特待生のフェイ・クライン――あの女の背後には、エルフの王国全土の意志が控えている。あの者に手を下すことは、南方大森林の全勢力に宣戦布告するに等しい。……そして、私たち三人が同時にあなたを欲し、奪い合っていると知れた時……周囲がそれをどう解釈するか、あなたにお分かりになりますこと?」
商業の覇者、内政の首魁、武力の頂点、そして世外に聳える精霊の王国……。
本来であれば不可侵の境界を保ち、絶妙な均衡を保ち続けていた四大公爵家と帝国の諸巨頭が、あろうことか長廊において「イチゴ味のパンツ」を突きつけられて気絶した一人の小柄な少女の手によって、逃れ得ぬ同一の暴風の目へと無理矢理に縛り上げられてしまったのだ!
長廊でのあの荒唐無稽極まりない喜劇は、腹に一物ある帝都の政治屋どもの歪んだレンズを通じ、「ホーエンツォレルン家が呪いの具を用いてヴァレンシュタインの息女を籠絡せんとし、ヴァロワ家がその人質を奪って監禁し、エルフの使徒が暗躍して情愛の呪縛を仕掛けた」という、戦慄すべき国家転覆の陰謀劇へと仕立て上げられていた。
帝国の凪いだ水面は、すでに粉々に砕け散った。
マリーズという名の特異点を核として渦巻く皇権奪還の嵐は、誰も予測できぬ狂瀾を巻き起こしながら、底知れぬ暗黒の深淵へと向かって咆哮を上げ始めていた。




